おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

小田井宿。筆塚。本陣。脇本陣。問屋場。・・・(「旧中山道」をゆく。第11日目。)

2016-08-20 15:56:10 | 旧中山道
小田井宿(おたいしゅく)
 中山道六十九次のうち江戸から数えて21番目の宿場。現在の長野県北佐久郡御代田町中心部にあたる。
 参勤交代などで大名が北国街道との分岐点でもあった追分宿で宿をとる際、小田井宿は姫君や側女たちの宿にあてられることが多く「姫の宿」とも呼ばれた。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、小田井宿の宿内家数は107軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で宿内人口は319人であった。

(14:18)「小田井宿入口」という標識。    

その裏手には「筆塚」。筆を供養して納めたもので、各地にあります。

バス停「小田井上宿」。ひなびた街並みが現れます。
   

(14:22)枡形跡にある解説板。

中山道 小田井宿
 小田井宿は天正年間(1573~92)に誕生し、慶長(1596~1615)以降、宿駅としての機能が整えられました。
 昭和に入って数度の工事で、道の中央を流れていた用水路も南側に寄せられましたが、東西の入口にあった枡形もわずかにその形を留め、上の駅・下の駅は茶屋など小商売が多く、中の駅にあった本陣・問屋・旅籠などが残り、当時の面影をしのばせてくれます。
 文久元年皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君の休泊に利用され、「姫の宿」とも称されています。街道の繁栄期であった文化・文政期には、文政5年(1822)で、199戸・人口524人を数えていますが、他の時代には小さな規模のお伝馬に生きた宿場で会ったようです。町並みは寛延元年(1746)で7町23間(805米)ありました。和宮より拝領の人形が遺され、それにちなんで8月16日には小田井宿祭りが行われます。
 現在地は東の枡形です。

    
 宿内を望む。                               枡形を望む。


               安藤広重画。遠景に浅間山。もう少し南、宿外に位置する「皎月原」の景色を描いたようです。

宿の中央を流れていた用水は道路脇を水量も豊かに流れています。


「お休み処」。

                               「本陣」跡。
    

町指定史跡 中山道小田井宿 本陣跡(安川家住宅)
 安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣をつとめた。現在、その本陣の客室部を良工に残している。
 客室部は切妻造りで、その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入側などは、現形をよく留めており、安川家文書で宝暦6年(1756)に大規模改修が行われたと記されていることから、その際の建築と考えられる。また、湯殿と厠は幕末の文久元年(1861)の和宮降嫁の際に修築されたものであろう。
 厠は大用所・小用所ともに2畳の畳敷きとなっている。

 昭和53年6月1日 御代田町教育委員会

        

「高札場」跡。

 「上の問屋場跡」碑。本陣と同じく安井家が勤めました。
    

脇本陣跡。建物は残っていません。

旅籠屋風? 

バス停・待合所。宿場らしさ。

(14:29)「下の問屋場跡」碑。白壁が見事。 

「小田井宿」西の桝形付近。  

自販機が置かれてあるところが桝形跡? 

宿を出ても右手に旅籠屋風の建物。

振り返って望む。のどかな道筋。人に会うこともない。

畑の一角に「馬頭観音」「道祖神」など。

東方には「平尾富士」? 田園の道をたどる。

(14:44)しばらく進み、県道に合流します。 

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