私の歩く旅 

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横須賀つながり~ベンネット先生の足跡

2012年06月14日 | 日本に影響を与えた宣教師たち


横須賀ネービーバーガーから始まり、
アメリカ海軍基地司令官デッカーさんの戦後間もない1946(昭和21)年から50年までの4年間の
「横須賀を日本復興の見本」にしようとした努力について、前回書きました。
ところでデッカーさんは
栄光学園や清泉女学院、青山学院大工学部などの創設にかかわったそうですが、
この青山学院大学工学部は現在はありません。
青山学院の歴史を調べてみると、

1946年 米海軍横須賀基地第4代司令官であるデッカー大佐が、従軍牧師のリッカーを介し
キリスト教学校を通じた平和と民主主義の教育を提案。
神奈川県横須賀市に古坂僴城が分校の設立を決定。
1947年 海軍工機学校の設備を利用し、青山学院横須賀分校専門部機械科・土木建築科を設立。
翌1948年に第二高等部も設立される。
1949年 青山学院大学開学、文学部英米文学科・基督教学科、商学部、工学部を設置。
渋谷キャンパス復興で維持困難の為、横須賀分校を閉鎖。
1950年 工学部を関東学院大学に譲渡。

と、あります。
デッカー大佐が尽力したミッションスクール青山学院の工学部は、横須賀にある
関東学院大学に譲渡されたということでした。

さて、我が家の家族にもちょっとだけ関係した関東学院大学工学部。
そんな歴史があったのですね。

この横須賀の関東学院大学の創立期に深くかかわった
アメリカ人のバプテスト派の宣教師アルバート・アーノルド・ベネットについて
書きたいと思います。
実は「ベネット」と表記している名前ですが、彼自身は「ベン子ット」と自分の名前を書き、
周りの人々も「ベンネット先生」と親しみと尊敬を込めて呼んでいたようです。

ベンネット先生は1879年(明治12年)9月にマサチューセッツ州で結婚しましたが、新妻ベラとともに
そのわずか3ヶ月後には日本に赴任をしたのです。
彼は宣教師でしたから、横浜を起点に宣教活動をしました。
そのため日本語の勉強もすぐに始め、後には日本人と間違えられるほど上達したということです。
ネイサンブラウン博士は当時、新約聖書の日本語訳と日本語賛美歌の編纂を行っていましたが、
ベンネット先生はこの働きの補佐をし、同時に牧師の養成機関を作る努力を始めました。

1884年10月16日、横浜山手64番地に横浜バプテスト神学校が設立されました。
そこでは日本人のキリスト教伝道者の教育と育成がされました。
この神学校が現在の関東学院大学の前身となりました。

1896年(明治29年)岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmを
震源とする明治三陸大地震が起こりました。
M8.2~8.5という巨大地震で、地震後の津波が本州観測史上最高の波高38.2mを記録するなど
津波被害が甚大だったそうです。
ベンネット先生はこのとき、三陸大津波の救援のために横浜で救援金を集め、物資をたずさえ
現地に赴き、被災した人たちのために1ヶ月にわたり不眠不休の働きをした、ということです。

1909年、ベンネット先生は横浜バプテスト神学校創立25年記念会で病をおして奉仕し、
その翌日、天に召されました。
享年60歳。
30歳の時に来日、30年間日本の人々を愛し続けました。

横浜外国人墓地にあるベンネット先生の墓の墓碑銘には
“He Lived to Serve”(生涯にわたって奉仕の人であった)
と記されてあるそうです。



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『讃美歌 (1954年版)』48番「しずけきゆうべの」は、ベンネット先生が作詞し、夫人のベラが作曲したものだそうです。



参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/アルバート・アーノルド・ベネット
http://univ.kanto-gakuin.ac.jp/関東学院大学
関東学院大学「道を求めて―関東学院大学とキリスト教教育」1997
http://ja.wikipedia.org/wiki/青山学院大学

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