歩く

歴史探索を楽しむ

鎌倉を歩く 1.鶴岡八幡宮から浄明寺へ

2008-11-02 10:54:35 | Weblog
鎌倉を歩く 1
          鶴岡八幡宮から浄明寺まで



 定年をとっくに過ぎて、毎日がヒマな友だちから「オマエの家は、鎌倉に近い。案内してくれないか」と頼まれました。「いいよ。何度かに分けて1日5~6時間歩く鎌倉探訪はいかがかな?」「ああ、それで頼む」で、決まりました。

 10時に鎌倉駅で会って、歩き始めました。まずは、鎌倉八幡宮です。駅から二の鳥居をくぐって三の鳥居まで20分ほどでした。
「二の鳥居ということは、一の鳥居があるの?」「海側に見えるだろう、次ぎに案内するよ」「源頼朝が由比の鶴岡から現在地に移したと看板に見える」「元八幡と呼ばれている。先祖の頼義が京都岩清水八幡を鶴岡に勧請した」
「前九年の役で活躍した源頼義という人は?」「中央武官で頼朝の五代祖。河内源氏だよ」「関西人か?」「鎌倉にも屋敷があった」「どうして?」「相模守のとき平直方に入婿だ」「館跡は?」「寿福寺あたり。また案内する」
年譜 1062年 奥州前九年の役が終わる
1192年 源頼朝、鎌倉幕府を開く

「この小学校が大蔵幕府跡だね」「大蔵幕府?」「北条時代に若宮に移った」「大蔵は地名か?」「そう。後ろが頼朝墓だ」「法華堂跡で三浦が五百人腹を切ったとある」「三浦と北条の権力争いだ。源氏は断絶か」「とっくに、だ。三浦は北条に破れ滅亡した」「承久の乱で鎌倉が京都を圧倒した後だ」「宝治の合戦で北条独走態勢が決まった」「近くに、島津と毛利の墓があるよ。」
年譜  1219年 実朝暗殺、源家断絶。次々年に承久の乱
  1247年 宝治合戦、五代執権北条時頼、三浦を滅す

歩く:鶴岡八幡宮→頼朝墓→荏柄天神社→鎌倉宮→覚園寺

「覚園寺は二代執権北条義時が薬師堂として建立した」「義時は承久の乱で、姉の政子を助け指揮した」「百年後に、足利尊氏が仏殿を建立した」「義時も尊氏も朝廷軍を破り武家政治を守った」「京都の王朝政治に対する、武家政治の故地だ」「奥が深くていい庭だ、説明もよかった」「庭の向こうの山が鎌倉アルプスだ」「えっ、アルプス?そう、また、案内するよ」「腹がへった。そこら辺りでメシを食べよう」
年譜 1221年 義時死去、翌年北条政子、大江広元死去
1333年 新田義貞、足利尊氏、鎌倉幕府を滅す

歩く:覚園寺→鎌倉宮→浄明寺

「浄明寺の辺りは太平記の里だ。足利の屋敷跡」「尊氏・直義兄弟もここで生まれた?」「兄弟の父・貞氏の墓がある」「足利代々の墓は、川向こうの報国寺にある」「ここまでくると、観光客も少ないね」「ゆっくり、のんびり、お茶を飲んで行こう」「鎌倉幕府滅亡の日、この辺りは平静だった」「どうかな?主戦場は由比ケ浜・若宮だった」「足利の主力は上洛していた」

歩く: 浄明寺→報国寺→上杉屋敷跡→田楽師辻→釈迦堂口→田楽師辻→大御堂跡→鶴岡八幡宮

「ああ、くたびれた。ビール!」「けっこう、歩いたなあ。飲みながら話そう」
「なぜ、頼朝が鎌倉に幕府を開いたかわかった」「親父の義朝は逗子と鎌倉に館を構えた」「前九年の役のころから、関東・東北の地を狙っていたのだ」「五代百年もかけて」「源頼朝の血筋は実朝で絶えた」「新田・足利は源氏の正統という誇りを持ち続けた」「北条は平氏で疑い深いから、用心した」「新田は嫌われ、足利が大族になった」「足利の当主は早く隠居したり、気違いのマネをしたり」「北条が恐かった」「尊氏の母は上杉清子、上杉あっての足利だ」「京から下ってきて、足利の家宰となった」

「頼朝が鎌倉に入ったころ、町はどうだったのだろう」「吾妻鏡には漁師町だったとある」「東海道からはずれている」「古東海道は鎌倉を通り逗子を抜け走水から上総国に渡った」「そうなの?知らなかった」「中世も鎌倉・逗子から六浦や走水へ出て船便を使った」「上総、下総、武蔵と一衣帯水だ」「三浦は御浦。古代より朝廷の重要交通拠点だった」「わかった。鎌倉は関東の玄関口だった」「関東だけでなく、東北は青森まで」「でかいことを言う。でも、わかるよ」「河内源氏が五代かけて鎌倉に固執した理由だ」「その遺志を継いだのが北条なのだ」「よい運動になった。また、歩こう」