私の歩く旅 

歴史の背景にある話題やロマンを求めて、歩く旅に凝っています。ねこや家族のこともちょこっと。

競争心激突

2013年06月29日 | ありふれたお話

競争心というものが、以前はもう少しあったような気がする。
今は年齢も年齢で、かなりそのエネルギーが失せてしまった。
競争するよりも「まあるくまあるくおさめる」方が楽々だよね、って思う。

「銀座で美味しいイタリア料理を食べた。」とか「ラーメンなら品達の○×がおいしい」とか
食べ物ではけっこう競争心を燃やしている。
変だ。でも平和的である。

職場は長い間、学校であったから(今もだが)、競争心の激しいぶつかり合いを見てきた。
また、実際自分がその当事者になったこともある。
女性も男性もほとんど変わらない。
競争に勝つためにきたない戦略を使う者もいた。

しかし、ある程度の競争心がなければ、人の成長もないのが事実だ。
良きライバルは必要不可欠な存在なのだとも思う。

先日、北海道の小樽を再訪した。
この小さな街は「北のウォール街」とかつて呼ばれ、北海道の開拓史上に名を残す多くの優れた建築物を見ることができる。
100年以上前の建物を見ていると、
何人もの同門の設計者たちのプライドと競争心を感じる。

明治に入って日本政府は文明開化を進めるため、多くの外国人教師を招いた。
開国したばかりの国だというのに、何百人もの外国人教師や技師、それも一流の人々を
今で言えば1年1000万も2000万もの給料を払って、
これからの国造りに係わる若者の教育に当たらせた。

建築では工部学校(簡単に言えば東大工学部の前身)の教師を務めたジョサイア・コンドルが有名だ。


コンドルは日本語ができなかったので、もちろん授業はすべて英語で行われていた。
(昨今の大学では英語だけで授業をする学部がいくつも出現しているが、明治の時代の学校の外国人の授業はすべて英語であった)

コンドルの教え子で工部学校の1期生は4名のみだった。もちろん、ライバルである。
ここで頭ひとつ抜きん出て首席で卒業したのが辰野金吾だ。
辰野金吾は九州唐津藩の貧しい下級武士の子どもであった。彼にはハングリーな精神と
大きな野心(夢)があった。
「東京に3つの建物を残したいと思います。
東京停車場、日本銀行、国会議事堂、これを設計するのが私の夢です。」







上記は修復された東京駅。自分の思いを実現している。
ただし、卒業論文ではコンドルから
「曽禰くんのそれに大変似ております。(略)論者は将来の装飾、あるいは様式という点をよく考えていますが、しかしこれといった
結論、提言にはいたっておりません。」と評されています。


同じ唐津藩出身の曾禰達造は裕福な武士の子どもだった。
唐津藩主の小姓まで務めた達蔵は、戊辰戦争では死地をかいくぐり生き延びた。
しかし、そんな辛酸を体験しても、曾禰達蔵はどこまでも温厚で優しい人だったようだ。
同級生の辰野金吾には卒業後もずっと信頼されていたという。





写真は曾禰達蔵の代表作品である重要文化財に指定されている慶応大学図書館である。

曾禰達蔵は工部学校の卒業論文でジョサイア・コンドルから
「論文はこれ以上ないくらいによく配慮され、熟考されています。日本のために新しい様式の提案を導き出す芸術的考察
およびすべての実地場の面はよく考えられています。論者はまた慎重に日本の建築の始原の問題を扱っております。」
実はジョサイアコンドルが最もかっていたのは曾禰達蔵だという。
本来なら彼が首席で卒業したはずではなかったのか、と考えるのだが、
ジョサイアが選んだのはハングリー精神旺盛な辰野金吾であった。



小樽で初めての鉄筋コンクリート造の建物は旧三井銀行だ。
がっしりとした重厚な姿は人を圧倒する。
説明板には建物の設計者として「曾禰達蔵」の名が記されている。









さて、工部学校の一期生で最年少(と言ってもひとつ、ふたつしか違わないが)だったのが讃岐藩出身の佐立七次郎だ。
がつがつ勉強する辰野金吾や勤勉であった曾禰達蔵に比べると、勉強には相当無頓着だったようだ。
ジョサイア・コンドルの卒業論文のコメントには
「この論文は多くのことを語っていますが、主題に直接関係のない西洋の建築様式の歴史や、日本の建築様式の略説、(略)
そういったことを多分に含んでいます。このため論者はこの国の将来の建築を多いに左右する外観、建築法、気候、地震
実地上の点といった重要なことには他の論者のようには十分に扱っておりません。」
けっこう厳しいコメントである。

その佐立が辰野、曾禰に先んじて、小樽に堂々たるビルを作っているのが面白い。
運河の北端近くに「小樽で最も重要」と言われる建物・旧日本郵船支店(国の重要文化財)を建てた。
竣工の1906年は、日銀支店より6年早い。







明治の雰囲気を漂わせる端正な2階建てで、豪華にして
落ち着いた雰囲気を持つ2階フロアが高く評価されている。
1階の営業室は明治時代のオフィスそのままと言えるだろう。照明には往時と同じ先端が尖った「エジソン球」を用いている。




2階の貴賓室、会議室はデラックスな造りで、江戸時代に開発された高価な「金唐革紙」(きんからかわかみ)が壁の全面に張られている。
日露戦争後の樺太国境画定会議に使われた。交渉相手のロシア人を建物の素晴らしさで圧倒しよう、という意図があった、と言われている。





さて、これを書くのにとても長い時間を擁した。
小樽に行ったのはもう3週間も前のことになってしまったのだが、、、、
日本の明治時代を代表する建築家3名、工部学校同級生の銀行建築を見るのには、
小樽ほど適したところはないだろう。

ライバルたちのプライドと競争心がはっきりと表れた建物がそこには存在する。


<参考文献>
畠山けんじ「鹿鳴館を創った男 お雇い外国人ジョサイアコンドルの生涯」河出書房新書
日本経済新聞社編「日本の建築物50選」日本経済新聞社
http://ja.wikipedia.org/wiki/佐立七次郎


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