僕の住んでいる関東平野の南の方では、
ココ数日で一気に冬の空気となりました。
出雲の神様会議が終わったからかなっ!?(*゜ロ゜)ノ
......なーんつって。。
でも、寒さと共に空気は清廉さを増して。
夜空の星々も綺麗に見えてきました。(*´ー`)
雑多な空気を排出する首都圏ですので
「降り注ぐような満天の星が......」
とはいきませんが、
それなりに他の季節よりは星がキラキラと輝いて見えます。
そんな星空の下に佇んでいると、時折、
頭の中に音楽が流れ出す様なこともあって。
その音楽は時々の生活や状況、年齢などによって違ったりもするのですが、
ある頃から、何故か?
幾つかの「ピアノ曲」に絞られる様になってきました。最近では
「これが満天の星空の下で聴く至高の一曲なんだろーな。。」
と思えている曲があったりもします。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig Van Beethoven)
ピアノ ソナタ 第32番
特に、
第2楽章。
クラッシック・ファンには言わずと知れた名曲中の名曲だと思いますが、
僕にとっては満天の星空の下で聞きたい曲No.1です。(^_^)
この曲を星空の下で聴いていると、
なんだか、僕は、「天の器」の様なモノに乗せられて。
沢山の星々と一緒にクルクル......と、
メーリーゴーランドのように宙空を飛び回されているような気がして来ます。
ユッタリと意識が外に溢れ出し、
様々な記憶がセピア色からカラーへと鮮明さを増し、輝き。
生まれてから今に至るまでの歩みを想い出し、再訪し、触れて。
やがて闇とも光ともつかない空間で、
僕は「無」みたいなものを見つめていたりします。
心地良し......
時々......
どうしてか!?
の......
涙......も......
ベートーヴェンが最晩年に書いた、キャリア最後のピアノ曲。
彼はいったいどんな気持ちでこの曲を書いたのだろうか。
彼の人生って、いったいどんなものだったのだろうか。
考えてもアマリ意味が無いかもしれないそんなコトに想いを馳せてしまうのは、
この曲の中には深く入り込んでいる
「魂」みたいなものがあるからなのだろうか。
広大で無辺な宇宙の片隅に一人ポツンと浮かび、漂っている僕に、
無限の星々が降り注ぎ話しかけてきてくれるような......
そんな気持ちにもなれる曲。
「これは、あなたのために書いたのではありません。
後世のために書いたのです」
ベートーヴェンが遺した言葉。
音楽と共に冬の夜空から響き降りてきます。
音楽家でありながら耳が聞こえないというハンデを背負い、
それでも時代を超える数々の名曲を生み出した苦悩の天才。
異端児。
画家で言えばゴッホか?
その場合モーツァルトはピカソか......
1770年。ドイツの地に生を受けた彼は、
宮廷歌手で酒乱でもあった父から
「虐待」とも言える音楽の英才教育を受け。
幼い頃から様々な演奏会の場に立っていました。
16才の頃。憧れだったウィーンに出掛けていき、
そこでモーツァルトに出会い師事するも、母の病気で帰郷することとなり。
以来、しばらく、
酒乱から依存症にまでなってしまっていた父の代わりに一家の生計を担い、
貧困に喘ぐ生活を続けていたそうです。
しかし、そんな中でも彼の才能に目をつける人は沢山いて。
1792年にはハイドンに呼ばれ、念願のウィーンに移住。
都では「凄腕の即興ピアノ演者」としての名声を得ました。
しかし運命は再び彼に苦難を与え、
20代後半からは持病であった難聴の悪化が急速に進み、
思うような仕事も生活も出来なくなっていきます。
音楽家としても生活者としても危機的な病状。状況。
深い絶望と共に彼は自殺を決意。
遺書を書き記しました。
それが今に残る有名な
「ハイリゲンシュタットの遺書」
1802年。ベートーベンが31才の時のことでした。
「――――自ら命を絶たんとした私を引き止めたものは、
ただひとつ “芸術” であった。」
遺書にはそんな言葉も記されていました。
しかし、そんな遺書を書いたことで、
彼の中の「何かが整理された」のか?
「何かの覚悟が定まった」のか?
彼は自殺を思いとどまり、その後、
40代で全聴覚を失いながらも次々と
数多の名曲を生み出し続けていきます。
「神がもし、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、
私は運命に立ち向かう」
「苦悩を突き抜ければ、歓喜に至る」
絶望的なまでに荘厳な和音が鳴り響く名曲「運命=交響曲第5番」も、
天上で鳴り響く歓喜の旋律の如き「だいく=交響曲第9番」も、
こんな言葉や心でもって、
この世に「生」を受けて来たのでしょうか。
「さぁ皆さん!拍手を!
喜劇はこれで終わりです」
ベートーベンがこの世を去る間際に残したと伝わる言葉。
皮肉なのか、本音なのか。
少なくとも、「喜劇」という言葉にかかっているであろう途轍も無い悲劇に、
僕は魂の重みのようなものを感じたりもします。
僕の好きな「ピアノソナタ 第32番」の「第一楽章」の方は、
実は、美しき星空にそぐわない少々強く険しい音で始まります。
それは雷鳴が轟き、
高い山々の峰に大粒の雨と風が降り注いで来るような印象。
山々の峰に降り注いだ雨は、やがて地中から湧き出し、流れ出し。
アチラコチラにぶつかり、当たり、散らされながら野山を彷徨います。
そして、谷に落ち、集まり、急流となって山の斜面を駆け下りていきます。
どこか行きたい場所があるかのように。
行きたい場所があるのだけど、それがドコなのかわからない......かのように。
まるで、意志を持った転がる石のように。
雨水は湧水とともに小川となり、渓流となり、滝となり、岩を削り。
少しづつ大きな川となって流れ続けて行きます。
やがて傾斜のなだらかになった山裾に出て、
そこで少したおやかで清らかな流れとなり。
時に立ち止まり、淀み、佇み。
たくさんのモノや生物、動物や人にも触れていきます。
星空の似合う「第2楽章」というのは、なんとなく、
そんな辺りから始まる楽章。
平野に入り、穏やかで大きな河となった水たちは、
そのままゆったりと、大きく、しかしリズミカルに流れていきます。
キラキラとした果てしなく広がる海へと流れ、注いでいきます。
海に混じりゆくその水は......
ちょっと汚れてはいるけれど、穏やかで、楽しそうで、
嬉しそうな、満足そうな。
でも、どこか少しだけ寂しそうな。
「ピアノソナタ 第32番」というのは、全体では、
僕にとってはそんな「水の旅」のような旋律と響き。
そして、それが、
そんな水のイメージが、
そんな水の一粒一粒が、
飛沫(しぶき)の一粒一粒が、
どうも「星」のように感じられてしまったりもするのです。
それはたぶん、天の川。
天の川の旅路。
キラキラと飛び散る水の粒子が、
夜空に輝く無数の星のようにも感じられ、聞こえてもくるのです。
水の旅のごとき「ピアノソナタ 第32番」は、また、
冬の夜空に輝く綺羅星たちが地上に降り注いで来るかのような、
僕にとってそんな曲でもあるのです。
「金など求めず、星を求める生活をしなさい」
そういえば、
ベートーヴェンはそんな言葉も遺していました。
「シモーネ・ディナースタイン=Simone Dinnerstein」さんの
「ザ・ベルリン・コンサート=THE BERLIN CONCERT」
星の如く沢山出ている「ピアノソナタ 32番」の録音盤の中でも、
特に大好きな、僕にとって特別な一枚。
燃え盛る炎のようなエネルギーを湛えるベートーヴェンの音楽は、
繊細でたおやかな女性の演奏家の方が美しいバランスになるのかもしれません。
モーツァルトの女性の様な繊細さは、
男性の力強さによって増幅されるような感覚があるのですが、
それと真逆のイメージでしょうか。
そんな感じで僕はこのディナースタインさんのアルバムのトラック22、
「ピアノソナタ 32番 第二楽章」がとても好きなのです。
ライブ録音のこのトラックは演奏を聴く人々の万雷の拍手で終わります。
シン......とした冬の夜空に、星、降り注ぐ演奏(^^)
ココ数日で一気に冬の空気となりました。
出雲の神様会議が終わったからかなっ!?(*゜ロ゜)ノ
......なーんつって。。
でも、寒さと共に空気は清廉さを増して。
夜空の星々も綺麗に見えてきました。(*´ー`)
雑多な空気を排出する首都圏ですので
「降り注ぐような満天の星が......」
とはいきませんが、
それなりに他の季節よりは星がキラキラと輝いて見えます。
そんな星空の下に佇んでいると、時折、
頭の中に音楽が流れ出す様なこともあって。
その音楽は時々の生活や状況、年齢などによって違ったりもするのですが、
ある頃から、何故か?
幾つかの「ピアノ曲」に絞られる様になってきました。最近では
「これが満天の星空の下で聴く至高の一曲なんだろーな。。」
と思えている曲があったりもします。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig Van Beethoven)
ピアノ ソナタ 第32番
特に、
第2楽章。
クラッシック・ファンには言わずと知れた名曲中の名曲だと思いますが、
僕にとっては満天の星空の下で聞きたい曲No.1です。(^_^)
この曲を星空の下で聴いていると、
なんだか、僕は、「天の器」の様なモノに乗せられて。
沢山の星々と一緒にクルクル......と、
メーリーゴーランドのように宙空を飛び回されているような気がして来ます。
ユッタリと意識が外に溢れ出し、
様々な記憶がセピア色からカラーへと鮮明さを増し、輝き。
生まれてから今に至るまでの歩みを想い出し、再訪し、触れて。
やがて闇とも光ともつかない空間で、
僕は「無」みたいなものを見つめていたりします。
心地良し......
時々......
どうしてか!?
の......
涙......も......
ベートーヴェンが最晩年に書いた、キャリア最後のピアノ曲。
彼はいったいどんな気持ちでこの曲を書いたのだろうか。
彼の人生って、いったいどんなものだったのだろうか。
考えてもアマリ意味が無いかもしれないそんなコトに想いを馳せてしまうのは、
この曲の中には深く入り込んでいる
「魂」みたいなものがあるからなのだろうか。
広大で無辺な宇宙の片隅に一人ポツンと浮かび、漂っている僕に、
無限の星々が降り注ぎ話しかけてきてくれるような......
そんな気持ちにもなれる曲。
「これは、あなたのために書いたのではありません。
後世のために書いたのです」
ベートーヴェンが遺した言葉。
音楽と共に冬の夜空から響き降りてきます。
音楽家でありながら耳が聞こえないというハンデを背負い、
それでも時代を超える数々の名曲を生み出した苦悩の天才。
異端児。
画家で言えばゴッホか?
その場合モーツァルトはピカソか......
1770年。ドイツの地に生を受けた彼は、
宮廷歌手で酒乱でもあった父から
「虐待」とも言える音楽の英才教育を受け。
幼い頃から様々な演奏会の場に立っていました。
16才の頃。憧れだったウィーンに出掛けていき、
そこでモーツァルトに出会い師事するも、母の病気で帰郷することとなり。
以来、しばらく、
酒乱から依存症にまでなってしまっていた父の代わりに一家の生計を担い、
貧困に喘ぐ生活を続けていたそうです。
しかし、そんな中でも彼の才能に目をつける人は沢山いて。
1792年にはハイドンに呼ばれ、念願のウィーンに移住。
都では「凄腕の即興ピアノ演者」としての名声を得ました。
しかし運命は再び彼に苦難を与え、
20代後半からは持病であった難聴の悪化が急速に進み、
思うような仕事も生活も出来なくなっていきます。
音楽家としても生活者としても危機的な病状。状況。
深い絶望と共に彼は自殺を決意。
遺書を書き記しました。
それが今に残る有名な
「ハイリゲンシュタットの遺書」
1802年。ベートーベンが31才の時のことでした。
「――――自ら命を絶たんとした私を引き止めたものは、
ただひとつ “芸術” であった。」
遺書にはそんな言葉も記されていました。
しかし、そんな遺書を書いたことで、
彼の中の「何かが整理された」のか?
「何かの覚悟が定まった」のか?
彼は自殺を思いとどまり、その後、
40代で全聴覚を失いながらも次々と
数多の名曲を生み出し続けていきます。
「神がもし、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、
私は運命に立ち向かう」
「苦悩を突き抜ければ、歓喜に至る」
絶望的なまでに荘厳な和音が鳴り響く名曲「運命=交響曲第5番」も、
天上で鳴り響く歓喜の旋律の如き「だいく=交響曲第9番」も、
こんな言葉や心でもって、
この世に「生」を受けて来たのでしょうか。
「さぁ皆さん!拍手を!
喜劇はこれで終わりです」
ベートーベンがこの世を去る間際に残したと伝わる言葉。
皮肉なのか、本音なのか。
少なくとも、「喜劇」という言葉にかかっているであろう途轍も無い悲劇に、
僕は魂の重みのようなものを感じたりもします。
僕の好きな「ピアノソナタ 第32番」の「第一楽章」の方は、
実は、美しき星空にそぐわない少々強く険しい音で始まります。
それは雷鳴が轟き、
高い山々の峰に大粒の雨と風が降り注いで来るような印象。
山々の峰に降り注いだ雨は、やがて地中から湧き出し、流れ出し。
アチラコチラにぶつかり、当たり、散らされながら野山を彷徨います。
そして、谷に落ち、集まり、急流となって山の斜面を駆け下りていきます。
どこか行きたい場所があるかのように。
行きたい場所があるのだけど、それがドコなのかわからない......かのように。
まるで、意志を持った転がる石のように。
雨水は湧水とともに小川となり、渓流となり、滝となり、岩を削り。
少しづつ大きな川となって流れ続けて行きます。
やがて傾斜のなだらかになった山裾に出て、
そこで少したおやかで清らかな流れとなり。
時に立ち止まり、淀み、佇み。
たくさんのモノや生物、動物や人にも触れていきます。
星空の似合う「第2楽章」というのは、なんとなく、
そんな辺りから始まる楽章。
平野に入り、穏やかで大きな河となった水たちは、
そのままゆったりと、大きく、しかしリズミカルに流れていきます。
キラキラとした果てしなく広がる海へと流れ、注いでいきます。
海に混じりゆくその水は......
ちょっと汚れてはいるけれど、穏やかで、楽しそうで、
嬉しそうな、満足そうな。
でも、どこか少しだけ寂しそうな。
「ピアノソナタ 第32番」というのは、全体では、
僕にとってはそんな「水の旅」のような旋律と響き。
そして、それが、
そんな水のイメージが、
そんな水の一粒一粒が、
飛沫(しぶき)の一粒一粒が、
どうも「星」のように感じられてしまったりもするのです。
それはたぶん、天の川。
天の川の旅路。
キラキラと飛び散る水の粒子が、
夜空に輝く無数の星のようにも感じられ、聞こえてもくるのです。
水の旅のごとき「ピアノソナタ 第32番」は、また、
冬の夜空に輝く綺羅星たちが地上に降り注いで来るかのような、
僕にとってそんな曲でもあるのです。
「金など求めず、星を求める生活をしなさい」
そういえば、
ベートーヴェンはそんな言葉も遺していました。
「シモーネ・ディナースタイン=Simone Dinnerstein」さんの
「ザ・ベルリン・コンサート=THE BERLIN CONCERT」
星の如く沢山出ている「ピアノソナタ 32番」の録音盤の中でも、
特に大好きな、僕にとって特別な一枚。
燃え盛る炎のようなエネルギーを湛えるベートーヴェンの音楽は、
繊細でたおやかな女性の演奏家の方が美しいバランスになるのかもしれません。
モーツァルトの女性の様な繊細さは、
男性の力強さによって増幅されるような感覚があるのですが、
それと真逆のイメージでしょうか。
そんな感じで僕はこのディナースタインさんのアルバムのトラック22、
「ピアノソナタ 32番 第二楽章」がとても好きなのです。
ライブ録音のこのトラックは演奏を聴く人々の万雷の拍手で終わります。
シン......とした冬の夜空に、星、降り注ぐ演奏(^^)
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