敬老会の資料として作成した写真集【走馬灯】がほぼ完成。
長老たちに廻して写真に名前を記入して貰ったのだが、さすがに昭和初期
の写真は覚えている人がなくて名前が判らない人が多い。
(この顔は何処そこのお祖父さんではないかと思っても確信が持てないのだ)
名前のDataは非公表とします。
(関係者の方は大久保区長にパスワードを問い合わせて下さい)
走馬灯_RC (pdf_300MB)
走馬灯_名前Data_120929 (zipファイル、パスワード付 pdf_39MB)
敬老会の資料として作成した写真集【走馬灯】がほぼ完成。
長老たちに廻して写真に名前を記入して貰ったのだが、さすがに昭和初期
の写真は覚えている人がなくて名前が判らない人が多い。
(この顔は何処そこのお祖父さんではないかと思っても確信が持てないのだ)
名前のDataは非公表とします。
(関係者の方は大久保区長にパスワードを問い合わせて下さい)
走馬灯_RC (pdf_300MB)
走馬灯_名前Data_120929 (zipファイル、パスワード付 pdf_39MB)
『イノシシが入ったよ!』
朝6時、ナミコさんが電話で上の畑に仕掛けた檻にイノシシが入っていると言う。
急いで行ってみると、背中のシマが消えたばかりの小イノシシが檻の中を走り
回っている。いっちょまえに威嚇して突進してきたが、アゴ骨が格子に挟まって、
キーキーとなきだした。イノシシもこのぐらいまでは可愛いい。写真を撮って、
頭を檻に押し込んで外してやっていると宮川さんも上がってきた。
「どうする?、ちょっと小さいのん・・」
『そうだのん、引導渡すのも可哀想だけど放すとワルさをするのん、』
宮川さんと話していると、横の格子に突進して頭が檻の外に出た。
あれあれ?と思って見ている間もなく、身体を2・3回くねらせたかと思うと
スルリと通り抜け、そのままとっとと山に上って行った。
・・・良かったような・悪かったような・・。これも縁だな。
銭亀のイノシシもデカい。
2年ほど前にミッチャと二人で前畑から銭亀(鮎滝の下り口)に檻を移動
してから初めてイノシシが入った。
デカイ!、4人がかりでようやく県道まで引きずり上げた。
量ったわけではないが100㎏近かっただろう。このイノシシも頭が良くて
なかなか掛らなかったが、ミッチャの努力が実ってついに御用だ。
平均5~6匹産んで、3~4年でこんなになるんだから、最後はイノシシに
負けそうだな・・。
(イノシシが肉食でなくてよかった・・尤も、力さんの話では、
ウリ坊が生猪肉を喜んで食べるそうだから、人を襲うイノシシもあり得ぬ
事ではないかも知れない)
大久保区長の発案で、長老たちから昔の写真を集めて
敬老会でプレゼンをした。その資料を写真集にまとめたので、
昔の出沢の懐かしい人達に出会いたい人はご覧下さい。
少し重くなってしまいました。(PDF_300MB)
庭のサンショの木に10羽程のメジロの群。
あんな実を喰って口がシビレないかと心配したが
ちゃんと種だけ食べている。ちょこまかと動きまわって、
なかなかカメラ収まってくれなかったが、15分粘って
漸く撮れたのがこの写真だ。
鮎滝道に彼岸華。
今度の大水で流された鮎も新滝止まりで、
さすがにこの時期、鮎滝までは戻って来ないようだ。
これで今年の笠網漁も終漁だ。
お疲れ様でした。
※猿橋のピンコは今朝も先ず先ず釣れていたようだが、
ここもこれで最後だろう。
『釣れるかノン』
「昨日はぜんぜんだったけど、今日は朝から20ぐらい釣った」
『写真を撮っていいかノン』
「・・・・・・」
『それじゃあ、名前と場所は非公開ということで・・・。』
「ヤイ!ヤイ!、今度はダブルだ!!」
釣れるときには釣れるもんだ、15分ほどの間に二度ダブルで掛かった。
何れも20-25㎝級だ、このくらいのが2匹掛かるとそう簡単には上がらない。
(残念ながら誰でもこんな風に釣れるわけではない。引き方、場所、時
最低でも3年は修行が必要だ)
■10:10 本濁り■
猿橋ピンコ。
久しぶりに水が出た。
下り鮎をねらって、新滝に一人、ガバに一人、高岩に二人。
釣れればデカイが、釣果はイマイチのようだ。
気温が高いせいか、今年はまだ本格的に下ってはいないようだ。
本日敬老会。
出沢の最年長は内田春子(89)さん、男は海野久栄(88)さんだ。
85-90歳の年代は団塊世代の一期生だ。_※
大戦を生き抜いただけあって元気な年寄りが多い。
それでもさすがに90歳近くなると何人か欠けてゆく。
「これで、ワシが一番になったのん」
滝本さんの通夜の、久栄さんの呟きはどこか寂しそうだった。
何でも一番はいいことだが、歳ばかりはそうもいかないようだ。
『人生楽ありゃ苦もあるさ』
生きていても良い事ばかりではないが、
いつまでも元気で長生きをして貰いたいものだ。
※ハーバー・ボッシュの申し子たち。
1920年代ハーバーとボッシュの開発した窒素固定法(アンモニアの製造)
が普及し、世界の人口爆発が起こった。(他の要因もあるが・・・。)
日本では施肥が【草刈り場】から【かな肥】へと替わり、単位収量が格段に増加、
最初の団塊世代を養った。