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あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

政権交代とは何だったのか(2)

2012年11月08日 21時55分37秒 | Weblog
 いわゆる政権交代の時に様々な言説が乱れ飛んだわけだが、私見では大きく言って三つの立場があったように思う。
 ひとつめは「国民が変化を望んだ結果」「二大政党制がようやく実体化した」などと政権交代を肯定的に受け止める立場で、こうした論調の背景にはポスト小泉時代における自民党政権の混乱と低迷への失望感があり、もう少し具体的に言うならそれは総理大臣が一年ごとに変わってしまう政治の不安定さと景気低迷・悪化感の持続・蔓延に対する国民的ストレスの増大であった。
 有権者はこれを閉塞感と感じ、それを打破する「自民党ではない」民主党に期待したのだ。

 もうひとつの立場は「自民党へのお仕置き」論である。
 これらの人々は前述したような状況への不満を持ってはいるが、基本的に自民党以外に日本の政権運営はできないと信じており、いわば逆説的に自民党再生への期待をかけて(自民党が反省して自己変革するきっかけになるようにと)民主党に投票した。
 一見矛盾した行動のようにも思えるが、実際には民主党も第二自民党でしかないわけで、こうした人々は自民と民主の間に決定的な違いが無いことを看破していたのだとも言えよう。

 そして最後のひとつは、あたかも民主党政権が極左政権であるかのように言い募るデマゴギーであった。多くはネットウヨクなどの右翼ならざる右翼の言説であったが、ここには彼らの恐怖か傷心か侮蔑か中傷か危機感か、もしくはおそらくそのすべてがない交ぜになった感情を読み取ることができる。
 本論とは関係ないことだが、こうした人々にとっては、より融和的な思想や政策は否定すべきものと映る。彼らにとって国家は、実態的には弱者でしかない自分自身を観念的に強大化させてくれる依り代なのであり、そうした「強くあってくれないと困る」国家の論理としては脆弱で頼りなく思えてしまうのである。

 さてこうした三つの論調の中で最も「正論」として語られたのは最初の立場のものであり、そしてそれは政権交代をあおり演出したマスコミの主論でもあった。
 世の中の多くの人々が(それはようするに自ら当事者である人々が)その言葉を信じてしまったが、しかしもちろんこれは誤りだった。
 もし有権者が本当に変化・変革を望んでいたのであれば、もっと自民党から遠く離れた野党がより多く選択されたはずだ。具体的には社共の得票率が(過半数とは言わないまでも)より伸びてしかるべきだったのに、現実にはそうしたことは起きなかった。
 つまり国民=有権者は変革を望んで民主党に投票したのではなかったのである。

 当時、そして今現在、人々が感じている閉塞感とは何か。
 おそらくそれは基本的には経済的な閉塞感である。景気がよくならない、生活は苦しくなっていくばかり、といった感覚だ。震災と進まない復興、領土問題などは、それとくっついているからこそ、より重たく息苦しく感じられるのである。
 しかし残念ながらというか、現在の経済状況は歴史的必然として現れているものであり、景気が回復するとかしないとかいうレベルの話ではない。いわゆる先進国、すなわち日米欧といった20世紀の帝国主義・覇権国家が世界人類を支配する時代が終わろうとしているのだ。
 エジプトやメソポタミアの王国が、ローマ帝国やオスマン帝国が、スペイン、ポルトガルが、大躍進して絶頂を向かえそして没落して行ったように、今われわれも世界の頂点から転げ落ちているのである。永遠の覇者など存在しないのだ。

 ただ付け加えておくなら、これは覇権がアメリカから中国に移るなどという単純な事態ではない。
 産業革命に伴って起きた世界史的転換は経済的な覇権が重商主義的国家から工業国へ移ったというだけではなかった。それは科学主義の台頭、平民的民主主義、自由主義的競争社会の現出など文化的社会的側面においても人類史上の一大変革であった。
 今おこっている事態はまさにそれ以上の非常に大きな激動だと言ってよい。
 なぜなら現在人類が直面しているのは、ヒトという種と地球自然環境の関係性を根本的に変えるか、それともこのまま人類の衰亡へと向かうのか、大げさではなく人類史上最大の危機との戦いであるからだ。
(これはまさしく「地球幼年期の終わり」を果たせるかどうかの人類の正念場であるわけだが、このテーマはそれ自体かなり大きい話なのでいつか稿を改めたいと思う)

 話を戻せば、単純に言って国民=有権者が求めた(求めている)のは経済的繁栄の再来であり、ようするに1980年代までの高度成長~バブル期をもう一度(というか永遠に)ということである。しかしそれは残念ながら無いものねだりであり、絶対に有り得ない「ファンタジー」である。
 しかし一方、宿命的に政治家はたとえ嘘であったとしても常に大衆が喜ぶことを言い続けるしかなく、人々はこれまた自分に一番都合の良い嘘をつく者を選択する(もしくは許容する)のである。

 もちろん本当の解決策はひとつの国家がこのように経済的、政治的なステイタスを相対的に低下させていくときに、どのように「豊かさ」を形成していけるかである。今現在の我々にとっての変革・前進というのは本来そうした方向に無ければならないはずだ。歴史が繰り返さない以上、過去の栄光に浸ることは真の意味での没落をしか意味しない。そうである以上、我々は今こそ自らの価値観を変革し前進していかねばならないのだ。
 流行語ではないが「一番じゃなきゃいけないんですか?」という問いかけを自らにしなくてはならない時はとっくに来ている。事実を見てみよう。世界を見回してみれば別にGDPの順位が高い国が豊かな国なのではない。そんなこととは全く関係なく人々が豊かさを感じている国はいくらでもある。そもそも日本人はこれまで自分たちが豊かだとなかなか実感できないできたではないか。
 そんなことはすでにショーペン・ハウエルの時代から明らかなことなのに(「富は海水に似ている。飲めば飲むほど喉が渇く」『幸福のためのアフォリスメン』)、思考が完全に「アメリカあたま」として洗脳されてしまっている我々はそのことに思い至ることすらできない。
 実はこのあえて言えば「歪んだ」日本人の精神構造こそ、現在の日本の混迷する政治を生み出している元凶であり、また同時に民主党政権交代を実現させた原動力だったのである。

 思えば政権交代当時、流行していたのは昭和ブームであった。「三丁目の夕日」とか「20世紀少年」とか「東京タワー」とか。それはおそらく歴史的現実としての「戦後」ではなく、イメージとしてのバラ色の高度経済成長だった。いつの間にか国家的大悪人であった田中角栄が英雄視されるようになるまで昭和のファンタジー化は進行してきている。
 繰り返しになるがもう一度はっきり言おう。国民=有権者が望んでいた(いる)のは前進でも変革でもなく過去への回帰である。人々が民主党に求めたのは新しい論理、新しい価値観、新しい政治などではなく、高度経済成長期の「古い」政治、「昔の自民党」だったのである。
 まさに政権交代時の民主党=鳩山・小沢体制は鳩山一郎と田中角栄という高度経済成長期の自民党を暗示していた。新自由主義という過酷なポスト冷戦期をもたらした小泉時代~ポスト小泉時代に疲弊しきった人々が求めたのは、右肩上がりだった時代への郷愁だったのだ。
 にもかかわらず人々は自らさえもごまかすごとく、民主党という選択を「新しい」選択であると思い込んだのであった。それはファンタジーにファンタジーを上乗せしたまさに「夢」だった。

 夢である以上それは必ずいつか覚める。そのとき現実に気づき、それを受け入れるのか、再び現実から逃避して夢の世界に浸ろうとするのか。われわれにとって大変困難なのは、政治家、評論家、マスコミ、学者、ありとあらゆる勢力が事実を隠蔽し、われわれを永遠に夢の世界に留めおこうとするということだ。その夢は、経済がいつまでも拡大し続け、人類は無限に富を増やし続け、そして一つの国が永久に世界のトップであり続けることが出来るという、夢の錬金術、永久機関という中世的幻想である。
 もちろん人はいつまでも夢を見ていたい。それが出来るのなら幸せなことだ。しかし麻薬が見せる夢は地獄の門の入り口であることを忘れてはならない。
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