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鎌倉近郊を歩く 2.旗立山の御霊神社

2008-11-10 12:14:35 | Weblog
鎌倉近郊を歩く 2
           旗立山の御霊神社


 JR東海道で大船から藤沢に向かうとき、駅を出て間もなく左側に小山がみえます。地図でみると、御霊(ごりょう)神社とあるので訪ねてみました。

コース:JR大船駅下車、観音様側に出る。柏尾川の右岸に沿って下る。武田薬品バス停前辺りでJR東海線ガード下をくぐって反対側に出る。徒歩でおよそ1時間。

農園風景が広がり、宮前の御霊神社には人影がありません。あまりに静かで、電車が通り過ぎたあとカラスの鳴く声がいやに大きく聞こえました。

墨太く書かれた立札の説明によると、前九年の役(1056)で源頼義が山上に白旗を立てて軍勢を募ったのだそうです。息子の鎮守府将軍八幡太郎義家も、後三年の役(1086)で同じように白旗を立てて兵を集めました。16歳の鎌倉権五郎(ごんごろう)景政が義家に従軍しました。

藤沢から村岡、宮前を通り、梶原から化粧坂に至る鎌倉道(武蔵大路か)があったそうです。山上の源氏白旗は東海道を行く旅人から、相模だけでなく駿河や甲斐や遠江、武蔵や上総や下総などに伝えられ、各地の猛者(もさ)たちが息をきらして鎌倉に馳せ参じたのでしょう。義家を崇敬する権五郎が山のてっぺんを切り払って、白旗を立てたような気がするのです。

仙北郡(秋田県)の戦いで片目を矢で射抜かれながらも敵を仕留めた権五郎の剛勇に、誰もが驚嘆しました。畏敬の念を込めて「景正どの」と呼ばれたのでしょう。帰郷した景正は宮前の御霊神社に感謝して、兜を奉納しました。彼の館がこの辺りに在ったのでしょう。死して御霊神社に祀られ、神となりました。

景政の子孫である大庭、懐島、長尾、梶原などは景政を誇りとして、「景」の字を名前に付けました。梶原景時は、平家との戦い(1184)で大音声を揚げて権五郎景正の勇猛ぶりを長々と讃え「五代末葉である」と名乗りました(平家物語)。およそ五百年後の上杉謙信(長尾景虎)も、遠祖・権五郎景正が誇りだったに違いありません。

源頼朝は旗挙げした石橋山合戦(1180)で惨敗して、洞窟に隠れました。平氏軍として戦った梶原景時は、そのことを知りながら見逃しました。先祖・景正と源氏の繋がりを思いだし、情けをかけたのです。まさか、一介の流人・頼朝が天下を取るとは思わなかったでしょう

新田義貞が鎌倉を攻撃したとき、鎌倉方の北条(赤橋)守時は6万の兵を指揮してこの辺りで戦いました(1333)。「州崎の戦い」といわれ、柏尾川をはさんで激しい攻防戦が繰り広げられたのでしょう。

また、電車が通り過ぎました。ひとしきり、カラスのかしましい鳴き声が響き渡りました。宮前御霊神社が在(ま)します旗立山はカラスにとっても目立って、集まりやすい小山のようです。