光と風に乗って地域産品の創出

NPO法人光と風&地魚料理海辺里

屏風浦考ー2

2009年05月30日 | 地域資源
 屏風浦の資源を掘り起こしまちづくりへ架橋する試みが関係者の協力を戴き少しじつ進んでいます。行政では飯岡の資料館、支所の資料室、また個人では上永井の向後さん、飯岡の大嶋さんなど、展示に当たって写真の著作権について同意の作業に入っています。
 写真は昭和20年代から30年代にかけ通称「通連洞」付近のものです。その後は侵食によってこの景観は見ることが出来なくなりました。現在のところ、これ以外に数点見つかりましたが将来的には貴重な写真になると思えます。30年代以前の写真は撮影した方がほとんど亡くなり記録として遺族に引き継がれたもの以外は自然消滅という運命を辿っていることが判りました。
 専門家に聞いて見ました。昭和20年代前半以前、写真機、フイルムは公共機関のみの所有で個人が手にしたのは20年代後半からという。
 過去の映像を見つけ地域の再現を試みるという作業は極めて短い過去の時間に限定されることが判りました。この短い時間を遡及し遥かの時間を測定する作業が見えて来ました。
 これから新聞各社に協力をお願いする予定ですが昭和20~30年代の屏風浦に関係する写真をお手元にありましたら資料の展示(刑部岬展望館)に是非ともご連絡下さい。

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2 コメント

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Unknown (石井)
2009-06-02 10:04:51
本来、写真自体が記録保持の為の物で、現在の様な使われ方にになつたのは、まだ40年位で一般に普及し始めたのは
最近です。
写真機からカメラへ用語が移ったのが電池を使う様に成って自動化が進み誰でも気軽に写真がとれる様になった約
15年位前からで有って、明治、大正の頃にはフィルムでは
なく鉄板やガラス版などへ現在の酸化ハロゲン化銀では無く酸化銀を濡れた状態で使用していました。
又、最初の写真機は、暗い部屋に針穴を開けて壁面へ
投画された映像を紙に映して筆でなぞる、という作業
をしていました。
写真機(暗箱)が出来てレンズが開発され現在に近い
フィルム(乾版)が作られましたが記録触媒を作る会社
が無く自作で作るしか無く材料と成る酸化銀の入手が
困難なことから、当時一般では写真撮影をした物は非常にまれだと思われます。
出来たとすれば、その当時、酸化銀を入手出来た一部の
人だと思います。
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Unknown (1982)
2009-06-08 21:07:17
モノクロ写真は、何となく郷愁を感じさせますね。
暑くなったら屏風ヶ浦も涼しさを感じさせる夏の風物詩になりますね。
冬、日本海のように荒れている屏風ヶ浦は何となく厳しさを感じるものです。
写真がたくさん集まるといいですね!
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