朝日新聞の日本語レベル:おかしな見出しは学級新聞か?朝鮮日報か?
朝食の際、テーブルの端に載っていた朝刊が目に入った。別刷りのテレビ番組紹介であったが、食べながらどうにもその見出しが気になった。
(以下の写真では、この記事の論点に直接関わらない部分は必要ないので不鮮明にしてある)
一見気づかないひとがほとんどであろうが、日本語としての明らかな誤りが大きな見出しになっている。
記事自体はタレント(MC)紹介のどうでもいい記事ではあるが、全国紙である新聞社が誤った日本語を大きな見出しで国民の目に晒しているのは非常に有害で無責任であると思う。
「強み?捨て身な こと」 ではなく、 「強み?捨て身な ところ」 が正しい。
見出しに関連した部分を記事本文でさがすと、以下の赤枠の部分であることがわかる。
「強み?捨て身なこと。常に『背水の陣』なので」 というふうに カギ括弧(「」) に入っているのは、当のタレント(MC)本人が使った言葉の引用であることを示唆している。
「そうか、当人が自分でそう言っているのか。それじゃ、しょうがないな」 とふつうのひとは思うかもしれない。しかし、わたしはそうは思わないのだ。
おそらく 「捨て身」、「背水の陣」 云々は口にしたであろう。しかし、この女性が 「捨て身なこと」 と言ったとはとても思えないのだ。
この文脈で 「~なこと」 と言うのは実に不自然なのである。
国語辞典の説明、用例からしても、 「~なこと」 ではなく、 「~なところ」 とあるべき箇所である。
赤線を付けた箇所をご覧いただきたい。
「わるいところを直す」 「粋なところのある人だ」 という用例が示すように、性質、性格の部分や側面を取り上げて問題にする場合は、 「ところ」 を使うのがふつうである。
「ちょっと神経質なところが玉に瑕だね」
「あいつには太っ腹なところがある」
「投げやりなところがある」
「優柔不断なところがある」
これらの用例を以下のように変えてみれば、「捨て身なこと」 の不自然さがもっとはっきりするだろう。
「ちょっと神経質なことが玉に瑕だね」
「あいつには太っ腹なことがある」
「投げやりなことがある」
「優柔不断なことがある」
意味が不自然になったり、異なる意味になったりしていることがわかるだろう。“性質・性格” についての一般的な文脈に限って言うならば、上掲のような 「~なこと」 を使った文は、“誤り” と言えよう。
上掲のような 「~なこと」 の文例 では、 “事実・事例” についての言明になってしまう。「優柔不断なことが多い」 とは言えるが、それは 「~なこと」 が事例の意味だからだ。そして、「優柔不断なところが多い」 とは言えないのは、「~なところ」 が性質の意味だからである。
さて、 「~なところ」 をグーグルで検索してみると、興味深い結果が出てくる。
図らずもたくさん出てきた 「あなたの好きなところ」 という歌詞は、調べてみると31歳の女性歌手の手になるものである。さて、 「捨て身なこと」 と言ったとされる女性MCの年齢を調べてみると、29歳である。ほぼ同世代の女性と言えよう。
女性歌手の方はまともな日本語で 「あなたの好きな ところ」 「たまにバカな とこ」 と歌っているらしい。であるならば、女性MCが同じ世代でありながら 「強み?捨て身な こと」 と言ったとは、とても信じられないのである。
この女性MCはおそらく 「強み?捨て身な とこ」 と、ごくふつうに言ったのではないかと想像される。その根拠は以下のとおりである。
この女性歌手の歌は、タイトルとしては 「~なところ」 であるが、歌詞の中ではすべて 「~な とこ」 となっている。
実際、この女性歌手に限らず、われわれのふつうの会話では 「~なとこ」 は日常的にに使われている。
「あいつもいいとこあるよな」
「そんなとこまで行くほどヒマじゃないよ」
「カレの優しいとこが好き」
そして、当の女性MCも 「強み?捨て身な とこ」 と、ごくふつうに答えたと思われる。
「捨て身な ところです」 も正しい日本語だが、ただこれでは意図に反して真面目すぎる硬い響きになってしまうであろう。「捨て身」 というシリアスな言葉だけに、「~な とこ」 と、比較的軽い表現で受けるのが現代の日本人のふつうの言語感覚ではなかろうか?
それでは、なぜこの朝日新聞の記事では、「強み?捨て身な こと」 となっているのか?
わたしは、これはこの記事を書いた記者による捏造とは言わないまでも “すり替え” であると考える。
当の女性MCは実際は 「捨て身な とこ」 と言ったのである。しかし、この 「~な とこ」 が、文字に起こしてみると、取材をしたこの記者には “活字” にするには、しかも “見出し” にするには、あまりにも “くだけすぎた”、 “軽すぎる” 表現に思えたに違いない。
「強み?捨て身なとこ」
こうした理由で、おそらく一旦は 「捨て身な ところ」 としたと想像される。しかし、これはこれで今度は “冗長” で硬い印象があると感じたのだろう。そして、けっきょく 「~な とこ」 を 「~な こと」 にひっくり返して、これならいいだろう、としたに違いない。
いや、もしかしたら、 “すり替え” をしたのは、この記者の記事を校正した編集部か、別の担当者かもしれない。誰であれ、実に安易な発想である。新聞記者としては、実に貧困な日本語のセンスである。
大きな新聞社の中ではどんな原稿も何人もの人間の目にさらされて、ほんの小さなミスさえも直されるはずであるし、そうなっているはずだ。
にもかかわらず、この為体(テイタラク = ザマ)である。
もちろんこの週刊番組表の記事の内容自体、社会的な影響力は限りなく小さいだろう。しかし、朝日新聞に限らず、どこの新聞社も自分の “新聞の日本語” に関しては記事の内容にかかわらず “国民的な責任” を負っている。
言語は規範である。日本語は、日本の文化の根本的な規範である。日本語の文法的な誤り、日本語の不適切な用法が日本の新聞記事にあってはならないし、これは記事の内容以前の基本的な問題である。“論外の問題” である。収支決算書における計算ミスのようなものである。あってはならないものである。あるはずがないものである。違うだろうか?
もし、この “すり替え説” が事実であるならば、朝日新聞は当の女性タレント(MC)に対して非常に不名誉な行為をしたことになるだろう。日本語のセンスを疑わせるような言葉を、MCを職業とする当の女性が使ったような記事を写真付きで仕上げているからである。
そもそも、記事の “見出し” というひときわ目を引く、簡潔な日本語の文字列において、日本語としてかなり疑わしい表現を使うなど、全国紙の大新聞として問題であろう。学級新聞ではないのだ。朝鮮日報ではないのだ。
見出しは小さな子供も目にする。間違ったヘンな日本語を子供の目にさらすだけで、すでに有害である。
誤った用例を子供や大人の頭脳に刷り込むという意味で、日本語教育的に言って非常に有害である。
活字を扱う仕事は、それなりの責任をともなう。日本の大新聞ともなれば、日本語をおろそかにすることは許されない。
もちろん、朝日新聞は 「強み?捨て身なこと」 は日本語としてまったく誤りではない! と必死になって強弁するであろう。立場上、そうせざるを得ないであろう(笑)。しかし、そうした強弁はすべて “文脈を無視した正当化” なのである。
ザウルスのこの記事において 「捨て身なこと」 というフレーズじたいが日本語として誤りであるとは一言も言っていないことは、読者諸兄にはご理解頂けていると思う。
“性質・性格” という文脈においては誤りなのであり、そして、この朝日の記事ではまさにその “性質・性格” という文脈 で語られているのである。
× 「(わたしの)強み?(それは)捨て身な こと」 です。
○ 「(わたしの)強み?(それは)捨て身な ところ」 です。
「強み?捨て身なこと」
これ、たしかにヘンです、言われてみれば。
やはり、「強み?捨て身なところ」 となると思います。
でもこうやって指摘されなければ、誰もヘンに思わないと思いますよ。
それだけにザウルスさんはすごいと思いますし、マスコミの力は怖いと思います。