中国「天津」は北京から130キロ、国際的な港町として開け、
現在も中国の5つの直轄都市のひとつとなっています。
もともと天津という街の名は「天子が海河を渡った渡し場」という意味です。
19世紀後半から20世紀前半にかけて、天津にはイギリス、フランス、アメリカ、日本など、
9か国の租界があったそうです。
特に『馬場道』という場所は、歴史的建造物群に囲まれています。
天津には現在でも数千軒の歴史的な建物がそのまま残っており、
様式はバロック、ロココ、ゴシックなど様々です。
また、建物は西洋建築で、庭は中国の庭園風という当時の西洋人の自由な発想からできた折衷建物もあります。
実は「ここはどこ?アジア?それともイタリア?」というような
錯覚を起こす一画もあります。
9カ国もの租界があった天津ですが、それぞれの租界は国の威信をかけて、
街作りを競い合ったということです。
しかしその中で、街作りにはほとんど関心を持たなかった国があります。それが日本、、、です。
明治維新後、わずか40年弱、
街作りは質素、あるいは雑然としていて、欧米の租界に比べると明らかに見劣りしたものでした。
つまり、日本人はただ、そこに住めればいい、生活できればいい、ということで、
現在は、日本租界はすっかり中国の街の中に埋もれてしまい、区別がつきにくくなっています。
ラストエンペラー・溥儀は、北京を追われた後の1925年に家族や従者を大勢連れて天津にやってきました。
溥義は日本租界にある『静園』の中の洋風建築の建物(1921年完成)に住んでいました。
そのため、天津には溥儀や皇族の邸宅もたくさんあります。
さて、現在の天津。
イタリア政府の後援のもと、イタリア租界の歴史的建造物は見事によみがえりました。
天津の租界は、上海の外灘の建物群と比べても見劣りしません。
なぜ、もっともっと有名にならないのか、ちょっと不思議な気がしています。
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