『アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲(プレリュード)』を渋谷のル・シネマで見ました。
(1)『男と女』(1966年)のクロード・ルルーシュ監督の作品ということで映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、本作を監督したルルーシュが画面に登場し、「本作は、私の41本目の作品。今回は日本に行けず残念ですが、次回作(注2)が完成したら東京に行きます」などと挨拶します。
その後、本編が始まります。
まず、混雑した道路に牛が寝そべっている様子とかガンジス川など、よく見かけるインドの都市の光景が映し出され、さらにまた、そうした光景を手持ちの小型デジタルカメラで写し取っている男の姿が映し出されます。
どうやらその男は、映画監督のラウール(ラウール・ヴォーラー)であり、新作のために撮影をしているようです。
場面は変わって、ダンス教室で若い男女がダンスの練習をしています。その中のアヤナ(シュリヤー・ピルガオンカル)に対して、先生は「そうじゃない、こう飛べ。向きを変えてはダメだ」などと厳しく叱責します。
さらにもう一つの場面では、ピストルを持った若い男サンジェイ(アビシェーク・クリシュナン)が宝石店に強盗に入り、宝石を奪って、最初はオートバイ、次いで待機していた車に乗り換えて逃亡します。
それらの場面が何回か交互に映し出された後、ダンスの練習が終わって自転車に乗って帰宅する途中のアヤナが、サンジェイの乗った車と衝突してしまいます。
サンジェイは、そのまま逃亡しようとする運転手に「止めるんだ」と言って、車を衝突現場に戻します。運転手が逃げてしまったので、サンジェイは、傷を負って倒れているアヤナを車の中に運び、「死なないでくれ」と呟きながら病院に急ぎます。
病院に着くとサンジェイは、大声で「重傷なんだ、早く手当してくれ」と叫び、アヤナを手術室に運び込みます。そして、サンジェイが病院から出ようとすると、大勢の警官が待ち構えていて、彼は捕まってしまいます。
留置場の面会室の場面。
監督のラウールがサンジェイと面会し、「君のことを映画にしたい」「現代版の『ロメオとジュリエット』にしたい」と申し入れています。
場面は更に変わって、場所はパリ。
世界的な映画音楽家アントワーヌ(ジャン・デュジャルダン)は、ピアニストのアリス(アリス・ポル)とベッドで話しています(注3)。
次いで、映画音楽の仕事でインドに行ったアントワーヌは、在インド・フランス大使サミュエル(クリストファー・ランバート)が主催する晩餐会(注4)で大使夫人のアンナ(エルザ・ジルベルスタイン)に出会います。さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?
本作でルルーシュ監督が、相も変わらず男女の恋愛を描いているといえばそれまでですが(注5)、舞台をインドにしているところがミソと言えるでしょう。インドの群衆、東洋哲学、神秘的な女性といったものが登場することによって、ご都合主義的なところが多々見られるにしても、まあ許されるかなと思えてしまいます。
(2)本作の導入部では、インドでよく見かける景色が単純に映し出されるわけではなく、上記(1)に記したように、実話に基づいているという設定のインド映画『ジュリエットとロメオ』の撮影風景やその映画のカットが映し出されたりする中で、インドの都市の光景が描かれていて、なかなか巧みな作りとなっています。
そして、本作の主人公・アントワーヌは、そのインド映画の音楽を担当するということで、インドにやってくるわけです。映画の中でも、ディスプレイに映画のカットが映し出されるすぐそばでオーケストラが録音用に演奏し、それをアントワーヌがチェックしているシーンがあります。
このように、さすがルルーシュ監督という出だしながら、物語が展開し始めると、雰囲気がなんだかオカシナなものになってきます。
フランスからやって来た主人公・アントワーヌとフランス大使夫人・アンナとが、大使主催の晩餐会で簡単に意気投合するのはまあかまわないとはいえ、あれよあれよという間に2人だけで旅行するまでに発展してしまうのです。
それも、アントワーヌの方は、ピアニストのアリスがわざわざパリからインドまでやってくるというのに。
また、アンナの方は、愛する夫との間に子供がなかなかできない事態を改善するためという理由で(注6)、霊的指導者アンマ(注7)に会いに旅行に行くと言うのですが。
尤も、アントワーヌの方は、電話でアリスから「結婚して」と言われるものの、その気がない彼は「待ってくれ、後から電話する」と言っているのですから、そんなに問題ないでしょう(注8)。
ただ、アンナの方がどうもよくわかりません。
夫のフランス大使・サミュエルを愛していると公言し、彼の子どもを欲しがっているにもかかわらず、どうして、途中(注9)で合流したアントワーヌをすぐさま受け入れて、一緒の旅をしてしまうのでしょうか?
もちろん、晩餐会で2人が意気投合して(注10)、恋心が直ちに芽生えてしまったから仕方がないと言えばそれまでですが、あまりに事態の進行が早すぎる気がしてしまいます(注11)。
それに、アンナは東洋哲学に入れ込んでいるためなのでしょうか、アントワーヌとの間に起きたことも、正直にサミュエルに話せば許してくれると考えていたようで、これも40過ぎの女性にしては随分と甘いものの見方をしているように思えてしまいました(注12)。
それでも、物語全体が、いろいろなものが入り混じって独特の雰囲気を醸し出すインドにおける出来事を語るものであり、特に、アンマにアンヌとアントワーヌが大きく抱擁されるシーンなどを見ると、まあこういうこともあるかもしれない、と思えてしまうのですが(注13)。
(3)渡まち子氏は、「これは続編? 姉妹編? いや、やはり新しい大人の恋愛映画だ。クロード・ルルーシュ監督は1937年生まれなのだが、その感性は昔と変わらずみずみずしい」として65点を付けています。
秋山登氏は、「老練な語り口には悠揚迫らざるものがあって、私たちがそれと意識しない間に、一瞬、日常と非日常とが相接する夢幻の世界に誘われていたりする。「愛が唯一のテーマ」と監督はいうのだが、しかしここには、アンマに象徴される霊性へ傾斜した文明論の気配が濃い」と述べています。
毎日新聞の木村光則氏は、「アンナとアントワーヌの行動は「一度きりの人生を悔いることのないよう愛を貫いて生きる」という西洋の価値観に基づくもの。真逆の現実や世界観が広がるインドを舞台に2人が愛を深めていくという構造には共感できない」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『男と女』のクロード・ルルーシュ。
音楽はフランシス・レイ。
なお、出演者の内、ジャン・デュジャルダンは『ミケランジェロ・プロジェクト』で最近見ました。
(注2)劇場用パンフレット掲載の村上香住子氏のエッセイ「愛のゆらぎに胸を打たれる」によれば、ルルーシュ監督は、「次作『Chacun sa vie et son intime conviction』の撮影に入ったばかり」とのこと。
(注3)例えば、アリスが「あなたは世界的に有名」「女たらし」と言うと、アントワーヌは「女性収集家だ」と答え、またアリスが「何が一番好き?」と訊くと、アントワーヌは「自分かな」と言い、今度はアントワーヌが「君は何が一番好き?」と尋ねると、アリスは「愛よ」と応じます。
(注4)アントワーヌは、『偶然のシンフォニー』でアカデミー賞を獲得した世界的な映画音楽作曲家ということで、晩餐会のメインゲストとして呼ばれたようです。なお、この晩餐会には、アントワーヌが音楽をつける『ジュリエットとロメオ』に出演するサンジェイとアヤナも呼ばれています。
(注5)『男と女』(1966年)の原題が『Un Homme et Une Femme』で、本作の原題が『Un+Une』。
(注6)よくわからないのは、どうして子供ができないことをそんなにアンナが悩むのか、という点です。
まず、アンナがサミュエルと結婚したのはいつごろなのでしょう?
挿入されている回想シーンによれば、アンナがインドを旅行している最中に、パスポートなどの入っているバッグをなくしてしまい、どうしたらいいのかパニック状態になってフランス大使館まで辿り着いたところ、丁度大使が車に乗って門から出てきたのに遭遇し、懇切に話を聞いてもらい、云々ということで結婚に至ったようです。
とすると、現時点からせいぜい2,3年前の結婚であり(大使の任期はせいぜいそのくらいでしょうから)、子供ができないと言って騒ぐのは時期尚早ではないでしょうか?
あるいは、サミュエルが大使館前でアンナと遭遇したのは、彼が大使の時ではなく、モット若く公使とか1等書記官の時のことなのでしょうか(でも、車の中のサミュエルは、現時点の彼と変わりがない顔付きのように思われます)?
それと、アンナを演じているエルザ・ジルベルスタインですが、いくら若作りをしていても、実年齢の48歳とそうかけ離れた設定ではないものと思われます。とすると、無論例外はいくらでもあるにせよ、一般的には、望めばすぐに妊娠できる年齢ではないように思われます。
また、大使にしても、クリストファー・ランバートの実年齢が61歳ですから、そう簡単ではないかもしれません。
なにより、アンナは、その後の物語の展開からすると、1度アントワーヌとベッドインしただけで妊娠してしまったのを見ると、あるいはサミュエルの方に不妊原因があるのではないか、とも考えられるところです。
(注7)アンマは実在の人物で、映画に登場するのもアンマ自身。
なお、アンマについては、例えばこの記事とかこの記事が参考になります。
(注8)監督のラウールとの会話で、アントワーヌは、「結婚の話が持ち上がって困っている」「僕は、結婚に向いていないんだ」などと話しています。上記「注3」の会話からも分かるように、またアンナに「恋に恋している」「恋の感覚が好き」と言ったりしているように、アントワーヌは、独身で女性遍歴を楽しみたいようなのです(とはいえ、晩餐会の席上、アントワーヌは、アンナに「アリスと結婚する予定」と言っているのですが)。
(注9)アンナは、ケーララ州のアンマに会う前に、まず聖地バラナシ(ヴァーラーナシー:英語読みではベナレス)に列車で行くのですが(アンナは「インド人と同じことをする」と言います)、飛行機でバラナシにやってきて待ち構えるアントワーヌと出会うことになります。
(注10)アンナがアントワーヌに話したところによれば、夫のサミュエルがアンナの態度に怒って、晩餐会後「そんなに彼に夢中なら、出て行くがいい」と言って彼女を追い出したとのこと。それで、アンナは、アントワーヌが宿泊するホテルにやってくるのです(ただこの時は、アントワーヌが「サミュエルは本気じゃないのでは?」とか「一方的に攻められるのは好きじゃない」などと言って、アンナをサミュエルのもとに帰したものと思います)。
(注11)晩餐会の翌日、アンナは、アントワーヌがレコーディングしている現場に現れ、昼食を彼とともにするとはいえ、その翌日にはもう旅行に旅立つのです。
(注12)アンナとアントワーヌは一夜ベッドをともにするのですが、アンナの方は、サミュエルと離婚することになるなどとはマッタク思ってもみないようです(アントワーヌは、いうまでもなくアンヌとの結婚など微塵も考えてはおりません)。
(注13)例えば、アンナは、晩餐会のとき、アントワーヌに「インド人はスピリチュアリティそのもの」とか、「私は無限の宇宙と対話する」などと話しますし、また、アンマについて「彼女は本物の神」「私は奇跡を信じている」と言い、さらには監督のラウールが、アントワーヌに「路上生活者は、転生を繰り返して学んでいるんだ。苦しみこそ意義があると」と述べたりします。こういう台詞は、西欧人が東洋に抱いているイメージ(いわゆるオリエンタリズムでしょうか)が色濃く反映しているとも言えそうです。ただ、アントワーヌのしつこい頭痛が、医師は「脳内に血栓があり危険な状態」というものの、アンマに抱かれると解消してしまうようなのは、あるいは、映画制作者側もインドの雰囲気に飲み込まれてしまっているのかもしれません。
★★★☆☆☆
象のロケット:アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲
(1)『男と女』(1966年)のクロード・ルルーシュ監督の作品ということで映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、本作を監督したルルーシュが画面に登場し、「本作は、私の41本目の作品。今回は日本に行けず残念ですが、次回作(注2)が完成したら東京に行きます」などと挨拶します。
その後、本編が始まります。
まず、混雑した道路に牛が寝そべっている様子とかガンジス川など、よく見かけるインドの都市の光景が映し出され、さらにまた、そうした光景を手持ちの小型デジタルカメラで写し取っている男の姿が映し出されます。
どうやらその男は、映画監督のラウール(ラウール・ヴォーラー)であり、新作のために撮影をしているようです。
場面は変わって、ダンス教室で若い男女がダンスの練習をしています。その中のアヤナ(シュリヤー・ピルガオンカル)に対して、先生は「そうじゃない、こう飛べ。向きを変えてはダメだ」などと厳しく叱責します。
さらにもう一つの場面では、ピストルを持った若い男サンジェイ(アビシェーク・クリシュナン)が宝石店に強盗に入り、宝石を奪って、最初はオートバイ、次いで待機していた車に乗り換えて逃亡します。
それらの場面が何回か交互に映し出された後、ダンスの練習が終わって自転車に乗って帰宅する途中のアヤナが、サンジェイの乗った車と衝突してしまいます。
サンジェイは、そのまま逃亡しようとする運転手に「止めるんだ」と言って、車を衝突現場に戻します。運転手が逃げてしまったので、サンジェイは、傷を負って倒れているアヤナを車の中に運び、「死なないでくれ」と呟きながら病院に急ぎます。
病院に着くとサンジェイは、大声で「重傷なんだ、早く手当してくれ」と叫び、アヤナを手術室に運び込みます。そして、サンジェイが病院から出ようとすると、大勢の警官が待ち構えていて、彼は捕まってしまいます。
留置場の面会室の場面。
監督のラウールがサンジェイと面会し、「君のことを映画にしたい」「現代版の『ロメオとジュリエット』にしたい」と申し入れています。
場面は更に変わって、場所はパリ。
世界的な映画音楽家アントワーヌ(ジャン・デュジャルダン)は、ピアニストのアリス(アリス・ポル)とベッドで話しています(注3)。
次いで、映画音楽の仕事でインドに行ったアントワーヌは、在インド・フランス大使サミュエル(クリストファー・ランバート)が主催する晩餐会(注4)で大使夫人のアンナ(エルザ・ジルベルスタイン)に出会います。さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?
本作でルルーシュ監督が、相も変わらず男女の恋愛を描いているといえばそれまでですが(注5)、舞台をインドにしているところがミソと言えるでしょう。インドの群衆、東洋哲学、神秘的な女性といったものが登場することによって、ご都合主義的なところが多々見られるにしても、まあ許されるかなと思えてしまいます。
(2)本作の導入部では、インドでよく見かける景色が単純に映し出されるわけではなく、上記(1)に記したように、実話に基づいているという設定のインド映画『ジュリエットとロメオ』の撮影風景やその映画のカットが映し出されたりする中で、インドの都市の光景が描かれていて、なかなか巧みな作りとなっています。
そして、本作の主人公・アントワーヌは、そのインド映画の音楽を担当するということで、インドにやってくるわけです。映画の中でも、ディスプレイに映画のカットが映し出されるすぐそばでオーケストラが録音用に演奏し、それをアントワーヌがチェックしているシーンがあります。
このように、さすがルルーシュ監督という出だしながら、物語が展開し始めると、雰囲気がなんだかオカシナなものになってきます。
フランスからやって来た主人公・アントワーヌとフランス大使夫人・アンナとが、大使主催の晩餐会で簡単に意気投合するのはまあかまわないとはいえ、あれよあれよという間に2人だけで旅行するまでに発展してしまうのです。
それも、アントワーヌの方は、ピアニストのアリスがわざわざパリからインドまでやってくるというのに。
また、アンナの方は、愛する夫との間に子供がなかなかできない事態を改善するためという理由で(注6)、霊的指導者アンマ(注7)に会いに旅行に行くと言うのですが。
尤も、アントワーヌの方は、電話でアリスから「結婚して」と言われるものの、その気がない彼は「待ってくれ、後から電話する」と言っているのですから、そんなに問題ないでしょう(注8)。
ただ、アンナの方がどうもよくわかりません。
夫のフランス大使・サミュエルを愛していると公言し、彼の子どもを欲しがっているにもかかわらず、どうして、途中(注9)で合流したアントワーヌをすぐさま受け入れて、一緒の旅をしてしまうのでしょうか?
もちろん、晩餐会で2人が意気投合して(注10)、恋心が直ちに芽生えてしまったから仕方がないと言えばそれまでですが、あまりに事態の進行が早すぎる気がしてしまいます(注11)。
それに、アンナは東洋哲学に入れ込んでいるためなのでしょうか、アントワーヌとの間に起きたことも、正直にサミュエルに話せば許してくれると考えていたようで、これも40過ぎの女性にしては随分と甘いものの見方をしているように思えてしまいました(注12)。
それでも、物語全体が、いろいろなものが入り混じって独特の雰囲気を醸し出すインドにおける出来事を語るものであり、特に、アンマにアンヌとアントワーヌが大きく抱擁されるシーンなどを見ると、まあこういうこともあるかもしれない、と思えてしまうのですが(注13)。
(3)渡まち子氏は、「これは続編? 姉妹編? いや、やはり新しい大人の恋愛映画だ。クロード・ルルーシュ監督は1937年生まれなのだが、その感性は昔と変わらずみずみずしい」として65点を付けています。
秋山登氏は、「老練な語り口には悠揚迫らざるものがあって、私たちがそれと意識しない間に、一瞬、日常と非日常とが相接する夢幻の世界に誘われていたりする。「愛が唯一のテーマ」と監督はいうのだが、しかしここには、アンマに象徴される霊性へ傾斜した文明論の気配が濃い」と述べています。
毎日新聞の木村光則氏は、「アンナとアントワーヌの行動は「一度きりの人生を悔いることのないよう愛を貫いて生きる」という西洋の価値観に基づくもの。真逆の現実や世界観が広がるインドを舞台に2人が愛を深めていくという構造には共感できない」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『男と女』のクロード・ルルーシュ。
音楽はフランシス・レイ。
なお、出演者の内、ジャン・デュジャルダンは『ミケランジェロ・プロジェクト』で最近見ました。
(注2)劇場用パンフレット掲載の村上香住子氏のエッセイ「愛のゆらぎに胸を打たれる」によれば、ルルーシュ監督は、「次作『Chacun sa vie et son intime conviction』の撮影に入ったばかり」とのこと。
(注3)例えば、アリスが「あなたは世界的に有名」「女たらし」と言うと、アントワーヌは「女性収集家だ」と答え、またアリスが「何が一番好き?」と訊くと、アントワーヌは「自分かな」と言い、今度はアントワーヌが「君は何が一番好き?」と尋ねると、アリスは「愛よ」と応じます。
(注4)アントワーヌは、『偶然のシンフォニー』でアカデミー賞を獲得した世界的な映画音楽作曲家ということで、晩餐会のメインゲストとして呼ばれたようです。なお、この晩餐会には、アントワーヌが音楽をつける『ジュリエットとロメオ』に出演するサンジェイとアヤナも呼ばれています。
(注5)『男と女』(1966年)の原題が『Un Homme et Une Femme』で、本作の原題が『Un+Une』。
(注6)よくわからないのは、どうして子供ができないことをそんなにアンナが悩むのか、という点です。
まず、アンナがサミュエルと結婚したのはいつごろなのでしょう?
挿入されている回想シーンによれば、アンナがインドを旅行している最中に、パスポートなどの入っているバッグをなくしてしまい、どうしたらいいのかパニック状態になってフランス大使館まで辿り着いたところ、丁度大使が車に乗って門から出てきたのに遭遇し、懇切に話を聞いてもらい、云々ということで結婚に至ったようです。
とすると、現時点からせいぜい2,3年前の結婚であり(大使の任期はせいぜいそのくらいでしょうから)、子供ができないと言って騒ぐのは時期尚早ではないでしょうか?
あるいは、サミュエルが大使館前でアンナと遭遇したのは、彼が大使の時ではなく、モット若く公使とか1等書記官の時のことなのでしょうか(でも、車の中のサミュエルは、現時点の彼と変わりがない顔付きのように思われます)?
それと、アンナを演じているエルザ・ジルベルスタインですが、いくら若作りをしていても、実年齢の48歳とそうかけ離れた設定ではないものと思われます。とすると、無論例外はいくらでもあるにせよ、一般的には、望めばすぐに妊娠できる年齢ではないように思われます。
また、大使にしても、クリストファー・ランバートの実年齢が61歳ですから、そう簡単ではないかもしれません。
なにより、アンナは、その後の物語の展開からすると、1度アントワーヌとベッドインしただけで妊娠してしまったのを見ると、あるいはサミュエルの方に不妊原因があるのではないか、とも考えられるところです。
(注7)アンマは実在の人物で、映画に登場するのもアンマ自身。
なお、アンマについては、例えばこの記事とかこの記事が参考になります。
(注8)監督のラウールとの会話で、アントワーヌは、「結婚の話が持ち上がって困っている」「僕は、結婚に向いていないんだ」などと話しています。上記「注3」の会話からも分かるように、またアンナに「恋に恋している」「恋の感覚が好き」と言ったりしているように、アントワーヌは、独身で女性遍歴を楽しみたいようなのです(とはいえ、晩餐会の席上、アントワーヌは、アンナに「アリスと結婚する予定」と言っているのですが)。
(注9)アンナは、ケーララ州のアンマに会う前に、まず聖地バラナシ(ヴァーラーナシー:英語読みではベナレス)に列車で行くのですが(アンナは「インド人と同じことをする」と言います)、飛行機でバラナシにやってきて待ち構えるアントワーヌと出会うことになります。
(注10)アンナがアントワーヌに話したところによれば、夫のサミュエルがアンナの態度に怒って、晩餐会後「そんなに彼に夢中なら、出て行くがいい」と言って彼女を追い出したとのこと。それで、アンナは、アントワーヌが宿泊するホテルにやってくるのです(ただこの時は、アントワーヌが「サミュエルは本気じゃないのでは?」とか「一方的に攻められるのは好きじゃない」などと言って、アンナをサミュエルのもとに帰したものと思います)。
(注11)晩餐会の翌日、アンナは、アントワーヌがレコーディングしている現場に現れ、昼食を彼とともにするとはいえ、その翌日にはもう旅行に旅立つのです。
(注12)アンナとアントワーヌは一夜ベッドをともにするのですが、アンナの方は、サミュエルと離婚することになるなどとはマッタク思ってもみないようです(アントワーヌは、いうまでもなくアンヌとの結婚など微塵も考えてはおりません)。
(注13)例えば、アンナは、晩餐会のとき、アントワーヌに「インド人はスピリチュアリティそのもの」とか、「私は無限の宇宙と対話する」などと話しますし、また、アンマについて「彼女は本物の神」「私は奇跡を信じている」と言い、さらには監督のラウールが、アントワーヌに「路上生活者は、転生を繰り返して学んでいるんだ。苦しみこそ意義があると」と述べたりします。こういう台詞は、西欧人が東洋に抱いているイメージ(いわゆるオリエンタリズムでしょうか)が色濃く反映しているとも言えそうです。ただ、アントワーヌのしつこい頭痛が、医師は「脳内に血栓があり危険な状態」というものの、アンマに抱かれると解消してしまうようなのは、あるいは、映画制作者側もインドの雰囲気に飲み込まれてしまっているのかもしれません。
★★★☆☆☆
象のロケット:アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲