宇宙の青い小さな☆見っけ

青い星に生まれた私は、地球人と言う「宇宙人」。自然を大切にして、この星を守って生きていきたい!

FUKUSIMAの「ベコ屋の戦闘宣言」 6月12日

2012年07月29日 | 被爆体験

ブログ 福島 フクシマ FUKUSHIMA  (管理人:Hugbai)掲載文

ベコ屋の戦闘宣言 6月12日     浪江町・吉沢正巳さんを訪ねて  より

 FYKUSIMAの現状が、よく理解できました。観念的に原発反対でも、こうして災害を被った方に、何の言葉もありません。長いですが読んで下さい。
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 福島第一原発から北西に14キロ、南相馬市小高区と浪江町の境に、(有)エム牧場の経営する浪江農場がある。
 政府が進める避難区域再編によって、警戒区域にされていた浪江農場まで行けるようになった。原発爆発後もこの牧場に留まり続けている農場長の吉沢正巳さん(58)を、5月末に訪ねた。


 車を降りると目に入るのは、なだらかで広々とした緑の斜面、そこで草を食む茶色の牛の群れ。牛の糞の臭いと鳴き声、ハエやアブの羽音、頬を伝う柔らかい風・・・。
 束の間、心地よさに浸るが、それを破るように、携帯していた線量計の警告音が鳴りだす。
 ここは、第一原発の排気塔が見える距離、事故から1年以上経っても空間線量が4~5マイクロシーベルト/毎時という汚染地帯。300頭の牛も、吉沢さん自身も、激しく被ばくしている。


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 この状況の中で、吉沢さんは、牛たちとともに、懸命に生きぬいてきた。吉沢さんは、警戒区域の設定にも、牛の殺処分指示にも従わない。
 避難を余儀なくされている人は10万人に上る。原発事故で家も畑も故郷も失い、政府によって、いま棄民されようとしている。生きる希望を失って、避難民の自殺が相次いでいる。
 吉沢さんは、訴える。「座して棄民を待つのか。待っていても何も起こらない。自ら行動を起こさなければ、何も始まらない」。
 吉沢さんの生き方は、あくまでも一人の人間の選択だが、いまフクシマが直面している厳しい現実の中で、ひとつの説得力のある希望を示していると感じた。

〔以下は、吉沢さんのお話。筆者の責任で整理・編集した〕


           
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12日 1号機の爆発


 3月11日の大津波と大地震、そして夜から原発がおかしくなったよね。
12日の早朝、福島県警の通信部隊が、牧場に入ってきたんだ。深い紺色のワゴン車3台が、赤ランプをつけて。
第一原発の様子をヘリで上空から撮影して、その動画を衛星を介して、県警本部に送るんだと。そのためにここを貸してくれと。「いいよ」ということで、彼らは始めたんだ。
 彼らは、ヘリから、12日午後3時半の1号機の爆発をとらえた。そうしたら、「すぐに引き上げろ、撤退だ」と。彼らは、片づけてすぐに帰るんだけども、そのときに、「とうとう来るべきものが来てしまった。国は情報を隠している。もう逃げた方がいい。われわれは上の命令で撤退するけど、あんたたちもいない方がいい」。そう言って帰っちゃった。
 僕は警察に、「牛が300頭もいるんだ。停電で餌も水も、俺がいなかったらだめなんだ。牛は逃げられないんだ」と、答えた。



放射能の降り注ぐ津島へ


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(浪江町の中心部。一時帰宅の車をたまに見かける以外、ひっそりとしている)


 12日の朝からテレビを見てたけど、国や東電からは何の情報もないまま。浪江には2万人の町民がいた。12日の段階で、町の判断で「逃げろ」と、逃げる場所は浪江町の山間部の津島〔※〕となった。約半数の人たちが、津島に固まって逃げるんだね。いやー、みんな逃げたね、ダアーッと。
 津島は、原発からだいたい25キロあるかな。1万人ぐらいの人が、そこで、夜通し焚き火なんかをしながら避難生活をしていた。
 そこに、14日の3号機の爆発があり、そのあと、南の風が吹いたんだね。それが夜になって、急に冷えて、雨が雪になった。ものすごい放射能が津島に流れてくるわけだ。だけどそんなことは何の連絡もなかった。
 でも、やっぱり警察や自衛隊の動きでわかるんだよ。それで、「もうここにいちゃだめだ」ってことになって、今度は、二本松の東和(とうわ)に、全部、ダアーって逃げるわけ。

〔※津島:浪江町津島地区。原発から北西に約25キロの山間部。この地域の上空を、南東の風に乗って、大量の放射性物質を含んだ雲が通過、この一帯でも、もっとも激しく汚染された。政府は、「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」の試算で津島地区への放射性物質飛散を予測していたが、避難の住民には一切、知らされなかった。因みに、日本テレビの人気番組のDASH村も津島にあった〕



牧場で爆発音も聞いた


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(この日は少し霞んでいたが、写真の中心部に写っているのが第一原発の3号機・4号機の集合排気塔。吉沢さん宅二階から)


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(吉沢さんは、原発が爆発したときも、このようにして自宅二階から双眼鏡で見ていた)


 俺は、牧場の本社がある二本松と浪江農場の間を3~4回、行ったり来たりしていた。
 途中で、検問のお巡りさんが線量計を持っていて、「線量が、通常の千倍ぐらいに上がってる。行っちゃだめだ」と、何遍も止められたけど。でも牛に餌をやりと水を飲ます必要があるからね。
 だから、14日の昼11時の3号機の爆発音も、牧場にいたから直に聞いたよ。
 それから、自衛隊のヘリコプターから、原子炉建屋に向かって放水を始めるということで、それを見たいと思ってね、自宅の二階で双眼鏡を構えていたら、突然、白い噴煙が排気塔の高さまで上がったんだよ。それも、この目で見てしまったね。
 姉と甥が牧場で同居していたんだけど、15日の段階で、千葉の家の方に引き上げてもらった。
 それで、僕は、牧場に一人で残って、300頭ほどの牛に水を飲ませるために発電機を回したり、餌をやったりしていたんだよね。
 でも、もうこの牛は意味がなくなった。商品価値がなくなった。出荷先から断れた。300頭が、全部、経済的な意味はゼロになった。この農場は意味がなくなった・・・。
 300頭の牛が全部、意味なくなったということで、俺は、ガクッと来るわけね。
 それで、どうしようかと考えた。



自衛隊の放水に心を動かされる


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 それで、「もう、これは、東京電力に直に抗議するしかないだろう」と考えたわけ。
軽自動車にスピーカーを乗っけて。東電本社の場所は、だいたいわかってたから。
 だけどあのとき、ガソリンがなかったんだよね。もうどこに行ってもガソリンはないから。仕方なく、牧場にある廃車の燃料タンクをドライバーであけて、何とか1台分のガソリンができた。
 そのとき、ちょうど、自衛隊と消防庁の放水活動が始まって、俺は、それにすごく心を動かされた。「たぶん、この作業で、自衛隊の人らは何人か死ぬだろう。彼らが、原発の食い止めるんだ」と。「だけど、東京電力は逃げようとしている」。撤退ということも出ていたから。「よし、俺が行って、抗議しないといけない」と。
 17日の段階で、「よし、東京に行こう」となった。
 浪江の線量が上がってきているということもわかってきて、もう戻って来れないと思って、あそこに「決死救命」とスプレーで書いたんだよ。赤い方はあとから書き加えたんだけど。 〔上掲写真〕
 まあ遺言みたいな気持ちもあったりしてね。



俺は浪江のベコ屋だ


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 17日の夜に出発して、6号線は通れないことはわかっていたから、4号線の方に行って。自衛隊や警察の車両と何百台とすれ違った。
 たぶん、福島県で最初、一番乗りの抗議活動だろうね。
 東電本社で、「浪江の牧場から来た。停電と放射能で、300頭の牛が死んでしまう。俺はそのことで来たんだ。通してくれ」。
 お巡りに取り囲まれて、突然、俺は大泣きしてしまうわけね。それで、お巡りも困っちゃうわけ。そうしたら応接室まで通されちゃった。でも、私服警官3人が同席だね。何かあったらうまくないと。
 そこで訴えたね。「300頭の弁償を求める。裁判やる。弁償しろ」と。
 それから、もう一点は、「いま大事なことは、逃げるんじゃないんだ。自衛隊と消防庁が一所懸命、戦っているときに、なんでお前らが逃げるんだ。お前らがつくって、お前らが運転している原子炉をどうして止められないんだ。いま大事なことは死んでもいいから水をかけろ。俺だったら死んでもいいからホースを持っていって飛び込んでいくぞ」。
 こいうことを30分ぐらいガンガン攻めたわけ。泣きながら訴えた。そうしたら、応対した東電の総務の人が、泣き出してしまった。



東電から官邸まで


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 東電の次は、丸の内警察署にいった。
 「俺はとにかくしゃべりたいんだ。宣伝カーの許可をくれ」と。
 すると、「出せない」というんだよ。
 後でわかったことだけど、16日に天皇のビデオメッセージがあったんだな。そういうときにさ、皇居の周りで、ベコ屋がガンガンしゃべるなんて許せないということだ。だけど彼らは「おまえはたいしたもんだ。えらい。お前の気持ちはわかる。でも許可は出せない。いま津波で人がいっぱい流されて大変なときだ。ちょっとまだ早いんじゃないか」というわけ。
 仕方がなく、そのあと、農水省にいって、「牛を助けてくれ」と。
 それから、原子力安全保安院に行って、「お前ら、いままで『原発は安全だ』と、何を宣伝してきたんだ。お前らのやっていることは“原子力危険保安院”だ。しかも3号機ではプルトニウムを突っ込んで運転しただろう。それが爆発して燃料がふっ飛んだだろう。プルトニウム汚染じゃないか」。
 それから、首相官邸に行った。警備のお巡りさんに、「俺は、枝野さんに会いたいんだ。原発爆発事故のことを、事象といったけど、どういうことなんだ。俺の受けとめとしては、自らの責任がなく、評論家のみたいに言いうのが事象というんだろうと。国策の原子力発電、原発政策、それを国がやってきて、何を事象というのか。枝野に会わせろ」と。
 お巡りさんは、「いや、いきなりアポなしで官邸に来ても困るから出直してこい」。
 でも、「浪江から避難してきているんだ」っていったら、お巡りさんも意外と親切でね。
 まあ、宣伝カーで1週間ぐらい抗議活動みたいなことをやっていたんだけど、なかなか埒が開かない。さあどうするか。ということで、エム牧場の社長らのいる二本松に帰ってきた。



警戒区域設定に従わない


 牛は、社長が、18日に全部、放していた。牛舎に置いておいたら、やがて餓死するのは目に見えているから。放しておけば、なんとかその辺の水とかで生きながらえるだろうということでね。
 俺は、3月23日に、二本松に帰ってきたんだけど、社長が、「浪江農場の牛を見捨てないようにしよう」と言うんだよね。社長は、「牛飼いとして、牛を見捨てられない」と。
 事故当時の3月は牧草も刈れていて食べる物もほとんどなかった。それで、社長と一緒に、相馬のもやし工場から、袋に入ったもやしの搾りカスを、3日に一度、大型トラックで運んだね。放射能がきつかったから、とにかくここにおいて、サッと帰るということを、3日おきにやった。それからずっと餓死させないということで、餌を運んだんだよね。
 でも、だんだん厳しくなってくるんだよね。4月22日の警戒区域設定で、ばっちりやられちゃう。そこら中、バリケードと警察の検問。許可証のない者は逮捕だということが始まってしまった。 
 われわれには許可証をくれないわけ。
 でも、山の裏の方を通って、バリケードを壊して、バリケードをずらしてどんどん入っていった。


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(餌を運び込む途中の吉沢さんのトラック。今年2月南相馬市内)


 それで、牛はなんとか生きられたんだけど、俺らが牛に餌を与えているということが、新聞報道ででっかくのっちゃうんだ。「河北新報」の記者がこっそり入ってきて書いたんだ。
 それを枝野官房長官が見たんだね。それで国が出した方針は、警戒区域の家畜についての殺処分指示なんだ。農家に、「強制ではないけど、同意の殺処分を求める」と。「警戒区域に立ち入って、餌を与えている農家がいる。非常に危険で許せない」と。
 われわれに許可証はない。でもなんとか入りたい。だから、そういうことを言われると、逆にスイッチが入るわけよ。
 「牛に餌を与えて何が悪いんだ。犯罪でも何でもねえーだろう。おれは牛を生かすんだ。殺処分?絶対に受け入れられねえ」。
 でも、許可証がないから、本当に困っちゃった。結局、お巡りに捕まっちゃうわけ。南相馬警察署で、始末書を書かされることになった。それは書くんだけど、始末書に「二度とこんなことはしません」なんて文句がある。それは受け入れられない。だって牛に餌を与えるわけだから、「二度としません」なんてわけにはいかない。で、「消してしまうかんね」と。そうしたらお巡りが怒ってさ。
 でも、逮捕・勾留なんて、脅かしだってことはわかっているから。
 とはいえ、どうしても許可証がほしかったのよ。南相馬に国会議員が来ていて、相馬野馬追〔※〕の馬とか、ペットの犬猫の救出をやっていた。その先生が南相馬市に掛け合ってくれて、正式に入れるようになった。

〔※相馬野馬追: そうまのまおい。相双地域に伝わる相馬藩ゆかりの伝統行事〕



餓死と殺処分の挫折感


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(スタンチョン〔金属製の枠〕に首を突っ込んだまま、餓死している牛たち。
 写真家から提供を受けて、吉沢さんが街頭で訴える際に使っているパネル)


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(吉沢さんの牧場で、衰弱死した牛の遺骸)


 爆発事故直後、酪農家・畜産農家は、牛を置いて逃げた。もう、周り中の牛舎で、どんどん餓死し始めるわけよ。俺らは、餌運びをしながら、余所の牛舎のそういう姿をずっと見ていたわけ。すごかった。あっちこっちの牛舎でほぼ全滅状態。水がない、餌がない、人もいない。立ち入っちゃなんない。
 「こんなことは、自分ところではいやだ。絶対に生かそう」ということだったんだ。
 それから、国が殺処分指示を出したあと、いろいろ説明会をやるわけよ。「なんとか同意してくれ。強制ではないけど。入れなくて、面倒みられないんだから、国の方針は殺処分だ」と。それで説明会は非常に紛糾するわけ。
和牛の繁殖農家の人は、結構、牛を放したりしている人がいる。「かわいそうだ」って。おっ放した牛が、やがて、野良牛問題になる。野良牛が秋口辺りから、家を荒らしたり、道路を汚したりして、一時帰宅の人の苦情の対象になる。それがみんな役場の方に行く。役場としては、「国は殺処分と言っている」と。だけど、農家は言うことをきかないし、同意書は出さない。
 餓死させてしまった農家の人は、そこでガクッとひどい挫折感だ。「人の命が第一、家畜を構っている暇はなかった」。だけど、苦しむんだよ。「牛を置いてきてしまった」と。
 殺処分に同意した人も、これまた挫折感を抱くわけ。放してご近所に迷惑をかけられないということで、泣く泣く殺処分の同意書にハンコをつくわけよ。
 300軒の畜産農家、60~70軒の酪農家が、もう牛飼いなどできないくらいの精神的な挫折感の中にあるんだ。
 国は、今日も、どっかで牛たちをとっ捕まえて、殺して、埋めて、という殺処分の作業をやっているよ。臭いものにフタをして、見えないようにする。証拠隠滅だよ。その一方で、原発を再稼働しようとしている。



厄介者の棄民


 浪江、双葉、大熊、富岡というのはチェルノブイリと同じような状態。そこに帰る意味もないよね。そこでコメはつくれないだろうし、地震の被害もひどい、津波の破壊も半端でない。
 浪江町は、原発立地ではない。福島でも発電所のないところ。そういうところが、今回、ひどい汚染をうけたわけ。
 しかもスピーディの情報が隠されて、津島でみんな猛烈な被ばくをしている。原発立地町じゃない、直接には、恩恵をうけない浪江町が、今回一番、ひどい目に合っている。
 その人たちが、迷惑な厄介者として、いずれ捨てられようとしている。避難した10万人の人も、捨てられようとしている。邪魔の者、厄介者、迷惑な土地、迷惑な人たち。棄民政策だよ。間違いない。
 それで、浪江町でも、5人も自殺している人が出ているわけだよ。先日の商店主の自殺が5人目だ。商売もできない、コメも作れない、うちにも帰れない、帰る意味もないしね。



逃げてばかりでいいのか


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 いま仮設住宅でも避難所でも、まだ多くの人が、模様眺めをしてる。気持ちが折れて、生きる意味を見出せない。そういう人が大勢いる。自殺する予備軍のような人は、そこここにいるわけよ。町のアンケートを見ると、「死にたい、生きている意味がない」という人がいっぱいいるんだよ。
 それは、模様眺めしているから、そうなっちまうわけね。
 たくさんの農家の人らが、牛をほうり投げて逃げたわけだけれども、それは、正しい選択なんだよ。全くね。あの当時、あの危機的な避難行動の中でさ、誰のとった行動だって非難なんかできないよ。逃げるための精いっぱいの行動だよ。みんな、逃げて、逃げて、逃げまくったんだよね。
 だけど、今後も、逃げてばっかりいていいのか。
 40年間にわたって福島県が、東京・関東の電力供給で協力してきた。水力・火力と全部、東京の方にいっているわけ。日本の経済の繁栄を福島県が支えながら、いま僕らは、絶望的な状況。福島のわれわれは犠牲を被った。これから差別も受けるわけ。「福島県はお断り」と。そこから逃げられないからね。そういう運命と、最終的にはたたかうしかないんだよね。俺はそう思う。
 俺なんかは、余所に行って、畜産業なんてありえないし、自分の生涯の仕事としてやっている畜産業を潰されたわけ。だから、これは、もう残りの人生をかけて、償いを求めて、東電・国とたたかう。それしかないと思っているわけ。こういう原発事故が起きたっていうことでね、これを人生のテーマにして、原発のない日本を目指して考え行動するしかないと思うんだよね。
 そして、もちろん放射能ともたたかう。農業でも、セシウム問題で、県内どころか、それを飛びこした全国の問題に広がっている。魚だって取れない。すべての環境、人生、財産が、みんな潰されたわけよ。汚染について、人間も土地も、よく調査をする必要がある。単に逃げるんじゃなくて、この現場で汚染状態を正確によく調べるということだよ。
 行動なきところに結果などあり得ないし、「少しでもみんなで行動しよう」と言いたい。「東京に行って、みんなの気持ちを東京の人に、どんどん言って伝えようじゃないか」と。「原発事故というのはこういうことなんだよ。他人事ではなくて、子ども・孫の世代のことまで考えて、いま、再稼働をめぐってたたかうときが来ているよ」って。
 東電とたたかう、国とたたかう、放射能とたたかう。そういうことを俺は言いたいのね。
 ずっとこの1年間、大勢の人が生きる意味とか、哲学を考えてきた。行動までできる人はそう多くないし、でもそういう人を少しずつ作りながら進んでいると思うよ。
 僕なんか、学生のとき、学生運動なんかやった方。やっぱりそういう経験をもっている人は、それを生かしながら、先頭に立つべきだと思う。
 かつて70年代に見てきたようなね。俺は、千葉にいたんだけど、成田空港の反対運動だね。それにあのときの学生運動、労働運動。みんなそれこそ実力闘争でストライキでたたかったわけだから。
 そういうものを、いま、このときに再現する。そういう力を背景にしたものが必要だよね。
 「家も故郷も何もかも失った。最後に、みなさん、立ち上がって、いっしょにやろうよ。東京に行こうよ」。そういう力が、福島県に必要なのだと思う。福島県がそういう中心にいかなければと思う。やっぱり誰かがやってくれるだとか、金さえもらええればいいんだとか、そういうのもいるけど、そういうのは、心にも体にもよくないと思うよね。
 浪江の人が、みんな立ちあがって、東電前や首相官邸前に座り込んでということができるようになるところまで、今年は持っていきたいなと。
 そういうことに、残り20年の人生をかける値打ちがあるのだろうと思う。この被ばくした牛たちとともにね。
  


原発事故の生き証人


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〔吉沢正巳さん:千葉県四街道生まれ。58歳。千葉の佐倉高校時代、近隣の三里塚で、成田空港建設のために土地収用法で農地を取り上げるということが行われており、友人らと反対闘争に参加。東京農大では自治会委員長も。40年前に父親が、広い土地で畜産をしようと、千葉から浪江町に移住。大学を出てから父親の跡を継ぎ、生涯の仕事として、畜産に打ち込んできた〕


 線量計は、昨年の6月末か7月の最初に、やっと手に入れることができた。当時、15~16マイクロシーベルト(毎時)。事故直後は、もっと高かったんだろうけどさ。現在は4~6マイクロシーベルト(毎時)ぐらい。
 牛たちに餌を運んでいるんだけど、「この牛は売り物ではないし、経済的には意味はない。俺たちのやっていることは何だろう?」ということで、ずいぶん議論になってね。
 それで、「いや、この牛たちは、原発事故の被ばくを正確に伝える生きた証人だ。この牛たちのことを調べれば、被ばくのデータが出る。そういう調査の対象になる」と。そういうことで、大学の研究関係の人とか、いろいろな人が見に来たね。それで「希望の牧場プロジェクト」ということでまとまっていったんだ。
 国は殺処分といっているけど、まだ、100軒近い農家が同意書を出さないんだ。1年経っても、未だに、20キロ圏内に、約1000頭の牛が生きている。
 経済的な意味はないけど、この牛たちは、元気よく草を食べ、子どもを産みながら、東京電力と国にたいして、生きた証人として、抗議している。殺処分指示にも従わない。
 牛たちと運命をともにして、「絶望の地」でありながら、非常に意味があって、影響力があって、人の気持ちを揺さぶるような、深い意味での「希望の地」。それは、簡単な希望ではない。深い絶望の中から、人間として、そこから抜け出すためにやはりたたかうしかない。絶望的状況に負けないために、抵抗するしかないんだ。それは誰のためって、次の子どもたちのため。次の世代のためだよ。みんなで連帯して、たたかおうよ。いまそういうチャンスがきているんだよ、と言いたいんだ。  (了)

こんな、悲しい現状なのに、何も出来ない!放射能との共存は出来ない。宇宙誕生から、そして地球が生まれてようやく放射能から守られて生きることが出来ようになった「地球生命体」。核は、いっぺにそれを壊滅できる。もうやだー!

私は核発電に反対です柚子故障


 


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