(続き)
議長/M
地震で残骸片付けしているうちに、腸の具合が悪くなり、3月20日に緊急外来へ。次の日入院した。4月13日退院。
倉島/県の対策本部から、次のような資料が出されています。
「大災害救援対策県本部運用上の留意点」平成23年4月15日
今回気づいたことですが、このような視点が漏れていることがわかりました。
「5(会員の義務)
大災害が発生したとき、会員は速やかに支部長と連絡を取って、被害の状況や所在場所の移動等について、報告しなければなりません。被災した会員の救援をするには、情報の交換が何よりも大切だからです。」
この通りだと思います。事務局からFAXしても応答がない、家にいないんだから。どこにも連絡しようがない状況があったらしいです。
久ノ浜のIさんが元気だったというのは、つい最近、6月に入ってやっとわかりました。
JDFの地域対策本部立ち上げの集まりがあると連絡が入り、私が行きましたが場所がわかりません。タクシーの運ちゃんもわからずにぐるぐる回りました。
市役所で聴こうとしたら、通りがかりの人が気づいてくれて、何かお困りですか、と。事情を話すと「じゃ、私の車で」という。親切な方もいるものだ、助かりました。
会場は市役所の裏にあり、すぐに見つかりました。
すでに会議が始まっていました。空いてる席がひとつもなく、いちばんうしろにいた人が席に座らせてくれました。
ろう者も参加していて、手話通訳がいたが、私は手話がよくわかりません。
急なことで、要約筆記のことは確認していませんでした。参加しましたが何一つわからず帰ってきました。残念です。
【交流会】
村松/被災時の状況をお話しください。まずアンケ用紙に5分間、記入をお願いします。皆さんの震災のときの状況、よくわかってません。メール等の連絡先も連絡網用に記入してください。
※以下、個別事例
1女性)建物は大丈夫だった。食料が入手困難、断水は一週間後復旧。体が不自由で友人から差し入れを頼んだ。
2女性)建物に20cmくらいのひびが多数。ライフラインに困った。1週間断水。罹災申請はしていない。給水に並んでも、3回くらい「これ以上水が出ません」と、場所を移動させられた。津波もひどかった。ハザードマップはあったが想定以上。停電復旧後はテレビで情報を得たが字幕がない。
3女性)建物は被害なし。塀が壊れた。水困った。お風呂に水くんでおけばよかった。近くに住む娘が水や買い出し協力してくれた。
4女性)建物被害なし。困ったのは情報。テレビだけ。原発のことを知りたいのに、地方のNHKでは字幕ニュースがなかった。福島からもぜひつけてほしいなと思った。
5女性)建物被害なし。1週間停電。電話やラジオがあっても聞こえない。仲間の皆さん困ってるだろうなとつくづく思った。私は家族がいたからなんとか状況教えてもらったが。一人だったら困っただろう。1週間ぶりに電気ついて本当にほっとした。津波にはびっくり。私だけ知らなかったんだわとショック。
6男性)建物被害なし、コンクリの基礎がちょっとヒビあり、2箇所被害。娘一家が避難していた川内村体育館から車三台で来てびっくりした。米が4本(ママ)あったのでよかった。娘は東京奥多摩に避難した。
7男性)ばあちゃんが老人ホームにいた。万一避難することになったら聴覚障害者の私だけで対応できるか心配だったが、避難対象にならず安心した。
人工内耳なので、専用のボタン電池がどこも品不足。少しストックあったが心配になった。職場は大きな県の建物。80人くらい避難してきて、職員も対応に追われる。私は皆さんとのコミが充分できず、困った。
テレビはNHK地方局ニュースに字幕つけばと思いつつ視ていた。
8女性)孫守りをしていて地震に遭遇。水も電気もなかったが、そんなに困らなかった。ふだんから貧乏生活なので慣れていた。停電でも車でテレビを見ることができた。
9男性)地震の後も社外にでたが、仕事もできず家に帰った 家の中食器戸棚みなごちゃごちゃ。まだ小さな地震が続くので気になるし心配、落ち着かない。
10女性)地震のとき車を運転中。交差点で止まっているときにゆれに気づく。風かと思ったが。横揺れ恐かった。家の中、食器などが散乱して足の踏み場もなく、片付けに3日かかった。ほとんどは散乱しただけで大丈夫だったが。
重いガスボンベがはずれ、50センチ動いていたのにはびっくり。停電になったが夜10時に復活。水道は最初から大丈夫だった。ガスはこわくて使えなかった。
娘が心配して来てくれた。近くの公民館に避難した人が100人ほどいたと後でわかったが、情報が入らない。
帰宅後、片付けしていた主人が震災後1週間たって腹痛で入院することになり、毎日病院通いすることになり、ほっとできたのはやっと最近のこと。
11女性)いわき市。行き先で揺れを感じ、家に帰らなきゃ、と。屋根の瓦が落ち、家の中では食器棚からみんな落ちて足の踏み場なし。
4月11日の余震もひどかった。会社に行ってたが。原発が危ないという話が出たので、埼玉に夜中に逃げた。避難するまで様子がほとんどわからず不安。埼玉で落ち着いた。
もう帰ろうかと言ってるときに、右足首骨折してしまい、ギプスをあてた。とにかくギプスをはずせないので2ヵ月あちらにいた。今も歩くと痛む。
避難の子どもらと10人家族となり親子三代で生活した。
12女性)いわき市。外出中に被災。電子レンジが壊れた。家が傾き、近くに空き家があったのでそちらに住んでいる。家が見つかるまでは近くにある実家にいた。食料どこっとあり、電気水道もあり困らなかったが。
※15:40 いわき市の方は16時のバスに乗らないと帰れないとのこと。ここで中座、皆さんと名残惜しそうに別れる。
13女性)リハビリで外出中だった。病院にいて、アパートが倒れないか心配だった。
ゆれがやむまで病院に。息子が私が家にいないと心配して探していた。二階に住んでいるが。下は足不自由な高齢者。車で避難するのに私が帰ってくるのを待っててくれてた。
ライフラインは大丈夫だったがタンス倒れた。ベッドがふさがり夜は娘の家に泊まった。息子も私も聞こえないので、テレビの内容がわからず情報が入らない。心配していた。障害者相談の電話番号がある。FAXで連絡したりして情報を得ていた。
14女性)内外の壁にヒビ。旧いビル街なので、近所はほとんどなんらかの被害。ガラス落ちるので、ガラス危険だと後で思った。ライフラインに影響。情報なく困った。食材は困らなかった。
15女性)郡山市。家にいたが避難。瓦、壁が半壊。補助金もらった。
水道は一週間とまる。風呂はたまたま空だった。水をためてみたら、黒い水。抜いてしまったが、その後全く出なくなる。トイレには使えたので抜かなければよかったと後悔。風呂は息子の家で。放射能のことは考えておらず、知らずに外の片付けをしていた。県外の人はあきれるかも。これまで水を買ったことないのに、娘から50本ももらった。
16男性)柔軟に対応する必要。テントの備えも大事。備えを。
17男性)家内が話したが、春じゃが準備中。地震のときはトイレの中だった。そのままトイレの中にいた。花瓶おちた。
ガスボンベがずれ、倒れそうになっていた。心配だったので何とか直さなければと。しかし業者と連絡がつかない、東京の娘に連絡し、業者に連絡してもらいなんとかなおせた。電気温水器もずれて倒れそうに。修理を近くに頼んだがこない。これも娘経由で東北電力に連絡してやっと。テレビ字幕も含め情報が全く入らなかった。家は頑丈で土台はこわれなかった。電線がひっぱられたはずみで、ひさしがはがれてめくれた。
その後入院したが、原発から放射能が高く心配。窓もあけられず。自分で作った野菜を気にせず食べているが。梅は無理かも。梅干し、梅酒の加工を迷っている。
18男性倉島)地震のときずっと柱にしがみついて、ゆれる蛍光灯の傘を割れないように押さえていた。仏壇倒れた。本箱の本棚がほとんど散乱。腰が痛くなった。あちこち亀裂、電気メーターも落下、修理に時間やお金かかる。
停電に留意している。テレビに字幕がなく内容がわからない。大家さんがいろいろ教えてくれる。水圧弱い。
19男性)家の棚が壊れたくらい。停電で復旧まで3日間。情報が入らず困った。FAXの受話器は停電で使えなくなったが、黒電話を持ち出して使ったらつながった。
20男性)高速道路使用のための罹災証明、証拠になる写真もってこいといわれた。
修理終わってたらもらえなくなる。罹災証明大事。
21女性)地震酔い。いつも揺れてる気がする。テレビの情報が入らず困る。特に原発情報入らない。原発は国のトップシークレットなのだと不安に感じた。
佐野)全難聴から。
高額の義援金が寄せられている。難聴者がんばれと全国の皆さんから全難聴へ。
(その後ハーモニカ熱唱。30年ぶりとか。やんやの喝采。)
村松/名残おしいですが、時間になりました。放射能どうなるかわかりません。これから苦しい時間が続くと思います。
どうか皆さん負けないで。がんばっていきましょう。