同床異夢という言葉がある。安倍政権が誕生して以来の日本の浮かれようは、まさに同床異夢の状態なのだろう。それぞれが何も起こっていない現状の果てに、自分自身の幻想を投影している。
いや、何も起こっていないのではなく、事実はひょっとすると悪くなっているくらいなのかもしれない。
オリンピックに沸き立つ人々の中にも、おそらく多くの「異夢」がある。単純にスポーツが好きで喜んでいる人はともかく、中には危うい夢を見ている人もいる。
たぶんここに明るさを感じた人の感覚には、あの民主党の政権交代と同じような意味が隠されている。それは高度経済成長期の日本への回帰願望だ。
東京オリンピックという言葉の響きの中には、若さと躍動感、明るさと希望を感じる人が多いだろう。もちろん年寄りの話だが。まさに三丁目の夕日の時代である。
だからもう一度オリンピックがやってくれば、あの若々しい日本が取り戻せると思う人がいてもおかしくない。
しかしそれは日本が戦争に負け、貧しく何も持っていなかったからこそ、あり得た成長期であった。若くありたい、できれば時間をさかのぼって青春時代に戻りたいという願望は、人間に刷り込まれた意識なのかもしれないが、時間は戻せないし、若いときは一瞬で、我々は老いていかねばならない。
だが老いていくことは不幸ではない。それは自然なことであり、それを受け入れ「正しく」老いていくことこそが、つまり成熟していくことこそが、おそらく最高の幸福なのだと思う。
もはや時代は大きく変わった。日本が奇跡のような経済成長を実現できる可能性は全く無い。そうした状況の中では成長よりも安定をめざすべきであり、無理をして一番を目指し挫折するより、順位にこだわらず身の丈にあった場所を地道に探すべきなのである。
それは負けでも自信喪失でもない、大人になるということである。
今朝のテレビでは、オリンピックの経済効果が150兆円とか、吹き出してしまうような大風呂敷を広げた話も出ていた。おカネで何事かを換算することの虚しさに、まだ気づかないのだろうか。というより、現代人はそれ以外に何かを計る基準を持っていないのだ。
経済効果というのは、おカネがどのくらい動くかという話だ。カネが動くというのは、誰かから誰かにカネが移動するだけのことである。それは社会全体の富が増えることとは全く関係がない。
当たり前のことだが、一個のリンゴをみんなで次から次へ手渡していっても、誰の腹を満たすことも出来ない。リンゴが人数分あってそれをみんなが食べたときはじめてリンゴの意味がある。
もしリンゴを手回ししているうちに、誰かが満腹になっていたとすれば、それは誰も気づかぬうちにリンゴの中身がくりぬかれているということである。
またもし、リンゴを採ってきていないのにリンゴの数が増えているとすれば、それはただリンゴを小さく割って数を多く見せているだけのことだ。しかしそれでも人々が回すリンゴの数は増えたことになってしまう。
皮だけになったリンゴ、小さくなったリンゴ片でも威勢よく回しているうちはいかにも景気がよさそうに見えるが、最後にその皮だけをつかまされて泣きを見る者も出てくるだろう。
人間と人間社会にとって重要なことは、リンゴを回すことではなく、汗を流してリンゴを採ってきてみんなで食べることである。
経済効果というものが本当に意味を持つのは、持っている者から持っていない者へおカネが移動する場合だけだが、経済効果という指標の中にそうした区分がない以上それを計るすべは無い。
先日、マンガ雑誌のアンケート募集の景品に空クジがあると報道されたが、経済効果というのも読者アンケートの景品の「当選は発送をもって代えさせていただきます」と同じで、自分にはっきり恩恵が回ってこない限り、あったのか無かったのかさえ実は誰にも分からない。
いったい日本人はいつからこんな経済効果などという言葉で幸せを計ろうとするようになったのか。右翼の皆さんは、くだらない嫌韓デモをやっている暇があったら、日本の伝統には無いこんな醜い尺度を排斥するよう尽力されるとよい。
オリンピックで経済効果を期待する人は、自分のところにカネが回ってくると考えている。どこから回ってくるのか。と言うより、その結果どこへおカネが回らなくなるのか。持ちすぎている人がただ吐き出してくれるだけなら良いだろう。しかし往々にして持ちすぎている人の財布の紐は固く(だから金持ちになれるのだが)、無いところから無いところへ「共食い」の連鎖が起きるばかりである。
いま最もカネ・モノ・人・時間が必要なのはどこか。言うまでもなく被災地であり福島である。オリンピックはそこに回すべきカネ・モノ・人・時間を自分のところに引っ張ろうとしている。それはダメだ。
今日の記者会見で菅官房長官は、昨日の安倍首相の発言を踏襲する形で「(オリンピックは)復興を成し遂げた姿を世界に見ていただくという面もあって、復興にも強く取り組んで生きたい」と述べた。
やはりそれは違う。それではオリンピックのための復興になってしまう。復興のためのオリンピックと言っていたことと逆転している。汚染水対策もそうだが、オリンピックのため、オリンピック第一という姿勢はひどすぎる。まず人々の生活があって、その上でのオリンピックであり、その上での経済だ。その順番が違うと全く何のことか分からなくなってしまう。
前に書いたことの繰り返しになってしまうが、ぼくはオリンピックをやめろと言っているわけではない。そもそも都民でないぼくにそれを言う資格は無い。しかし国の問題は別だ。オリンピックは東京に任せて、国は国のやるべきことに力を注ぐべきだ。
オリンピックは東京に、オールジャパンは被災地復興のために! それがスローガンでなければならない。
いや、何も起こっていないのではなく、事実はひょっとすると悪くなっているくらいなのかもしれない。
オリンピックに沸き立つ人々の中にも、おそらく多くの「異夢」がある。単純にスポーツが好きで喜んでいる人はともかく、中には危うい夢を見ている人もいる。
たぶんここに明るさを感じた人の感覚には、あの民主党の政権交代と同じような意味が隠されている。それは高度経済成長期の日本への回帰願望だ。
東京オリンピックという言葉の響きの中には、若さと躍動感、明るさと希望を感じる人が多いだろう。もちろん年寄りの話だが。まさに三丁目の夕日の時代である。
だからもう一度オリンピックがやってくれば、あの若々しい日本が取り戻せると思う人がいてもおかしくない。
しかしそれは日本が戦争に負け、貧しく何も持っていなかったからこそ、あり得た成長期であった。若くありたい、できれば時間をさかのぼって青春時代に戻りたいという願望は、人間に刷り込まれた意識なのかもしれないが、時間は戻せないし、若いときは一瞬で、我々は老いていかねばならない。
だが老いていくことは不幸ではない。それは自然なことであり、それを受け入れ「正しく」老いていくことこそが、つまり成熟していくことこそが、おそらく最高の幸福なのだと思う。
もはや時代は大きく変わった。日本が奇跡のような経済成長を実現できる可能性は全く無い。そうした状況の中では成長よりも安定をめざすべきであり、無理をして一番を目指し挫折するより、順位にこだわらず身の丈にあった場所を地道に探すべきなのである。
それは負けでも自信喪失でもない、大人になるということである。
今朝のテレビでは、オリンピックの経済効果が150兆円とか、吹き出してしまうような大風呂敷を広げた話も出ていた。おカネで何事かを換算することの虚しさに、まだ気づかないのだろうか。というより、現代人はそれ以外に何かを計る基準を持っていないのだ。
経済効果というのは、おカネがどのくらい動くかという話だ。カネが動くというのは、誰かから誰かにカネが移動するだけのことである。それは社会全体の富が増えることとは全く関係がない。
当たり前のことだが、一個のリンゴをみんなで次から次へ手渡していっても、誰の腹を満たすことも出来ない。リンゴが人数分あってそれをみんなが食べたときはじめてリンゴの意味がある。
もしリンゴを手回ししているうちに、誰かが満腹になっていたとすれば、それは誰も気づかぬうちにリンゴの中身がくりぬかれているということである。
またもし、リンゴを採ってきていないのにリンゴの数が増えているとすれば、それはただリンゴを小さく割って数を多く見せているだけのことだ。しかしそれでも人々が回すリンゴの数は増えたことになってしまう。
皮だけになったリンゴ、小さくなったリンゴ片でも威勢よく回しているうちはいかにも景気がよさそうに見えるが、最後にその皮だけをつかまされて泣きを見る者も出てくるだろう。
人間と人間社会にとって重要なことは、リンゴを回すことではなく、汗を流してリンゴを採ってきてみんなで食べることである。
経済効果というものが本当に意味を持つのは、持っている者から持っていない者へおカネが移動する場合だけだが、経済効果という指標の中にそうした区分がない以上それを計るすべは無い。
先日、マンガ雑誌のアンケート募集の景品に空クジがあると報道されたが、経済効果というのも読者アンケートの景品の「当選は発送をもって代えさせていただきます」と同じで、自分にはっきり恩恵が回ってこない限り、あったのか無かったのかさえ実は誰にも分からない。
いったい日本人はいつからこんな経済効果などという言葉で幸せを計ろうとするようになったのか。右翼の皆さんは、くだらない嫌韓デモをやっている暇があったら、日本の伝統には無いこんな醜い尺度を排斥するよう尽力されるとよい。
オリンピックで経済効果を期待する人は、自分のところにカネが回ってくると考えている。どこから回ってくるのか。と言うより、その結果どこへおカネが回らなくなるのか。持ちすぎている人がただ吐き出してくれるだけなら良いだろう。しかし往々にして持ちすぎている人の財布の紐は固く(だから金持ちになれるのだが)、無いところから無いところへ「共食い」の連鎖が起きるばかりである。
いま最もカネ・モノ・人・時間が必要なのはどこか。言うまでもなく被災地であり福島である。オリンピックはそこに回すべきカネ・モノ・人・時間を自分のところに引っ張ろうとしている。それはダメだ。
今日の記者会見で菅官房長官は、昨日の安倍首相の発言を踏襲する形で「(オリンピックは)復興を成し遂げた姿を世界に見ていただくという面もあって、復興にも強く取り組んで生きたい」と述べた。
やはりそれは違う。それではオリンピックのための復興になってしまう。復興のためのオリンピックと言っていたことと逆転している。汚染水対策もそうだが、オリンピックのため、オリンピック第一という姿勢はひどすぎる。まず人々の生活があって、その上でのオリンピックであり、その上での経済だ。その順番が違うと全く何のことか分からなくなってしまう。
前に書いたことの繰り返しになってしまうが、ぼくはオリンピックをやめろと言っているわけではない。そもそも都民でないぼくにそれを言う資格は無い。しかし国の問題は別だ。オリンピックは東京に任せて、国は国のやるべきことに力を注ぐべきだ。
オリンピックは東京に、オールジャパンは被災地復興のために! それがスローガンでなければならない。