田村修容疑者の24年前のブログ記事に見る「殺人正当化論」?
以下のニュース動画で田村修容疑者の24年前のブログ記事が紹介されていた。
HTB 特集すすきの殺人 修容疑者の異様なブログ発見 元検事は語る
動画では、ブログ記事の全文の紹介はない。もったいない話だ。そこでニュース動画からその本文を読み取り、そのまま忠実に以下に再現した。
24年前(1999年5月18日:田村修容疑者35歳、瑠奈容疑者5歳のとき)のブログ記事
1999年5月18日
ニジェールでのクーデターの事を新聞で読んだ。3年前のクーデターの時も、数名が死亡しただけと言う。「アフリカ諸国の中では比較的スムーズに」うまく政権交代がなされたとの評価。日本で言えば、お殿様が腹心に切られたお家騒動の如き印象。「人事異動みたいなもの」というコメントもあった。同じ紙面には、連日のコソボ報道。視近距離で相手の頭を打ちぬく狂気。それこそ「戦争」のなせる技だろうが、実際に引金を引いたその人は何を考え、何を感じるのだろうか。良く言われるように「何も感じない」のだろうか。
中学生のナイフ事件を契機に、新進を気取る人たちの間で、「どうして人殺しをしてはいけないの」に対する根拠は乏しい、と鬼の首でも取ったような底の浅い論が出まわった。そもそもどのような問いにせよ「どうして」に答えるのは至難の技なのだが。
人間(日本語の。他の言語の事情はわからぬ)という言葉は、それこそ「人間関係」と言ってもおかしくない。その関係性(あるいは共同性)を支える最低限のルールの1つが「相手を殺さない」だと考える。これは当然「相手に殺されない」と対になっている。この最低限のルールを守って初めて「ホモ・サピエンス」は「人間」という社会的存在たりうるのだと考える。それを考えず「何をやっても自由」と考えるのなら、それは社会のルールを無視しながら一方で社会の恩恵だけにはあずかろうという、手前勝手な発想。ただの「ヒト」であって「人間」ではない。
さて「人間関係」というものは、何等かの軋轢が生じれば、互いに傷つき傷つけられることになる。それが現実だ。「殺す」が「傷つける」の究極と考えれば、人間関係とは「その関係の維持には「傷つけない(殺さない)」ことが必要だが、関係を維持すれば必ず『(殺さない程度に?)傷つける』ことがある」という矛盾(のようなもの)を孕んでいる。しかし括弧書きしたように殺すと傷つけるは程度(量)の問題だけではなく、質的な境界が(幅はあるが)存在する。
それが「ヒト」と「人間」の境。
再度問われる。「人間を殺して何が悪い」と。悪いなどと一言も言っていない。殺した時点で貴方は「人間」ではなく「ヒト」という獣になるんだよ。それは「人間」としての貴方の自殺行為ですと。その覚悟があるかと問い返したいのです。
「では肉親を殺されたら?」。その時点で相手は「私にとって」獣です。獣には獣としてそれなりに応じてあげるのが礼儀ってもんです。
<正誤表>
相手の頭を打ちぬく → 撃ちぬく、 「戦争」のなせる技 → なせる業、
良く言われるように → よく言われるように、 答えるのは至難の技 → 至難の業、
視近距離 → 至近距離、 互いに傷つき傷つけられる → 互いに傷つけ傷つけられる
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特に重要な箇所について、解説する
人間(日本語の。他の言語の事情はわからぬ)という言葉は、それこそ「人間関係」と言ってもおかしくない。その関係性(あるいは共同性)を支える最低限のルールの1つが「相手を殺さない」だと考える。それを考えず「何をやっても自由」と考えるのなら、それは社会のルールを無視しながら一方で社会の恩恵だけにはあずかろうという、手前勝手な発想。ただの「ヒト」であって「人間」ではない。
人間関係の最低限のルールの1つが、 「殺人者ではない相手(ススキノ事件被害者)を殺さない」 だと、(わたし、田村修は)考える ?
再度問われる。「人間を殺して何が悪い」と。悪いなどと一言も言っていない。殺した時点で貴方は「人間」ではなく「ヒト」という獣になるんだよ。それは「人間」としての貴方の自殺行為ですと。その覚悟があるかと問い返したいのです。
殺した時点で貴方(田村瑠奈)は、「人間」ではなく 「ヒト」 という獣になるんだよ。それは 「人間」 としての貴方(瑠奈)の自殺行為です。「瑠奈よ、その覚悟があるか?」と問い返したいのです ?
「では肉親を殺されたら?」。その時点で相手は「私にとって」獣です。獣には獣としてそれなりに応じてあげるのが礼儀ってもんです。
相手(ススキノ事件被害者)がひとを殺してもいないのに、「獣としてそれなりに応じてあげるのが礼儀ってもんです」 ?
この 「応じてあげる」 という表現に、潜在的な猟奇的欲望 がのぞいているように感じられないだろうか?
「礼儀ってもんです」 という表現によって、自分の主張の正当性をドヤ顔で誇示してはいないだろうか?
殺すと傷つけるは程度(量)の問題だけではなく、質的な境界が(幅はあるが)存在する。それが「ヒト」と「人間」の境。
殺す と 傷つける の境界は、そのまま 「ヒト」 と 「人間」 の境界、という奇妙な論理。
しかし、この論理ならば、ススキノ事件の被害者は、殺していないのだから、獣ではなく 「人間」 である。獣あつかいは不当であり、自家撞着では?
田村修の自己破綻している 「殺人正当化論」
A: 傷つけるところまでが「人間」で、殺したら、「ヒト」という獣になる
B: 殺人者は、獣なみに扱うべし(屠殺?)
しかし、ススキノ事件被害者は殺人者ではなく、獣ではないのに、田村父娘は彼を獣なみに扱った(屠殺した)。
田村父娘こそ、「人間」を殺めた、「ヒト」という獣である。これは、以上見てきた田村修自身が練り上げた論理の帰結である。
共産党員らしい教条的な生命尊重論をこねくり回して、「人間」以下となった「ヒト」という獣を獣あつかいすることを正当化しようとする嗜虐的傾向が少なくとも24年前からあった?
別記事に譲るが、今回の事件以前の少なくとも24年間に 「獣には獣としてそれなりに応じてあげる」機会 が田村修容疑者に全くなかったと言い切れるだろうか?これだけ 理論武装 をしている人間の場合、余罪の可能性も視野に入れるべきだろう。
同じ臭いがするもの同志が引き合うのだ。
加害者側からしたらヤット獲物に出会えた、という
思いだったのだろう。一連の行動からそう思える。
被害者も自業自得。身から出た錆び。
木原事件にしてもそう。
木原氏本人は事件には関係していなくても
それが分かった時の対処の仕方で本性がわかる。
人は究極の何か問題が起きた時、どう対処出来るか、、で
本性が現れる、、。
木原氏の素行を知るほどにそう思う。
奥さんになる人も、過去、元夫を殺した?時も
不倫相手と酒場で落ち合い、「笑顔でVサインしていた」
というではないか、、。なんという●●●●、、。
木原氏も「その時、何故事件を追及し決着が付けてなかったのか」
そしたら「こんな事件に出会う事はなかった、」
と言っていたとか、、。
同じ波動を持つ狂った血の臭いがするもの同志が引き合うのだ。
自業自得。
テレビに出てくる専門家が、両親が娘瑠奈を止められなかった、みたいなことを言っているが、まったくわかっていない。