おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

今様草加宿。本陣。・・・(「日光道中」をゆく。その5。)

2016-05-10 21:51:33 | 日光道中
 しばらく進んだ右手には国の登録有形文化財の「藤城家住宅店舗・内蔵・外蔵」があります。

 藤城家住宅は五街道の一つである日光街道の宿場・旧草加宿のほぼ中央に位置しています。
 街道に面して建つ「店舗」は2階建てで、1階の内部は張り出した庇部分を巧みに取り込み、土間と畳敷きの帳場を設け、その先から上がる2階は、畳敷きの座敷となっています。開口部は1階がガラス格子、2階は障子と縦格子で装飾され、風格のある昭和初期の商家造りとなっています。
 その後方には、母屋に組み込まれた重厚な土蔵造りの「内蔵」と明治初期の建造と伝える「外蔵」が並び、奥行きの深い、草加宿の典型的な町屋景観をよく残しています。
 このように、江戸時代以来の宿場の面影を今に伝える藤城家の各建造物は、歴史的にも景観的にも大変貴重なものであり、「国土の歴史的景観に寄与するもの」として国の有形文化財(建造物)として登録されました。

 平成26年3月 草加市教育委員会

    

スローライフなまちづくり よみがえれ「今様・草加宿」。

「草加松原」の幟。

 (以下「Wikipedia」参照)
草加宿
 日光街道および奥州街道の2番目の宿駅(宿場町)で、武蔵国足立郡にあった。現在の埼玉県草加市中心部に相当する。 宿場の位置は、現在の草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から神明一丁目の草加六丁目橋付近までの一帯。
 慶長元年(1596年)、徳川氏は“陸奥の駅路”奥州街道を定め、慶長7年(1602年)、伝馬人足の設置および継立を義務づけた宿駅制度を設けた。奥州街道・日光街道の千住から越ヶ谷間は、この一帯の街道筋は沼地が多かったため、これを迂回し花俣(現在の東京都足立区花畑)から八条(八潮市)に出て古利根川と元荒川の自然堤防に沿って越ケ谷に至る経路を取っていた。
 慶長11年(1606年)になって、大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この新道の工事の完成に当時の将軍徳川秀忠は喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」と下知した。これを「草加」という地名の由来とする言い伝えがある。
 草加宿の開宿当時、戸数は84戸、長さ685間、伝馬人足25人、駅馬25頭であり、旅籠屋も5軒から6軒、店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が各1軒ずつ軒を並べたもので、あとは農家であったが徐々に人口が増え、元禄期には戸数120軒になった。 正徳3年(1713年)には、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられ、五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心として繁栄するようになった。このころから、大半が店子と地借層で、他に屋守、分地、脇屋敷と都合5000人前後で構成され、
 草加宿は、享保年間(1716年-1736年)から発達し、天保14年(1843年)によると、南北12町(約1.3km)の規模となり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒(大2、中30、小35)、人口3,619人であった[9]。これは、同じ日光道中の宿場のうち、城下町に併設されていた宇都宮宿と古河宿を除けば、千住宿、越ヶ谷宿、幸手宿に次ぐ規模であった。

※草加せんべい
 元々この一帯では稲作が盛んに行われており、農家では蒸した米をつぶし丸めて干したものに塩をまぶして焼き、間食として食べていた。江戸期に入り、この地に宿場が開かれ発展していくと、この塩味の煎餅が旅人向けの商品として売り出され、各地に広まることとなる。その後、利根川流域(千葉県野田市など)で生産された醤油で味をつけるようになり、現在の草加煎餅の原型となったといわれている。
 現在、草加市内にはせんべいの製造所や販売所が60軒以上に及び、現在も草加の代名詞となっている。製造工程は機械化されつつあるが、昔ながらの天日干しや手焼きで製造する所も少なからず存在する。

 ところで、「今様 草加宿」。そこには地元の方々の並々ならぬ思いが込められているようです。





 江戸時代、千住宿に次ぐ日光街道第2の宿駅として発展した草加宿。  その誕生のきっかけとなった街道整備に着手したのが今からさかのぼること400年、 慶長11(1606)年の事です。
 当時の日光街道の千住と越谷の間は沼地が多く、大きく迂回して通らなければなりませんでした。
そこで、宿篠葉村(今の草加市松江町)の大川図書という人物が、茅野を開き沼を埋め立て、それまで大きく東に迂回していた奥州街道をまっすぐにする新道を開いたといわれています。
 この時、沼地の造成に沢山の草が用いられた事から「草加」と呼ばれるようになりました。 その後、直線となった千住・越ヶ谷間に宿駅を設けることが幕府によって命じられ、 寛永7(1630)年に付近の村々によって草加宿が設置されました。
 こうして誕生した草加宿は、参勤交代や日光社参、さらには一般旅人の往来もあって大きなにぎわいをみせるようになりました。元禄2年(1689)には松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で草加宿に歩みを残しています。
 その後、1792年に宿場北端の街道沿いには松が移植され、「草加松原」として知られるようになりました。立地的には、中川・綾瀬川の低平地に位置しており、標高は1.4m~4.7mで河川の氾濫源であり、稲作に適した土地で、河川・水路が縦横に走っています。その為、灌漑用水の開削や新田開発などを行って江戸幕府の台所を支える穀倉地帯となり、幕府の直轄領としても発展しました。
 当地を南北に貫いた日光街道は、現在、県道足立・越谷線として整備されてますが、高砂1丁目の旧道南側詰から神明交差点にあるおせん公園までの全長約1.5kmが旧日光街道として残されています。  また「今様・草加宿」の対象区域は、国の「地域再生計画」の認定を受けた旧道南側詰から綾瀬川・松並木に至る約134haの区域です。
国の文化審議会は平成25年11月15日に、松尾芭蕉が旅した「おくのほそ道の風景地」(10県13カ所)の1カ所として、「草加松原」を名勝に指定するよう文部科学大臣に答申し、平成26年3月18日、「草加松原」は文化科学大臣から、国の名勝として正式に指定を受けました。
名勝指定は埼玉県内では56年ぶり。長瀞(皆野町、長瀞町)、三波石峡(神川町、群馬県藤岡市)に次いで3件目になります。
 「草加松原」は、芭蕉が草加に足跡を記した頃からその後の時代にかけて松が植え足され、草加市中心部を南北に流れる綾瀬川沿いに、街道の両側に約1.5kmもの松並木にまで成長を遂げています。
幹周りが約2mにも及ぶ古木も含め、川沿いに延びる並木の風景は壮観であり、今なお『おくのほそ道』の時代の雰囲気を伝える風致景観の一つとして評価されました。
「今様・草加宿」市民推進会議では、かねてより旧草加宿と松並木一帯の整備と活性化について研究実践を重ねてまいりました。
今回の国の名勝指定によってさらに風致景観の向上に弾みがついたといえましょう。

※草加宿と芭蕉
元禄2(1689)年3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い、奥州に向けて江戸深川を旅立ちました。
 後に日本を代表する紀行文学『おくのほそ道』として結実するこの旅は、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里(2400km)、150日間の壮大なものでした。
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす……」
(月日は永遠の旅人であり、行く年、来る年もまた旅人である。舟の上で生涯を過ごす船頭、また馬の口を取って街道で年老いていく馬方は、毎日が旅であり、旅を住処として生きている)
あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず……」と続きます。真の美を求め、身の回りの一切のものを捨てて、草枕の旅に出た芭蕉。悲壮感すら漂う決意のほどがうかがえます。
 深川を出た芭蕉は千住宿まで舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めます。「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり」 こうして芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8丁(8.8km)を歩き、日光街道第2の宿駅だった草加にたどり着きました。『おくのほそ道』の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになるのです。
 芭蕉が訪れたころの草加宿は、戸数120軒ほどの小規模な宿場町でした。開宿当時の草加宿は、戸数84戸、旅籠屋(旅館)が5~6軒、他の店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋(銭湯)、髪結床(床屋)、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、あとはすべて農家だったそうです。芭蕉が訪れた頃は、草加宿が賑わい始める前だったのですね。
きっと、のどかな風景が広がっていた事でしょう。
 それから約150年後、天保14(1843)年の調査によると草加宿は戸数723戸、人口3,619人と南北12町(1.3km)にわたって家屋が軒を接 し、本陣・脇本陣各1軒、旅籠屋は67軒まで増加しました。城下町を除くと、日光街道では千住、越ヶ谷、幸手に次ぐ規模で、周辺の交通の要衝として栄えま した。
また綾瀬川では江戸中期ごろから舟運が始まり、魚屋河岸・甚左衛門(札場)河岸・藤助河岸が設けられて発展しました。

(以上、HPより)

 「草加宿」の本陣は、宝暦年間までは「大川本陣」、その後、明治になうまでは「清水本陣」ということで二つの本陣跡碑が向かい合って建っています。

    

                   
草加宿の本陣
 江戸時代に、奥州・日光道中参勤交代の大名休泊宿として、草加宿の本陣がここに置かれました。

 大川本陣(~宝暦年間)
 清水本陣(宝暦年間~明治初期)

 この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩の伊達綱村、盛岡藩の南部利視、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
 近くに脇本陣も置かれ、参勤交代の往復にその役割を発揮しました。
 本陣は、門、玄関、上段の間がある所が一般の旅籠と異なり、昭和初期にはまだ塀の一部が残っていたと伝えられています。
 当主は、名主や宿役人などを兼帯していました。

 「今様・草加宿」市民推進会議

注:「宝暦年間」=1751年~1764年。

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