鵠沼・昔砂丘の一本松

湘南藤沢住人の記憶の手掛かり …… フォト・ブログ

腰越漁港は改修中

2012-11-30 | 鎌倉

片瀬東浜から腰越漁港を眺めていて、改修工事が進行していることに気がつきました。
久し振りに、散歩の足を腰越まで延ばしました。


今までの港の船泊の場所から片瀬東浜を振り返ったところです。
ここからは改修の様子は分かりません。


少し奥に進んで、新しく埋め立てられた工事現場からもう一度片瀬東浜を振り返りました。
今までの漁港の海側の防波堤の一部が取り壊されていました。
ここが新しい漁港の内側入口になるようです。
現在の入り口は防波堤で塞ぎ、外側に遊歩道を造る計画です。


埋め立てで拡張された工事現場から小動岬の断崖を眺めました。
防波堤が高いので、水際は見えませんが、以前よりも断崖の様子がよく見えました。
断崖の中央部分に小さな穴が見えたので、望遠にして確認しました。


穴には柵があり、立入禁止の掲示が貼ってありました。
掲示が新しいのは、改修で穴がよく見えるようになったので、冒険する人が出ないようにしたのでしょう。
この穴は、太平洋戦争末期、本土決戦に備えて掘られた横穴陣地の跡のようです。


小動岬の頂きにある小動神社境内の展望台から改修中の腰越漁港を眺めました。
左海側に延びている防波堤は、今回新設されたものです。


同じ場所から2007年5月に撮った写真です。
比較すると漁港が拡大された様子がよく分かります。


明治中期の鵠沼の道を辿る⑧海へ

2012-11-29 | 藤沢


浜道沿いの静かな住宅街が続きます。
駅までの距離も近く、海辺も近く住み易い街です。


左手に赤レンガ造りの壁に囲まれた家があります。
珍しいのでつい被写体として眺めてしまいますが、民家なので由来は不明です。


農地を開発して造られた新しい住宅街です。
この辺りの農地の向うに富士が見える昭和30年頃の写真を鵠沼郷土資料展示室で見ました。


ついに古道、肥上げ道に突き当りました。
肥上道は辻堂の農民が片瀬や江の島の下肥汲み取りの権利を取得して、辻堂までこの道を運んだのが由来です。
鵠沼村が村内通過に反対したので、村有地と海岸の境界線を運んだようです。


肥上道の海側の家並みの裏手は引地川です。
右手稲荷橋の向うに大山が見えました。


引地川を左手に進むと、すぐ河口に出て、湘南海岸公園の向うに江の島が見えました。
今回はここが終点です。

明治中期の鵠沼の道を辿る⑦浜道

2012-11-28 | 藤沢


堀川弘法大師堂から戻って、また古道を進みました。
本鵠沼駅から来て鵠沼新道の太陽の家入口交差点に向かう道を斜めに横切って浜道に入りました。
ここから鵠沼海岸7丁目になります。


古道沿いの静かな住宅街をゆっくり歩きました。
鵠沼海岸7丁目は、海まで約1㌔の地点です。


右手にある浜道の弘法大師堂です。
ここを通るたびに、昔の道を歩いているという実感があります。


石垣と緑の多い道が続きました。


交通の要所「堀川十字路」に出ました。
左折すると鵠沼海岸商店街から小田急線鵠沼海岸駅に出られます。
右折すると鵠沼新道を横切って鵠沼運動公園があります。




明治中期の鵠沼の道を辿る⑥鵠沼ほんみち

2012-11-27 | 藤沢


原の辻から左手の道を進みました。
すぐに鵠沼新道を渡り、鵠沼ほんみちを南に向かいます。


本鵠沼3丁目に入ると、道沿いの左手に湘南しらす直売所「堀川網」があります。
毎朝漁船堀川丸で取った新鮮なしらすを直売しています。
鵠沼海岸で観光地引き網もやっているようです。


「堀川網」の隣に駐車場が整備されていました。
中央に立派な墓地があるところは、如何にも鵠沼ほんみちです。


改装中の家の所で、道が二股に分かれていました。
左の広い道は、新しく開発された住宅地への道です。
鵠沼ほんみちは右手の狭い方の道です。


しばらく進むと、右手は生垣の続く旧家が並び、左手は畑地が残る場所にでました。
本鵠沼に残る貴重な畑地の1つです。
畑地の向うに、以前は尼寺だった本真寺の屋根が見えます。


右手の旧家の間の細道を入り、裏庭にある堀川弘法大師堂に立ち寄りました。
相模国準四国八十八ヵ所第五十六番で、
「とほつおやのみたままさしく有りあけの影さわやかにぞすめる堀川」
とありました。

明治中期の鵠沼の道を辿る⑤原の辻

2012-11-26 | 藤沢


藤沢警察署に沿って進むと、道は鵠沼新道と鵠沼の古道に分かれます。
右手の古い道を進みました。


鵠沼の砂地を囲む石垣のある道です。


目の前に寿司屋の看板が見えたので、昼食休憩にしました。
海が近いので地魚の握り寿司がお薦めでした。


また古道を進むとY字路、原の辻に出ました。
この辺りは昔の原集落です。


原の辻には史蹟石造物がまとめて建っています。
平成になってから、周辺の供養塔をまとめて整備したようです。


史蹟案内によると、中央の出羽三山供養塔は徳富蘆花の「思い出の記」に取り上げられているようです。




明治中期の鵠沼の道を辿る④茂兵衛の辻

2012-11-25 | 藤沢


本鵠沼2丁目に突き当った道を右に曲がりました。
この道は昨年「くげぬまみち」として歩いた道で、右手の細道に続いています。
今回は左手の大東町内会館のある方に曲がって進みました。


先に進むと、左手に「防災協力農地」がありました。
普段は農地ですが、防災に必要な場合は土地を利用できる場所のようです。
作物の切り替え時期でしょうか、何も植わっていませんでした。


曲がりくねった道を進みました。日の光に映えて生垣がきれいでした。



道沿いのフェンスにひょうたんが干してありました。
少なくなりましたが、時々農家の庭でひょうたんを育てている風景を見かけます。


茂兵衛の辻に着きました。
この辻の右手の道を進むと小田急線の本鵠沼駅に続いています。
ここから辻の正面の道を進みます。


すぐに昭和39年(1964)開通の鵠沼新道に突き当りました。
この信号の先の建物は藤沢警察署です。
横断歩道を渡って本鵠沼4丁目に入り、鵠沼新道に沿って南に進みました。 

明治中期の鵠沼の道を辿る③大東の辻

2012-11-24 | 藤沢


右手のJR社宅の沿って進みました。
この社宅の裏手を県道30号線が走っているので、この道は静かです。


左手に大東の辻があり、2基の庚申供養塔が祀ってありました。
1基は享保2年(1717)、もう1基は宝暦4年(1754)の建立です。



大東の辻を過ぎると、急に鵠沼らしい緑の濃い道になりました。
右脇の電柱の標高表示は海抜9.7mでした。


寄り道をして、左手の細道に入ってみました。
道の脇に稲荷社が建っています。かなり以前ですが、ここに初午の旗が建っているのを撮ったことがあります。


稲荷社のさらに奥には、遊具もあり墓地もある砂地の広場があります。
鵠沼の時間が止まったような広場です。


寄り道から戻って前に進みました。
ここまで本鵠沼1丁目の中の道を歩いて来ましたが、ここから本鵠沼2丁目に入ります。

明治中期の鵠沼の道を辿る②仏堂道

2012-11-23 | 藤沢


道の左手が金網に囲われた草地になりました。
農地から住宅地へ変わって行くスペースと思われます。


この辺りの道は昔の道がベースなので、イナズマ形に曲がっています。
古い地図によると、「経堂道」と記してあります。


道は古いのですが、両側の住宅は大部分が新しい住宅です。


少し進むと、旧家の長い塀などが続くようになり、古い道の雰囲気が出て来ました。


大東集落の庚申供養塔に着きました。元文2年(1737)の建立です。
庚申塔の右手の道を西に向かうと、普門寺に通じています。
この日は庚申塔の前の南西に向かう道を進みました。

明治中期の鵠沼の道を辿る①一本松の辻

2012-11-22 | 藤沢

明治中期、まだ江ノ電や小田急線がなかった時代、人々は東海道線の藤沢停車場から海までを歩いていました。
当時の鵠沼の道がそのまま残っている訳ではありませんが、その気になって辿ってみました。


当初の鵠沼停車場は北口だけだったようなので、藤沢駅北口から西に歩いて、一本松の踏切に向かいました。
ここから踏切を渡って鵠沼の道を歩きました。


踏切を渡ると、すぐ左に曲がる道は、藤沢駅南口に通じています。
次にもう一本左折の道がありますが、そこを進むと橘の辻があり、辻から江ノ島裏街道に向かうことが出来ます。


この日は最初の道を右折して西へ向かいました。
右手奥に高層マンションが見え、手前には新しい住宅街があります。
うろ覚えの記憶では、確かこの辺に自動車教習所が在ったような気がします。


道幅が狭くうねっているので、人も車も要注意の道ですが、そんなに車は通りません。
師走に向けて庭木の手入れに励んでいる人がいました。


少し進むと、左手に「保存樹木」の指定がある生垣がありました。
少なくなったので、なんとか残したいという願いが感じられました。

ちょっと大桟橋まで

2012-11-21 | 横浜


高校の同窓会が元町の近くであったので、少し早めに行き、みなとみらい線の日本大通りで降りました。
開港広場に近づくと、まるで「シダレイチョウ」のようなイチョウが色づいていました。
広場に居た人に大桟橋の方向を尋ねられました。
大きな船が入港しているので、写真を撮りに来た、と言っていました。


そこで自分も大桟橋(昔のメリケン波止場)に行くことにしました。
象の鼻の辺りから見ると、飛鳥2号が見えました。


折角なので、大桟橋の先端まで行き、飛鳥2号の船首とその向こうに見える「みなとみらい」の景観を撮りました。
バケツと竹竿を持って魚を釣った、少年の日の記憶の上に広がる景色です。


帰り際、もう一度象の鼻を通ると、昔の少年が2人並んで釣りをしていました。

藤沢駅北口道路工事

2012-11-20 | 藤沢


藤沢駅北口の遊行通りが国道467号線に合流する地点です。
道路工事の掲示がありました。
工事の完成予定は平成24年2月28日です。


金網の向う側をのぞくと、この道は藤沢駅北口に向かっているようです。



家に戻って、藤沢市のホームページを検索すると、工事の概要が分かりました。
北口から延びた道路が、国道467号線につながる予定のようです。
合流点の交差点はちょっと難しい仕組みになりそうですが、藤沢駅北口の車の流れは大きく変わりそうです。

玉縄首塚

2012-11-19 | 鎌倉


龍宝寺の帰り、玉縄首塚に寄りました。
行きにも前を通ったのですが、見落としたようです。
熱心に石碑を読んでいる人がいたので、ここが首塚だと気がつきました。


大永6年(1526)安房の里見氏が鎌倉に来襲した時、玉縄城の北条氏時が応戦、戸部川(柏尾川)付近で激戦になったようです。
両軍とも多くの戦死者が出ましたが、戦後、氏家が里見方に首の交換を提案し、交換した首をこの地に葬ったと伝わっています。
毎年、8月19日に玉縄首塚祭りが行われています。

大船・龍宝寺

2012-11-18 | 鎌倉

玉縄城築城500年祭の情報が伝わって来たので、様子を見に出掛けた時の写真です。


大船から歩いて龍宝寺を訪ねました。
山門の前のイチョウが色づいていました。


この寺の山門は茅葺きの古い門で、なかなか風情があります。
この日は「歴代玉縄城主を偲ぶ会」が開催されたのですが、のんびり出掛けたので、丁度終わった時でした。


境内は後片付けで忙しそうだったので、邪魔にならないように参詣しました。
広い境内の奥にある本堂です。入口の垂れ幕はこの日のために新調されたものでした。


本堂の内部も、この日のためにきれいに飾ってありました。
境内にはいろいろ見所がありますが、もう一度ゆっくり来てみようと思いました。

長虫神社

2012-11-17 | 藤沢


大鋸3丁目の諏訪神社の境内で面白い神社を見つけました。
大正4年に建立された簡素な「長虫神社」です。
「長虫」は多分「蛇」のことだと思われます。
来年の干支は「巳」なので、スポットライトが当たるような気がします。

諏訪神社の狛犬

2012-11-16 | 藤沢


遊行寺坂を下り、遊行寺の向かいにある諏訪神社に立ち寄りました。
今回は入口の狛犬に注目しました。


左側の子犬と一緒の狛犬の台座にに、「凱旋記念」の文字を見つけました。


右側の玉を抱える狛犬の台座には、発起人の兵士の名前が並んでいました。
これらの狛犬は日露戦争の戦勝記念に建立されたものでした。
太平洋戦争の焼跡派は「戦勝」の記憶がないので、意外な発見で思わず驚きました。