なみ子さんが、「鮎滝の法被を着て名古屋を走った」と写真を持ってきた。
最近は落ち鮎になって、四時間もかかってしまうけど、若鮎の時は三時間一〇分でフルマラソンを走ったそうである。フルマラソンどころか四〇〇メートルも走れない私には、完走するだけでもスゴイことだと思うのだが、
「スタートがもう少し前だったら四時間は切れたのに・・」
と、あくまでタイムにこだわるなみ子さんだ。
久しぶりに中ケ谷の檻に獲物が入った。60キロぐらいの鹿だ。猪用の檻なのでツノが邪魔になって入りにくいと思うのだがよく入ったものだ。まだ新芽があまり無くてよほど腹をすかしていたのだろう。
そういえば今年の冬は殆んど猪が出なかった。出沢をグルリと取り巻いた猪避けの柵にビビったのだろうか?、例年だと今の時期タケノコ掘りにあちこち出没するのだが、今年はさっぱり掘りにこない、まるでどこかに行ってしまった。新東名の工事で騒がしいから山の奥に逃げ込んだという人もいるが、本当のところは分からない。二、三度荒らされれば「イノシシめ!」と怒れるのはわかっているのだが、たまには出てきてくれないかと思うのは人の身勝手さか。
元気村の鳥田さんに感化されたのだろう、笠網漁のプレゼンをつくる気になった。
パワーポイントのアップも金がかかるし、時間を無駄にしているような気がして、プレゼンの資料をつくるのはあまり好きではない。だが、他人に効率良く情報を伝えるのには必要なことかも知れないと、暇に飽かせてつくってみた。(LibreOffce_Impress使用)
以前から、400年も前に播州高砂の石工集団が鮎滝の岩盤を切り開きに来たとはちょっと信じ難かったが、調べてみると、その年1643年は【寛永の大飢饉】の真っ最中、
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(江戸初期の50年間は、マウンダー極小期と呼ばれている太陽活動の低下による寒冷な気候が続き、度々飢饉に襲われたようだ。その中でも最も厳しかったのが【寛永の大飢饉】、1940年頃から、西日本は日照り、東北は冷夏、わずかに中日本のみが何とか平常を保っていたらしい。幕府は、《煙草・酒・うどん・饅頭・菓子・身売り》等の禁止、《御救小屋の設置、飢人改・田畑永代売買禁止令》等の対策をたて、この難局を乗り切ろうとした。)
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武士の搾取による農民の意欲の低下と相俟って、餓死か、一揆か、幕府の言うことに従い鮎滝の岩盤を切り開きに行くか、高砂の石工達にとって厳しい選択だったに違いない。
そして彼らは鮎滝に来た。しかし、大飢饉がそう簡単に収まる訳もなく、高砂を出たこの石工集団は、彼方此方を転々としながら徐々に離散し、消滅したと考えられている。(穴太衆になったという説も・・)
ネット時代は有難い。真意はともかく知りたい情報は少し探せば見つけることができる。
過去と、現在と、おそらく未来もネット上でリンクしている。
このろくでも無い時代も、考えようによっては楽しい時代なのかも知れない。
『局所的な集中豪雨が引き金となるので、地元自治体からの避難勧告はあまりあてにせず、地域住民の自発的な判断で早めに自主避難することしか命を守る方法はありません』、講師の先生の声に熱がこもる。
『出沢では津波は来ないから安心だ』、などと言ってはいられない。まさか海から此処まで、津波は来ないだろうが、背後から【山津波】に襲われる確率は高い。
昭和49年の七夕豪雨では、雁峯山に降った雨は、700-800㎜に達したといわれている。出沢中の沢という沢全てから立木もろとも土砂が流れだし、錦砂川は氾濫した。銭亀の橋は流され、浅谷からは崩土で通れず、出沢地区は孤立してしまった。しかし、あれだけの土石流があった割には、人的な被害はなく、流失した家もなかったのは不幸中の幸いであった。
あの時は、自然の猛威に対して人間の小ささを思い知らされた。《逃げるしかない!》と
それでも、自分の命を守るためとはいえ、やっとの思いで長年の夢を実現させ新築した家を置き去りに、避難することは難しいことだ。
最優先に守るべきものは何か?、ということなのだろうが・・・。
あれから40年、牛馬屋に砂防堰堤ができ、錦砂川、豊川新城線(当時は出沢東上線)も改良されて、当時よりも格段に災害に強くなった。だが、我々にできることは、防災ではなく減災でしかない。【想定】を一瞬で消し去った、東日本大震災は重い課題を突きつける。