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あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

宮崎監督引退と職人宣言

2013年09月19日 00時00分42秒 | Weblog
 東京オリンピック開催が決定する直前に映画監督の宮崎駿氏が引退を表明した。彼が本当に引退するかどうかはともかく、宮崎監督の中に矛盾がたまり続けていたことは確かであろう。
 彼はカネではなく心、モノではなく自然こそが重要だと、子供に向けたメディアの中で叫び続けてきた。しかしそれは彼の思想とは全く関係なく、巨大なカネとモノの世界に発展していってしまった。もはや宮崎監督は純粋に子供に呼びかけることができなくなった。そして彼が最後に「遺言」として撮ったのが、大人に問いかける矛盾に満ちた物語だったのである。

 宮崎氏の矛盾はまさに資本主義の中で理想を追い求める矛盾であった。
 彼自身はもともと日本共産党員であり、労働運動の指導者だった。激しい組合運動を闘っていたようだ。しかし1970年代後半から80年代におけるソ連と中国のスターリニズムに嫌悪し転向する。
 しかし当然ながら目の前にある日本の資本主義の現状も肯定することが出来なかった。宮崎氏の偉大なところは、既存の誰かの思想に安易に迎合することなく、目の前の現実と格闘しながら自らの独自の思想を磨き上げていったところにある。そうであったからこそ、あのような深い陰影のあるすばらしい映画を作ることが出来たのだ。
 ただ彼が莫大な制作費用のかかる劇場長編アニメ映画を作ることを職業として選んだ以上、彼の思想がどうであれ、資本主義の巨大なメカニズムの上に乗らなくてはならなかった。彼は映画制作がビジネスであることは十分承知していた。巨大な利権が動き、作品が評価されればされるほど、自分の作品がこの日本資本主義の重要な肥やしになっていくこともわかっていただろう。

 宮崎氏が悪いわけではない。資本主義の社会で仕事をする以上、そこから自由になれるわけはない。
 映画は商品であり、また芸術でもある。それは本質的には矛楯をはらんだ状況だ。しかしファンたちはその矛楯などには頓着せず、無邪気に芸術を商品として消費する。もちろんファンたちが一方的に悪いわけでもない。それが資本主義だからだ。

 宮崎氏は引退会見で、自分のことを文化人でも企業家でもなく、町工場の親父だと規定した。町工場の職人は、たしかに現代日本では資本家の側に分類される。もう少し細かく言えばプチブルであろうか。しかし町工場の職人は資本主義が生まれる前から存在した。
 資本主義における商品は基本的に「いらないモノ」である。人が生きるために絶対に必要ではないものを、より多く作り、より多く売るのが資本主義なのだ。だがそんな資本主義以前から人は生きてきた。人が生きるのに絶対に必要なものを作ってきたのが、農民であり漁師であり職人だった。
 宮崎氏が自分を資本家でもプチブル文化人でもなく職人だと宣言したことは、彼の引退表明の中で最も核心的な言葉だったと思う。
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