映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

オーバー・フェンス

2016年09月26日 | 邦画(16年)
 『オーバー・フェンス』をテアトル新宿で見ました。

(1)『FOUJITA』(2015年)で好演したオダギリジョーの主演作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、カモメが空を飛ぶ映像が少しあって、タイトルが流れます。
 そして、函館職業訓練校の喫煙室。
 そこにいる訓練生は、皆、作業服を着てタバコを吸っています。
 白岩オダギリジョー)が、年配の勝間田鈴木常吉)に向かって、「もともとは何やってたんですか?」と尋ねると、勝間田は「居酒屋」と答え、白石は「すごいっすね」と応じます。
 また、代島松田翔太)が、「白岩さん、女いるんですか?」と訊くと、白石は「いない」と答えます。

 チャイムが鳴ると、訓練生は喫煙室から出て、実習室の方に行きます。
 実習室では、訓練生たちは大工仕事をしています。
 教官の青山中野英樹)が、満島真之介)に対し「またノミ研ぎをサボったな」と叱り、皆に向かって「道具の手入れも大事な仕事なんだ」「手入れをサボると、自分が大変になる」と言います。

 次いで、訓練生はグランドにゾロゾロ出てきます。
 青山教官が、「ダラダラすると、怪我するぞ」「キャッチボールから始める」と言うと、訓練生たちは2人一組になってキャッチボールをし始めます。

 授業が終わって、白岩が自転車に乗って校門のところに来ると、代島が「今日、飲みに行きません?」と尋ねるので、白岩は「今日はちょっと」と言って断ります。



 白岩は、コンビニで唐揚げ弁当とビールを買います。
 コンビニを出てくると、外にある車のソバで男と女が言い争いをしています。
 女は(注2:蒼井優)で、男に対し「愛情表現してる?」と尋ね、「タチョウだって愛情表現するよ」と言い、ダンスをしながらその真似までするのです。
 困った男は、「わかった」と言ってコンビニ店に入っていきます。
 残された聡は、自分のダンスを見ていた白岩と目が合います。



 こうして白岩とさとしとが初めて出会いますが、さあ物語はこれからどうなるのでしょうか、………?

 本作は、『海炭市叙景』(2011年)と『そこのみにて光輝く』(2014年)に続く「函館3部作」(注3)の最終章。離婚して故郷の函館に戻り、大工になるべく職業訓練校に通う男が主人公。男は、別れた妻や子どものことや函館にきてから付き合いだした女のことなどについて、なかなかきちんとした姿勢が取れないままに日々が過ぎていきますが、云々といった物語。めぼしい出来事が起こらない展開の中に、静かな佇まいの主人公や、逆に特異な行動をする女のことがじっくりと描き出されていて、味わい深い映画に仕上がっているなと思いました。

(2)映画を見終わってから、本作の原作を、長いものではないので読んでみました(文庫版で90ページくらい)。
 当然のことながら、色々違っています(注4)。

 大きく異なるのは、蒼井優が扮する聡でしょう。
 本作では、昼は函館公園内の遊園地「こどものくに」でバイトをし、夜はキャバクラで働いているという設定ながら(注5)、原作では、単に花屋の娘に過ぎません(文庫版P.51)。
 ただ、松田翔太扮する代島が聡を白岩に紹介するところ(注6)、代島の雰囲気からすれば(注7)、花屋の娘というよりもキャバ嬢の方が、彼の知り合いらしい感じがします(注8)。

 それに、見る者に強い印象を残す彼女のダンスは、本作独自のものです(注9)。
 このダンスは鳥の求愛行動を表現していて、最初に見た時には、映画における白岩同様、とても奇異な感じを受けましたが、聡がバイトをしている函館公園内には「ミニ動物園」が設けられていて、聡が、そこで飼われている様々の鳥の行動を見てダンスに取り入れていると考えれば、納得できます。
 それに、聡がそんな奇矯な行動をするからこそ、妻と別れて函館に戻ってきて何かと沈みがちな白岩にアピールしたとも言えるでしょう。
 そして、そんなダンスをする女というのであれば、花屋の娘よりキャバ嬢という設定の方が見る方としても受け入れやすいように思います。

 原作との違いとしてさらに気が付くのは、登場人物の年齢です。
 原作では、白岩と代島が24歳、森は20歳、北村有起哉)は38歳などとなっています(注10)。
 これに対し、本作では、総じて一回り以上年齢が引き上げられている感じです。
 主な登場人物が職業訓練校の訓練生であることからすると、本作の年齢設定が随分と高いように思えるところ(注11)、白岩などの背景設定からすれば、収まり具合としてはかえって本作の方がいいように思われます(注12)。

 もっと言えば、別れた妻(優香)が函館にやってきて白岩に会うという場面は、原作にはありません(注13)。



 これは、原作でも、本作と同じように、妻の父親から来た手紙(注14)を読んだ白岩が、その手紙を燃やす場面は描かれていますが(文庫版P.15)、それ以上に妻や娘についての記載はありません。
 本作のように妻と白岩とが会う場面を描くとなると、結婚指輪を妻が彼に返したとしても、妻や白岩に未練が残っているような雰囲気が醸し出され、聡から後で「それで、スッキリ?サッパリ」と白岩がなじられるのも当然のような気もします。
 でも逆に、白岩自身としては、その場で涙を流したことによって踏ん切りがついたのであり、聡に向かって大きく舵を切れるようになるのだ、と解釈することもできそうです。

 もう一つ本作と比べるとしたら、「函館3部作」の前作『そこのみにて光輝く』とでしょう。
 同作における主人公の達夫綾野剛)が本作の白岩に、同作の拓児菅田将暉)が本作の代島に、同作に登場する拓児の姉・千夏池脇千鶴)は本作の聡に、それぞれ相当するように思われます(注15)。
 さらに言えば、同作の達夫は、本作の白岩が妻と娘と別れて函館に戻ってきたのと同じように、鉱山で起きた事故がトラウマになって、山を降りて函館に戻ってきています。要すれば、両作とも、その主人公が、行った先で事件を抱え込んで故郷の函館に戻ってきた、というところから映画が始まるのです。

 ただし、本作においては、聡の側の事情はあまり描かれませんが、同作においては、千夏側の厳しい内情がかなり詳しく描かれます(注16)。それで、同作は、ラストでは光明が描かれるとはいえ、全体として暗鬱な雰囲気に覆われています。
 これに対し、本作は、特段明るい雰囲気というわけではないものの、タイトルの「オーバー・フェンス」が表しているようなスカッとしたラストに向けて全体の物語が綴られているように思いました。

 それに、本作では、「ミニ動物園」の白頭鷲の檻の前にいる聡と白岩に、空からたくさんの鳥の羽が舞い降りてくるといったファンタジックな要素も取り入れられ、総じて言えば、どこまでも“静”の白岩とあくまで“動”の聡の対比がなかなか巧みに描き出されているように思いました。

(3)日経新聞の古賀重樹氏は、「リアリズムが持ち味の山下が、一瞬のイメージの飛躍に一筋の希望を託す。高田亮の脚本に血が通い、近藤龍人の撮影が美しい」として★5つ(「今年有数の傑作」)をつけています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「社会の底辺で生きる人々を描く点は同じだが、重い空気が漂う前2作に比べ、突き抜けた明るさがある。常識という名の抑圧を受け入れない聡の純粋さに刺激を受け、生への能動性を獲得していく白岩の心の移り変わりをオダギリが実に自然に演じているのだ」と述べています。



(注1)監督は、『苦役列車』や『もらとりあむタマ子』の山下敦弘
 脚本は、『きみはいい子』の高田亮
 原作は、佐藤泰志著『黄金の服』(小学館文庫)所収の中編「オーバー・フェンス」(既読)。

 なお、出演者の内、最近では、オダギリジョーは『FOUJITA』、蒼井優は『家族はつらいよ』、松田翔太は『アフロ田中』、北村有起哉は『駆込み女と駆出し男』、満島真之介は『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』、優香は『人生の約束』で、それぞれ見ました。

(注2)聡は、「(男のような名前をつけられて)苦労したけど、親のこと悪く言わないで」「頭悪いだけだから」と白岩に言います。

(注3)原作者の佐藤泰志は共通していますが、監督は異なります(『海炭市叙景』は熊切和嘉、『そこのみにて光輝く』は呉美保)。
 なお、佐藤泰志は色々の小説を書いているのもかかわらず、どうしてこの3つが選ばれて映画化され、それも3部作とされて、本作が「最終章」とされるのかはよくわかりません。あるいは、3作に「企画」として携わっている菅原和博氏(「シネマアイリス」代表)が何かかかわっているのでしょうか?

(注4)いうまでもなく、映画は映画、小説は小説ですから、違っていること自体は何の問題もありません。

(注5)雑誌『シナリオ』10月号掲載の「脚本家インタビュー」において、本作の脚本を書いた高田亮は、「函館にシナハンに行かせていただいたときに、(プロデューサーの)星野(秀樹)さんの方から、キャバ嬢にしたらどうかという話が出まして」、「「(「そこのみ」と)おなじ感じになりませんかね?」と僕はちょっと抵抗しなんですけど、キャバ嬢にした場合この作品はどういう話になるのかと星野さんと話したら、すごくシックリきたんですよね」などと述べています。

(注6)原作では、まさに代島が白岩に聡を紹介するのですが、本作では、聡が働くキャバクラに代島が白岩を連れて行くと、白岩が聡を見て、あの時コンビニの前にいてダンスをした女だと気がつくのです。

(注7)自分で飲み屋を開業しようと考えています。

(注8)東京で普通の生活を送ってきたようにみえる白岩には、あるいは花屋の娘という方が、受け入れやすいとも言えるかもしれませんが。ただ、妻と子どもと別れ、函館で再起しようとしている白岩には、もう普通の女なら懲り懲りだという感じが残っているのかも知れません。

(注9)上記「注5」で触れた雑誌『シナリオ』10月号掲載の「脚本家インタビュー」において、高田亮は、「星野さんの方から、今回はダンスを入れてくれという提案が最初にありました」、「最初は抵抗してたんですよ」、「嫌だなあと思って」、「(でも)「飲み屋で、鳥の求愛ダンスとかをふざけてやってるキャバ嬢」ということだったらアリだなと思って」などと述べています。

(注10)ちなみに、原作では、聡は22歳とされています。

(注11)原作では、職業訓練校の生徒について、「ほとんどが中学を卒業してそっくりそのまま入って来た連中ばかりだった」とあり(文庫版P.11)、「(代島が)少年院にまぎれこんだような気がすると、珍しく愚痴めいたことを口にした」などと書かれています(文庫版P.7)。
 ただし、白岩らの入っている「建築科だけは違ってい」て、「十五名の建築科の全員は多かれ少なかれ、どこかで働いて失業し、春にここに集まった」と述べられています(文庫版P.11)。
 それにしても、本作の年齢設定は高いのかもしれません。

(注12)上記「注5」で触れた雑誌『シナリオ』10月号掲載の「脚本家インタビュー」において、高田亮は、「(企画)の菅原(和博)さんの方から、登場人物の年齢設定を少し上げて、僕とか星野さんとか監督とかの世代まで上げて、自分たちの話としてやったらどうだという提案がありまして、主人公の白岩が子供と離ればなれになってる感じは、年齢を上げたほうがシックリくるんじゃないかということでした」と述べています。
 ちなみに、高田亮は44歳、山下監督は40歳。そしてオダギリジョーも40歳です。

(注13)本作では、さらにその場面を聡が車の中から見ている場面まで挿入されます。

(注14)なお、原作小説においては、義父からの手紙には「娘(=妻)ももうそちらへ帰る気持ちはまったくない」と書かれているところ、本作では「娘ももうそちらに帰す気はまったくありません」とされています。「帰る」と「帰す」とで書き方が微妙に異なりますが、原作のままでは妻が白岩に会いに来ることはないことになってしまうでしょう。

(注15)本作において、代島が白岩を誘って聡のいるキャバクラに行くのと同じように、同作においては、拓児は達夫を誘って自分の家に連れて行くと、そこで達夫は拓児の姉の千夏に遭遇するのです。

(注16)千夏は、家が貧しいことからパートに出ているだけでなく、スナックで体を売ってもいて、さらには、病気の父親とその介護にあたっている母親がおり、そればかりか彼女は男(高橋和也)と関係を持ってもいるのです(本作でも、最初に白岩と目が合った時に聡が男と関係を持っているように描かれていますが、その後その男は舞台から消えてしまいます)。



★★★★☆☆



象のロケット:オーバー・フェンス