定年ジジイの夕焼け人生

朝日ほどの力強さはなくてもいいが、人生の黄昏期をせめて夕焼けほどに輝いていたい。

大晦日

2018-12-31 09:37:33 | Weblog
今年も無事と言おうか、ある種の感覚的にはやっと大晦日になった。

80歳を迎えての大晦日。これまで迎えていた79回のそれと同じ様なものではあるが、何かある種感無量とも思えるから、やはり80歳というのは小生の人生では大きな節目の様な感じがする。

大晦日だと言ってこれまで特別な事をしてきたわけではない。ちょっと丁寧に掃除機を掛ける程度である。
そのあとお茶を飲みながらゆっくり新聞を読むくらい。あとはだらだらとテレビを見たり、パココンをいじる程度だ。

しかし今年も普段通りにすごしているのだが、やはりどこかで80歳の大晦日だと実感が強い。

今年は、大きな病気をしたということでは無いが、体調的には大きくて変化した年だった様に感じる。
筋肉の衰えが激しいことが第一の実感だろう。特に腰から下の下肢全般の筋肉の減少が激しい。尻から太ももにかけての肉がごっそりなくなり、脹脛も手で触れば確実に実感できるほど筋肉が落ちた。
それが原因だろう、歩幅と歩調がガックリと落ち、歩くスピードが自分でも笑ってしまうほどにゆっくりになった。所謂「年寄り歩き」だ。
広い横断歩道だと青信号で渡り切る事がしんどいと思われることもある。
毎日1万歩とか5千歩歩くとかいい、万歩計を持ち歩いている友人が居るが、歩幅が半分になってしまった今となっては、歩行距離が半分に減ってしまっていることに気付いていない。

筋肉の衰えはすなわち体重の減少に繋がった。一年で数キロ落ちた。それに伴って食欲そのものも減少した。多分量的には一年前の6、7割になった様だ。自分でも面白いくらい食欲が湧かない、
ご飯の量も茶碗半分ほどで十分だ。これもこの一年劇的な変化だと思う。

睡眠の質が極端に落ちた。睡眠の質が悪い、とはなんだと言うことになるが、「眠りに落ちる事がなかなかできない」、「直ぐに覚醒して目覚めてしまう」、「再び寝付く事が難しい」、「悪い夢を見続けてしまう」、
「寝起きが悪い」などだろう。
矛盾しているだろうが、寝付けないと言っている割りに、夜早くから「眠くなってしまう」。9時、10時になると目を開けていられないほどに「眠くなる」。しかしそれで眠りのつこうとすると、「眠りに落ちる」事がむつかしい。
なんとも相反する現象だろうが、これが不眠症の一つの現象だ。
睡眠剤のお世話になっているが、その摂取のタイミングが難しい。夜摂取してしまうと夜中には「切れて」覚醒してしまうし、夜中に飲もうとするとどのタイミンがいいのかが問題になる。

そんなこんなで大晦日を迎えているのだが、なんやかんやで普通の人同様に日は過ぎて行くだろう。
明日は正月。めでたくもあり、めでたくもなし。





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猫の手とマウス

2018-12-28 19:54:14 | Weblog


猫の手が鼠に届いた瞬間。

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冬至と満月

2018-12-26 08:34:48 | 夕日/朝日
今年は冬至と満月が一日違いだが、ほぼ重なった。
両日とも曇天気味の空模様だったが、時間的には満月が空に満ちた時間帯があった。
厳冬期にはなっていないが、冬の満月は他の季節の満月とはまた違った趣がある。

天宙高く上がるせいか、煌々と下界を照らし、山野をいろどり、街中のビル群を白く浮き上がらせる。
世の雑事を透き通してしまう力があるように思われる。

暦的にこの時期の出来事として極稀なことなのか、よくあることなのか暦を知らない小生にはわからない。
多分新暦での12月下旬が必ず満月ということもなかろう。
多分今年は偶然重なり、珍しいことなのだろう。

それがどの程度珍しいのか、歴計算では確率的に簡単に計算できるのかもしれない。

新暦と旧暦と月齢の関係。
調べようと思ったが、面倒なのでやめにした。

こんなことが面倒だと感じるのはやはり歳のせい・・・・・・・・・・・
だれか教えて。

      煌々と世を睥睨す冬の満月(無水行)
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耳が遠い

2018-12-21 17:06:18 | 老人、友人
耳が遠くなったと感じ始めてからずいぶんと時間が経った。
最初が何時で、どんな状態だったのか思い浮かばない。
しかし気がついたら、小さな声の会話が聴き取りにくくなっており、特に高音部の音はほとんど聞こえていなかった。

日常生活で不便さを感じるのは、第一にテレビである。家人の通常可聴音でのテレビ音はほぼ聞き取れない。小生の可聴音でのボリュームは通常人には必要以上に大きく、不快にすら感じつ音量のようだ。
そんな大音量を押す通す事も出来ず、近頃ではイヤフォンでのテレビ視聴となっていた。

しかしテレビの設定が、イヤフォンジャックを差し込むと、通常のスピーカー音が消音されるようになっていたので、ちょっとあわててしまった。テレビの専有度合いのいざこざが時々起きた。
家人の専有時間では、聞き取れる単語をつなぎ合わせて意味をとったり、テレビに近づいたりした事もあった。こんな時字幕付き番組がいかにありがたいか身にしみた。

それがある時、テレビの取説を何気なく見ていたら、スピーカー音とイヤフォン音は同時に聞くことができ、そかもそれぞれに独立して音量調節できると出ているではないか!
まあ、こんな初歩的なことを知らなく、それはお恥ずかしい話であるが、こと程左様に耳が遠いと言うことは難儀なことである。

耳が遠くて実際面で厄介なことは、英会話の講座などに出たときである。
日本語でさえ聞き取ることに難儀している状況で英会話教室での聞き取りなど本来無茶である。しかしそこは年寄の図々しさから講師に大声で叫んでくれと頼むと同時に、内容はいい加減推量でやり過ごしている次第。
まあなんとか時間を過ごしている。

6,7人の友人とよく昼食を共にすることがあるが、これだけ老人が集まると2,3人は難聴である。
注文を取るときからすでに叫ぶように話している場合が多い。本人が難聴であると、話し方も大声になるのは自然だから、数人の耳の遠い友人がいれば、場の会話は地下鉄の中のようになる。
近隣の席の客には迷惑な話だ。

若い女性は耳が良すぎるせいか、受付嬢などの話様など囁いているも同然だ。
聞き取りにくいから、耳を近づかせるが、息遣いが耳元でまるで吐息にように聞こえ、色っぽい。
これはこれで良いことだ。

そんなこんなで、今日も難聴の老人の出番だ。









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友情

2018-12-16 17:50:09 | 老人、友人
老人同士に友情は有りうるか・・・・・・・・・・・?

友人物語は少年期の占有物であり、たまに成人期にも成り立つことももあるが、どうも老人同士の友情物語はちょっと出来すぎの物語が多い。

なぜだろうか?

友人関係は、あいての性質、性格、行動が自分の受容範囲にある場合に成り立つように思う。
たまにそれが自分に合っていないと思われる場合でも、友人になったりするが、大抵の場合は長続きはしない。
また性格が正反対だと思う相手同士が友人関係を保っていることを見ることがあるが、それはほとんどが表面上そう見えるだけであり、芯の所ではお互いに受容し合っているから、続いているのであろう。

少年期から青年期にかけての相手に対する受容感性は柔軟である。
自分の経験がまだ青いということと、社会にたいする感受性がそれ程硬化していないと言う点から、出会った相手に対しての受容性は柔軟だろう。
これは同性間だけでなく、異性間でも同様で、すぐに惚れてしまったりする例がそれである。

人間、成人し、種々の経験を重ね、失敗や後悔を経ていくうちに自分の価値観、世界感が固まってくる。

それが更に歳を重ね、人生の失敗や後悔が積み重なって、更にその上に多少の成功例を経験するうちに、自分の世界を取り囲む強固な、トゲトゲした外壁に囲まれてくる。
そんな状態で「友情」を交換するような友人が出来ることは稀有に等しくなるのではなかろか。

老人は、老人であるということだけで、孤高の存在だ。
孤高の存在であらざるを得ず、またその状態をそれほど苦にもしなくなる。

そのような状態で友情を育むことが出来るだろうか?
難しい。

老人は真の友情を交換できなくなるし、それうえ意識としてそれ程苦でもなくなる。
良く言えば、老人は孤高に耐えることがそれ程苦でもなくなってくる。逆にそうでなければ老いる事自体に耐えられなくなる。



どうも老人とはそんな状態で生きている人間であるかもしれない。



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初冬の夕暮れ

2018-12-15 17:32:57 | 夕日/朝日


やっとこの1週間位本格的な冬がやってきた。

今日も冬空が広がり、冬の西風が冷たく感じる。

残日もほぼなくなり、西空が藍色の中、ほのかに夕焼けを写していた。

さむい!
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老いる

2018-12-14 12:46:54 | 老人、友人
ここ5,6年で「老い」を特に感じるようになった個人的は箇所は「筋肉」である。

歩行速度が極端に低下した。腰の曲げ伸ばしをするような運動をするとすぐに「腰に来る」。
歩行時に左足を引きずるようになってきた。ゴルフの飛距離がここ2年間程度で確実に2番手落ちた。
荷物を持ったときに、同じような重さでも随分と重くなったと錯覚する。
座った状態から立ち上がろうとするときに「よっこらしょ」を掛け声をかけ、踏んばらないと起立できない。
中腰での作業は1分と続かない。
などなど筋肉が弱ったと実感する事象は枚挙にいとまがない。

もちろん「老い」は筋肉だけではなく、内臓や思考やそれに伴う行動様式に変化をもたらしている。



「老い」をどのように、どの程度感じるかは個人的な差が大きいかもしれない。
逃げるように「老い」を考えないようにしている人もいるが、現実問題それで回避、逃避できるものではない。


NHKのTV番組中よくみるシリーズに「人間ってなんだ?超AI入門」がある。
昨夜の主題は「老いる」であった。

「人間にとって老いるとは、なんだ?」がテーマであり、AIが「老い」の弱点を補強してくれるものであろうか?
はたまたAIが「老いる」可能性があるのかどうかまでの議論がなされていた。

あらたまって「老いる」とはなんだ?「老いる」ことを緩和できるのだろうか?「老いる」ことは悪いことだろうか?などと考えるとそれはもう人間の本質、いや生物としての本質を問うことになってしまう。


生物は単細胞から多細胞生命体に進化して、「死」という現象とともに「進化」の過程を手に入れた。数十億年前にすでに「死」と「老化」は生物の宿命になった。
「死」があり生命の「回転」すなわち「入れ替わり」があるから「進化」がおこり、一方「死」があるからその過程には「老化」がある。
と考えれば生物の一種族である人間にとって、「死と老化」は必要であり必然である。

人間の一生の死に面した最後の期間を老化と言うならば、事故死的な「死」以外の「死」は老化を必ず伴う。というより「老化の終端」が死であろう。

確かに科学技術の急速な進化で、人間の平均寿命は伸び、それに伴ってというより順序が逆かもしれないが、「老化」に達する年齢が伸びてきている。

「番組」でおもしろいことを言っていた。現実的に人間の平均寿命は加速的に伸びている。
もし1年間に人間の平均寿命の伸延が1年をこすことになれば人間は永久に生き続けることが可能になる。
まあ、これは数学的幻想に過ぎないが、そんなに遠くない将来人間の寿命は120歳くらいにはなりそうだ。

しかしその場合の「老後」とはいかなる世界か?
個人的にはそんなに生きたくはない・・・・・・・・・・・・










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思い込み

2018-12-12 15:18:11 | 老人、友人
物心がつき始めて間もなくの子供の頃、「庭に小人が住みついている」とか「あの雑草の赤い実はその内にほおづきになる」とかほのかな、しかし幻想的な「思い込み」に陥った経験は誰しもあるだろう。

やがて幼児期を脱し、思考がしっかりしてくると、その幻想は現実世界に跳ね返され、小さな夢になり、思春期を通過するとやがて知の地平線から消えていってしまう。


しかしその幻想的知覚を持ち続け、UFOの存在を信じ、地動説を排し、進化論を神に対する冒涜だと非難する世界を維持してやまない人々もも少なからず存在する。

それほどまでに大げさな事象ではなくても、身の回りのいわゆる「都市伝説」的なことを密かに信じている人は多いだろう。いや縁起担ぎのような事まで含めれれば、いわゆる大人の大半の人がそうかもしれない。

理論的に説明できず、論理的な思考では到達できない世界を心の何処かに持つ続けているのは君が例外ではないだろう。
それはそれで、ロマンの源泉として重要な考え方かもしれない。

しかし人によっては「思い込み」が強すぎることがある。

個人の経験だとか、周囲の人の影響とかで「そう思い込んでしまっている事が多い。

また歳の話になってしまうが、年寄りになるまではそれでも所謂「常識」が勝っているが、歳をとってくると論理的な思考を巡らすことさえ面倒になるようになる。
そうなると「思い込み」が「常識」を凌駕してしまい、ゾロ都市伝説の世界には足を踏み入れる。
そのうえ、記憶力が衰え見当識に障害をきたすようになると、痴呆症だの老人呆けなどと非難されるようにもなり得る。

確かに病的な老人性知能障害は早期に対処すべきではあるが、多少の老人性ロマン症はそれを大目に見てもらっても良いように思われるが。。。。。。。



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日残りて昏るるに未だ遠し

2018-12-09 08:33:17 | Weblog
藤沢周平の小説のテレビドラマ化が2年程まえにあり、少し前から再放送されている。

ドラマ名を「残日録」といい、「日残りて昏るるに未だ遠し」の意味合いだそうだ。



主人公は某藩の隠居まもない50歳少々の武士。
藩主近くに奉公した上級武士にありがちな頭脳に優れ、武術に秀でた主人公が藩主の逝去に伴って家禄を息子に譲って国にかえって隠居した。

隠居して暇を持て余していそうだが、そこはそれこれぞドラマ。家内の派閥争いから派生するいろいろがトラブルに関わり、その正義心のもと大活躍し、その記録を「残日録」として書き残す。

まさに「日残りて昏るるに未だ遠し」の活躍である。



一方小生のブログは「夕焼け」だの「黄昏」だの少々しみったれた残日録である。
もっともブログをはじめて十数年、いまや80歳をすぎた今「昏るるに未だ遠し」はちと場違いではあるが、心意気だけはそう有りたいと願っている。



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なかなか冬にならない

2018-12-03 20:16:02 | Weblog
今年はもう12月だと言うのに、冬の気配がない。冬がやって来ない。

冬の寒さを忌み嫌う小生としては、歓迎すべき事ではるが、来るものがこないとやはり何だか落ち着かないから妙なものだ。

どうせ来る寒さなら、一度はそれを経験しておかないと、「もうこの冬は寒くならないなどと、どこかで勘違いしてしまい」、実際にはそれが来襲した時にはとんでもないショックとなる。

どうして寒さがこれ程までに嫌いかは、歳に寄るところが多いのかも知れない。
若い頃に比べて絶対的に耐寒性が低くなっていることに間違いは無い。
20年前頃まで股引などは履いたことが無かったし、第一そんな物は所有していなかった。靴下も真冬でも在宅中はつけたことが無かった。
それがどうだろう、今では厚手の股引きをすでに履き、靴下の上にレッグウオーマーまで着けている。
それでも下肢、特に脛のあたりはちょっと気温が下がれば、痺れて痛みまで感じるありさま。

避寒地が欲しい。

今週末にはどうも本格的厳冬期の気温が訪れると言う。
クワバラ、クワバラ。。。。。。。





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