私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

ホノルル美術館所蔵「北斎展」

2012年06月09日 | 歴史おもちゃ箱

東京三井記念美術館で開催されている
ホノルル美術館所蔵の「葛飾北斎」展に行ってきました。
今年は葛飾北斎生誕250周年なのだそうです。

パンフレットには
「アジア美術の所蔵で世界的に知られるホノルル美術館には、約10,000点もの浮世絵版画が収蔵されており、
そのクオリティの高さには定評があります。
コレクションの中核をなすのは、ミュージカル「南太平洋」の作者、ジェームス・A・ミッチェナー氏の
寄贈による約5,400点で、我が国では歌川広重の名品を中心とした里帰り展が幾度か開催されています。」
とありました。


所蔵作品は素晴らしい名品ばかりです。
http://www.mitsui-museum.jp/exhibition/index.html

特に 冨嶽三十六景 山下白雨(ふがくさんじゅうろっけい さんかはくう)」や
「冨嶽三十六景 凱風快晴(ふがくさんじゅうろっけい がいふうかいせい)」は
誰もが一度は写真を目にしたことがある名品です。

北斎の作品は
個人的には青の色使いが素敵だな~と感じます。
淡いブルー、かすんだようなブルー、海のように深いブルー
日本にはブルーを表す表現や単語がいくつかありますが、たとえば
「青、碧、蒼、空色、紺、藍、紺碧、群青」などなど、、、
北斎の作品にはたくさんのブルーが使われています。

浮世絵は幕末から明治、戦後にかけて、たくさんの名品が外国に渡りました。
ホノルル美術館に10000点もの作品があるとは、驚きでした。

以前、ギリシア、エジプトを旅行した時に、
それぞれの国のガイドさんから
「これはレプリカです、本物は大英博物館にあります。
我が国の貴重な財産である美術品の返還を求める署名にサインをしていただけませんか。」
と頼まれたことがありました。

一方で、中国の砂漠にある仏教遺跡(石窟)を訪れた時には
ドイツ、アメリカ、日本、イギリス、フランスなどの探検隊が貴重な美術品を持ち去った、
と書かれた案内書を目にしました。

日本の大谷探検隊が持ち帰った作品を展示会で見た時には
「中国から招来した~」との記述を見つけました。

北斎の作品はホノルル美術館で大切に保存されています。
それはとても嬉しいことですが、、、。
美術品がどこにあれば一番いいのか、ということを考えさせられた北斎展でもありました。




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日本租界は今、、、

2012年06月04日 | 歴史おもちゃ箱




中国「天津」は北京から130キロ、国際的な港町として開け、
現在も中国の5つの直轄都市のひとつとなっています。
もともと天津という街の名は「天子が海河を渡った渡し場」という意味です。


19世紀後半から20世紀前半にかけて、天津にはイギリス、フランス、アメリカ、日本など、
9か国の租界があったそうです。

特に『馬場道』という場所は、歴史的建造物群に囲まれています。

天津には現在でも数千軒の歴史的な建物がそのまま残っており、
様式はバロック、ロココ、ゴシックなど様々です。




また、建物は西洋建築で、庭は中国の庭園風という当時の西洋人の自由な発想からできた折衷建物もあります。
実は「ここはどこ?アジア?それともイタリア?」というような
錯覚を起こす一画もあります。
9カ国もの租界があった天津ですが、それぞれの租界は国の威信をかけて、
街作りを競い合ったということです。



しかしその中で、街作りにはほとんど関心を持たなかった国があります。それが日本、、、です。
明治維新後、わずか40年弱、
街作りは質素、あるいは雑然としていて、欧米の租界に比べると明らかに見劣りしたものでした。
つまり、日本人はただ、そこに住めればいい、生活できればいい、ということで、
現在は、日本租界はすっかり中国の街の中に埋もれてしまい、区別がつきにくくなっています。

ラストエンペラー・溥儀は、北京を追われた後の1925年に家族や従者を大勢連れて天津にやってきました。
溥義は日本租界にある『静園』の中の洋風建築の建物(1921年完成)に住んでいました。
そのため、天津には溥儀や皇族の邸宅もたくさんあります。

さて、現在の天津。
イタリア政府の後援のもと、イタリア租界の歴史的建造物は見事によみがえりました。
天津の租界は、上海の外灘の建物群と比べても見劣りしません。
なぜ、もっともっと有名にならないのか、ちょっと不思議な気がしています。



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小布施から、ジャポニスム

2012年06月01日 | 歴史おもちゃ箱

長野県の小布施はとても小さな街ですが、江戸時代のただずまいが魅力で
大好きな場所です。

特に葛飾北斎が晩年訪れ描いた『 八方睨みの鳳凰図』のある岩松院は何度行っても感動します。

『八方睨みの鳳凰図』は北斎晩年の作で、88歳から89歳にかけての作品です。
よくその年齢で畳20畳の大作が描けたものです!
鳳凰図はその名の通り、どこから眺めても鳳凰が自分を睨んでいるように見えるのです。
鳳凰の目は燦々と黄金に輝いています。
目の部分の絵の具はヒ素がふんだんに使われている、ということでした。
だから、、、ね。
と納得してしまうほどの深『睨み』、ずっと見ていると「きみの心を感じるよ。」と
鳳凰の声が伝わってくるように感じ、さらに惹き込まれます。

20畳もの巨大な絵は岩松院の天井に吊るされています。
30年前に初めて行った時は本堂に寝転がって、じっくりと観賞できましたが、
最近は椅子に座って見ることになっていて少々首が疲れてしまいましす。


そして、もう一カ所、小布施に行ったら必ずここに寄らなくては、という場所が
北斎の作品を集めた北斎館です。
北斎の浮世絵は全世界的に名高いものですが、
1814年頃から、北斎が町民の生活や人々の表情、動植物などを描いた
北斎漫画が好きです。
北斎館に収蔵されている北斎漫画には1ページに10から20ぐらいの
小さな絵が描かれています。
その中に描き出されている町民の表情は、生き生きとしていて、
おもわず笑ってしまうほどです。
ここでの『漫画』の意味は現代の「漫画」とはちょっと違っていて、
『思いつくままに描いた絵』ということだそうです。






北斎の『北斎漫画』はヨーロッパ、特にパリで注目を集め、
『ジャポニズム』(日本ブーム)に火をつけました。

しかし、北斎漫画はどのように欧米に伝わったのでしょうか。

1850年代にパリのブラックモン(F. Braquemond)が日本からヨーロッパに輸出された
陶磁器の詰め物、包装に使われていた紙「北斎漫画」を目にしたことが
始まりだそうです。
陶磁器が壊れないようにするクッションのようなものです。
普通ならゴミ箱行きの紙です。
きっとくしゃくしゃになっていた紙をのばしてみたら、
「えー、なにこれ、す、すごい~」てな感じでしょうか、、、。

面白いエピソードですよね。

1855年の第3回パリ万国博覧会で
オランダの展示部門から日本の物産や工芸品が紹介されたました。
さらに、1867年の第4回パリ万国博覧会に幕府、薩摩藩、佐賀藩、民間がそれぞれ独自に出品し、
日本文化や生活の紹介され、このパリ万博によってジャポニスムが大人気を得たそうです。

フランス語で「ジャポニスム」、英語では『ジャポニズム」
文芸家のフィリップ・ビュルティが1872年に名づけたものだそうですが
「日本趣味」と訳されているようです。
しかし、この『ジャポニスム』は趣味と言う日本語のニュアンスとは異なり
ヨーロッパからアメリカにまで及ぶ絵画、建築、工芸や演劇、ファッションなどを
巻き込んだ文化的一大ムーブメントでした。

その後、1873年のウィーン万国博では明治政府が新しい日本を世界に強烈にアピールするため
およそ1300坪の敷地に日本庭園、神社、浮世絵や工芸品の提示、名古屋城の金の鯱や
高さ4mの五重塔などを作り、展示したそうです。

このようなヨーロッパの人々の目を引くような発想は、
実はオーストリアの公使館員であるシーボルト(H. Siebold)により推薦された、
ドイツ人のお雇い外国人ワグネル(G. Wagener)の指導、協力によるものでした。
ワグネルは、日本では近代工業が未発達であるため、西洋の模倣でしかない機械製品よりも、
日本的で精巧な美術工芸品を中心に出展したほうがよいと判断し、
日本全国から優れた工芸品を買い上げたそうです。

このお雇い外国人ワグネルはまたいつか別の機会に触れてみたいと思います。


その後、1878年のパリ万博でジャポニスムの熱狂は頂点に達しました。
この時期に浮世絵や北斎漫画に影響を受けたと言われる画家は多く存在しています。
たとえば、マネ、モネ、ドガ、ゴッホ、セザンヌ、ロートレックといった画家たちは日本でも有名です。

フランスの当時の新聞記事には次のことが書かれていました。


「最初の版画の到来は、文字通り衝撃をもたらした…。ほんの小さな画帖でさえ、高値で買い争われた。
人々は荷の到着をうかがって店に日参するのだった。花瓶や布…
あるいは着物しか見つからなかったときは、皆なんと落胆したことだろう、
もっともどれも貴重な品ではあったのだが。
…デッサン画がとりわけ画家や碩学の好事家に気に入られていた。
何千枚という単位で入荷し、海水で傷んだものもままあったにもかかわらず、
どれもたちまちのうちに売り切れた。
まさしく熱狂というべき様相を帯びるこの人気に商人たちはまず驚いた。
そして、たやすく売れることに目をつけて、商品をかなり大量に取り寄せるようになった。』

(ザカリ・アストリュク/フランス新聞記事「日が昇る帝国」1867年)


さて、北斎に戻りましょう。

北斎はとってもユニークで洒落た江戸っ子だったようです。
またお金に無頓着で、一生お金が流れてしまう、、つまり貧乏生活が続いたそうです。
引っ越し魔として有名で、一生に93回も引っ越しをしたそうです。
名前(画号)が変わることも30回。
北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに作品を残していますが、
それらに挑戦する時に、自分の実力を試すため、名前を変え新人の振りをしたそうです。
すごくチャレンジングな人だった、ということですね。

この1000年で世界に影響を与えた100人のうちのひとりに
「葛飾北斎」が選ばれています。



参考文献
http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1873-2.htmlウイーン万博とジャポニスム
http://ja.wikipedia.org/wiki/葛飾北斎 ウィキペディア『葛飾北斎』
http://ukiyoe.wafusozai.com/archives/category/japonisme 浮世絵ギャラリー


小布施にはもうひとり、忘れていはならない外国人がいます。
カナダから派遣された医療伝道師のスタート博士です。1932年のお話です。
それも次回、ということにしましょうか。





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