私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

わかりづらい外来語(1)

2012年06月15日 | 歴史おもちゃ箱


以前、私の学生の中にペールさんというスウェーデン人がいました。
有名なヨーロッパの会社に日本で現地採用され、最後には日本支社の取締役になった人です。
ペールさんとは約10年間かかわりました。

彼は日本語もすごく上達し、関西弁も話せた(学習した)ので、
関西での自社のシェアを1%近く上げたそうです。
でも、彼にとってはどうしてもゆずりたくない日本語のこだわりがありました。
外来語です。

彼は外来語をどうしても使いたくないのです。
「昨日は庭球をしてきました。」とか
ホテルのレストランでも「お品書き(メニュー)をみせていただけますか。」
とウェイターの人に言いますし、
「外で焼き肉(バーベキュー)をしたんですよ。途中で雨に降られて、大変でした。」
など、できるだけ日本語だけで話すように心がけているのです。
「アナウンサーは日本語でなんですか?」と聞かれた時は
即答できずに困りました。

商社に勤める別の友人は
「コンソーシアム(事業連合)」とか「インキュベーション(起業家育成)」
など、何だか辞書がないと不安なことば(←私にとって)をたくさん使います。
「デレゲーション」ということばが出た時、「それって何?」と聞くと
「え、知らないの? 普通に使っている言葉じゃない?!」と言われてしまいました。
そこで、知人10名(ほとんど先生や家族)に「デレゲーション」って知ってる?
と聞いたところ、なんと知っていた人は0でした(←安心しました)

デレゲーションとは
【名詞】
1 delegation, deputation, relegating, relegation, delegating
従属者に決定を下す権限を与えること
(authorizing subordinates to make certain decisions)
2 delegation, deputation, mission, commission, delegacy
代表者や使節のグループ
(a group of representatives or delegates)

http://ejje.weblio.jp/content/デレゲーション

なのだそうです。

下記のような記事もインターネットで見つけました。

「A財団は自らの活動を世界中に伝えるために、各地域の市場に16ほどのデレゲーションを組織しました。
デレゲーションはミッション・デレゲートと呼ばれる人々によって統率されています。」

意味がよくわかりません。

ノーマライゼーション(健常者、障害者が共生できる隔てのない社会)
インフォームドコンセント(納得診療=説明された同意)
病院の診療券の裏側を見ると アクセス(行き方)の書かれたものもあります。
上記3つは、最近ずいぶんと使われているので、わかりやすい気がします。

カラオケはもともと「空(から)オーケストラ」の略だそうです。
中国語では日本から入ってきたことばとして「卡拉OK」と表記され「カラオケ」と読みます。

さて、外来語はそのまま使った方が便利な時と、漢字表記の方が意味がわかりやすい場合があるようです。
でも、なんとなく外来語を使う人はかっこよく見えます。
またノーマライゼーションなど、意味の深いものはそのままカタカナ表記をした方がいいかもしれません。

最初に出てきたペールさんと同じようなことを言った学生がいます。
台湾人ですが、「日本語からカタカナ表記をなくす」なんて、強烈な印象を与える
テーマでレポートを書いていました。
もう、昔の話ですが、、、、。

さて、それでは、明治維新のとき、英語でしか表せない言葉はどのように日本語にしたのでしょうか?
「政府」ということばだって、以前は「幕府」だったわけですから、、、。

次回は、明治政府が行った翻訳についてのエピソードなどを書きたいと思っています。




にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村





横須賀つながり~ベンネット先生の足跡

2012年06月14日 | 日本に影響を与えた宣教師たち


横須賀ネービーバーガーから始まり、
アメリカ海軍基地司令官デッカーさんの戦後間もない1946(昭和21)年から50年までの4年間の
「横須賀を日本復興の見本」にしようとした努力について、前回書きました。
ところでデッカーさんは
栄光学園や清泉女学院、青山学院大工学部などの創設にかかわったそうですが、
この青山学院大学工学部は現在はありません。
青山学院の歴史を調べてみると、

1946年 米海軍横須賀基地第4代司令官であるデッカー大佐が、従軍牧師のリッカーを介し
キリスト教学校を通じた平和と民主主義の教育を提案。
神奈川県横須賀市に古坂僴城が分校の設立を決定。
1947年 海軍工機学校の設備を利用し、青山学院横須賀分校専門部機械科・土木建築科を設立。
翌1948年に第二高等部も設立される。
1949年 青山学院大学開学、文学部英米文学科・基督教学科、商学部、工学部を設置。
渋谷キャンパス復興で維持困難の為、横須賀分校を閉鎖。
1950年 工学部を関東学院大学に譲渡。

と、あります。
デッカー大佐が尽力したミッションスクール青山学院の工学部は、横須賀にある
関東学院大学に譲渡されたということでした。

さて、我が家の家族にもちょっとだけ関係した関東学院大学工学部。
そんな歴史があったのですね。

この横須賀の関東学院大学の創立期に深くかかわった
アメリカ人のバプテスト派の宣教師アルバート・アーノルド・ベネットについて
書きたいと思います。
実は「ベネット」と表記している名前ですが、彼自身は「ベン子ット」と自分の名前を書き、
周りの人々も「ベンネット先生」と親しみと尊敬を込めて呼んでいたようです。

ベンネット先生は1879年(明治12年)9月にマサチューセッツ州で結婚しましたが、新妻ベラとともに
そのわずか3ヶ月後には日本に赴任をしたのです。
彼は宣教師でしたから、横浜を起点に宣教活動をしました。
そのため日本語の勉強もすぐに始め、後には日本人と間違えられるほど上達したということです。
ネイサンブラウン博士は当時、新約聖書の日本語訳と日本語賛美歌の編纂を行っていましたが、
ベンネット先生はこの働きの補佐をし、同時に牧師の養成機関を作る努力を始めました。

1884年10月16日、横浜山手64番地に横浜バプテスト神学校が設立されました。
そこでは日本人のキリスト教伝道者の教育と育成がされました。
この神学校が現在の関東学院大学の前身となりました。

1896年(明治29年)岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmを
震源とする明治三陸大地震が起こりました。
M8.2~8.5という巨大地震で、地震後の津波が本州観測史上最高の波高38.2mを記録するなど
津波被害が甚大だったそうです。
ベンネット先生はこのとき、三陸大津波の救援のために横浜で救援金を集め、物資をたずさえ
現地に赴き、被災した人たちのために1ヶ月にわたり不眠不休の働きをした、ということです。

1909年、ベンネット先生は横浜バプテスト神学校創立25年記念会で病をおして奉仕し、
その翌日、天に召されました。
享年60歳。
30歳の時に来日、30年間日本の人々を愛し続けました。

横浜外国人墓地にあるベンネット先生の墓の墓碑銘には
“He Lived to Serve”(生涯にわたって奉仕の人であった)
と記されてあるそうです。



にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村


『讃美歌 (1954年版)』48番「しずけきゆうべの」は、ベンネット先生が作詞し、夫人のベラが作曲したものだそうです。



参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/アルバート・アーノルド・ベネット
http://univ.kanto-gakuin.ac.jp/関東学院大学
関東学院大学「道を求めて―関東学院大学とキリスト教教育」1997
http://ja.wikipedia.org/wiki/青山学院大学

横須賀ネービーバーガーから味わえるもの

2012年06月14日 | グルメ

神奈川県横須賀市に行くのに、京浜急行を利用しますが、
京急で販売している「ヨコスカグルメ切符」(^_^)は
「ヨコスカネイビーバーガー」&「よこすか海軍カレー」の選べる食事券と、
京急線往復+電車&バス指定区間フリーの乗車券がセットになっていて
美味しくてとってもお得です。

もう2回もこの切符を使ってしまいました。
品川から1980円。
ヨコスカネービーバーガーだけでもドリンク付きで1200円以上するのだから
本当に得した気分になれるし、おなかもいっぱいになります。
(私は2回ともバーガーを食べ切れませんでした(´・_・`)





さて、
横須賀は江戸時代から外国人にゆかりのある土地です。
教科書で勉強したウィリアム・アダムス(=三浦按針、徳川家康に仕えた)
1853年浦賀沖に黒船でやってきたアメリカ合衆国東インド艦隊司令官のマシュー・ペリー提督などは、
誰でもが知っているのではないでしょうか。

幕末になると、外国に対抗するため海軍の重要性が強くなり、横須賀製鉄所の建設が始まります。
ここで小栗上野介忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ)らや
御雇い外国人、フランスからやって来たヴェルニーの活躍により、横須賀に製鉄所ができ、
日本の造船技術が飛躍的に上がりました。



さて三浦安針ゆかりの安針塚のその先には
第4代アメリカ横須賀海軍基地司令官として、戦後の横須賀の発展に尽力をした、
ベントン・デッカーさんの胸像のある横須賀中央公園があります。
市の公園にアメリカ軍の司令官の胸像がある、
横須賀らしいといえばそうですが、
ちょっと変わっていますよね。

デッカーさんは明治の人ではありません。

デッカーさんは、戦後間もない1946(昭和21)年から50年までの4年間、
アメリカ海軍基地司令官としてこの地に着任。
横須賀を戦後の日本復興の見本にしようとして、教育と医療、福祉の充実に力を入れたそうです。
デッカーさんは経済・産業の発展のため企業を誘致したり、
衣笠病院をはじめとした病院の近代化をはかり、全国のキリスト教関係者に声をかけ、
栄光学園や清泉女学院、青山学院大工学部などの創設にかかわったそうです。

これらの精力的な支援は横須賀市民からも高く評価され、
当時の横須賀市議会からは、なんと市長になってくれないか、
と要請があったというのですから驚きです。


栄光学園の2008年の創立記念式典の校長先生のメッセージの中に
下記のようなものがあります。
ttp://www.eiko.ed.jp/00ekh/web/gt/076/076-026.pdf#search='デッカー司令官'

「この学園の創立の経緯については中1のときに話しました。
敗戦によって社会が疲弊していた時期に、
横須賀の進 駐軍の司令官であったデッカー大佐からの要請を受けて、
イエズス会が学校を始めることになった、ということでした。
デッカー大佐は戦後の日本の社会を作っていくために は教育が重要である、
健全な価値観を持ち、自分の力を自 分のためだけではなく他人のため、
社会のために使うこと ができる人を養成することが不可欠であると考えました。 
そして1947年4月に栄光が開校し、今日まで61年の歩み をたどってきたわけです。 

栄光学園がめざす “Men for Others”の“Others"は、とくに弱い人、貧しい人、
周辺に追いやられてしまっている人です。
そのような人たちが本当に幸せだと感じ、
人間 として誇りを持って生きていけるような状況にすることが、 
私たちの使命ではないかと思います。」


ここにもひとり、日本を愛した外国人を見つけました。

デッカーさんは軍人でしたし、司令官として大きな権力を持っていた人です。
彼は持てる力をよく理解し、それを活かしました。
自分の「横須賀を日本復興のモデルにしたい」という信念に基づき、わずか4年の赴任でしたが、
その間、まさに精力的に働いたのです。




にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村





1円の価値(2) 月給500円は大臣並みの高給

2012年06月13日 | 歴史おもちゃ箱


ところで今から150年ほど前、明治政府は日本の近代化(文明開化)を
図るため、多くの欧米人の専門家を日本に招き、
その技術や学問を積極的に学びました。
明治政府は欧米の機械を輸入するのではなく、
その技術やシステムを導入しようとしたのです。
なんと、1898年までに、イギリスから鉄道開発、電信、公共土木事業、l
建築、海軍制、などの専門家、6177人、
アメリカから外交、学校制度、近代農事事業・牧畜、北海道開拓などの
専門家、2764人、フランスから陸軍制や法律家、619人、
イタリアからは主に絵画や彫刻といった芸術45人、合計で1万人以上の
外国人専門家が日本を訪れているのです。

彼らは当時「御雇い外国人」と呼ばれていました。

彼らは日本の近代化に不可欠の教師や技術者でしたから、
給料の面でも優遇されました。

明治7年の統計によると、お雇い外国人で大臣並みの
月給800円以上の者が10名、200~300円の者が全体の18%、
300円~500円の者が35%(524名)となっています。

明治2~10年などをみると、具体的には
岩倉具視が600円(約6000万)、大久保利通、伊藤博文、板垣退助が500円、
工部省トップの山口庸三が400円に対し、
フルベッキが600円(約6000万)、造幣局のキンドルの至っては月給
1045円でした。意外なのはジョサイアコンドルが350円と平均的な
金額だということです。

明治政府としては
「先進文化国と競争と迄は行かなくても、追いつくまでには凡ての犠牲を払わねばならぬ。それには俸給の効果なことなど厭う所ではない。況やその為殖産興業が発達して国益が増進すれば打算として損はないという考え」
だということです。

明治を作った人々の並々ならぬ決意がつたわってきます。

参考文献
梅溪昇「お雇い外国人」2007 講談社学術文庫
尾佐竹猛「御雇外国人一覧解題」『明治文化全集』第16巻外国文化編



にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村





1円の価値(1)明治と現在

2012年06月09日 | 歴史おもちゃ箱

1円の価値、、、

小学生の頃、貯金箱に1円玉を貯めていて、
ちょうど1000円になった時に、近くの信用金庫に持って行きました。

預け入れの紙に1000円と書いて、受付に出し、もう一度計算し直してもらうと、
1000円ではなく999円でした。
「えっ!どうして?」
何度も数えていたのに、何で1円足りなくなったのだろうと、本当に悲しくなりました。
当時でも1円で買えるものはありませんでしたが、
たかが1円、されど1円、、1円の大切さが心にしっかりと刻み込まれた経験でした。

窓口係のお姉さんが落胆している私を見て、「あ~、残念だったね、も一度1000円貯めてね。」と
慰めてくれたのを今でもときどき思いだします。

さて、話は変わって、明治時代のこの「1円」の価値はどれぐらいだったのでしょう?

単純に、明治30年頃の物価と、今の物価を比べると、今の物価は当時の3800倍ぐらいだということです。
しかし、比べ方はいろいろありますし、当時の生活と現代の生活では大きく異なります。
物価や賃金水準の変化も年々ちがいますし、ね。

たとえば
東京銀座・木村屋総本店の木村屋安兵衛が発明した「あんパン」は、
明治38年に、1個1銭だったそうです。今の時代に換算すると約200円ですね。
ハンバーガー1個ぐらいの値段でしょうか、、。
小麦の値段が上がって、今はベーカリーのチョコレートパンだって200円近くします。

「うどん・そば」は明治37年には2銭だったので、今でいうと約400円。
現在、もちもちのチェーン展開している讃岐うどんと同じぐらいの値段です。

カレーライスは明治35年頃で5~7銭だったそうですから、1000円以上の食べ物です。
明治初期、ヘボンや居留地にいた外国人も食べたという丸善の「ハヤシライス」は
現在1300円前後、つまり当時とあまり変わっていないということがわかります。

じゃ、庶民のお給料はどれくらいだったのでしょうか。
実は公務員の初任給が月給8~9円くらい、1人前の技術者でさえ20円前後とされていた時代です。

企業の物価指数で試算した場合、公務員の初任給を9円として
明治26年の指数=0.319  平成18年の指数=698.4 
698.4(平成18年)÷0.319(明治2年)=2189.3倍
9円(明治26年)×2189.3=19703.7円(平成18年)

約2万円の給料で
ビールの大瓶1本は明治34年頃で19銭だったので、約3800円。
これはお米1升分よりも高く、普通の人には贅沢過ぎる飲み物でした。
現在で言うなら、高級ワインぐらいの値段です。






さらに高価だったのが「自転車」です。
明治32年、アメリカ製の自転車が200~250円で売られていたそうです。
当時の熟練技術者のお給料で約1年分。
現在のお金で400万円相当ですから、高級自動車クラスの値段だったわけです。

もちろん、その頃の自動車はスーパーカー並の値段(1台5000円前後)、
大富豪の中の大富豪しか乗れませんでした。

消費税導入以来、一円玉、五円玉がおつりとしてじゃらじゃら来るようになりました。
時に、小銭が多過ぎて、財布が壊れそうになってしまいます。
これが明治時代だったら、ホント私も大金持ちの中の大金持ち、ということになるんですけどね。




にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へにほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村


最初の写真は静岡県清水港のワンコイン寿司(ランチ)500円


参考資料
http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102809.php 過去の貨幣価値を調べる
【金融資料館「スペース82」のURL】(平成20年7月28日最終確認)
http://www.ncp.or.jp/dir6/d6_5_2_4.html
http://manabow.com/zatsugaku/column06/2.html