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鎌倉の近国を歩く11.久能山東照宮

2011-12-30 11:46:24 | Weblog
鎌倉の近国を歩く 11 
              久能山東照宮

                     (写真はクリックして見てください)

 徳川家康は、鎌倉幕府を開いた源頼朝を崇敬していました。江戸に幕府を開くとき、鎌
倉幕府の正史・吾妻鏡を精読して参考にしたといわれます。鷹狩りが好きで、謀臣の本多
正信を玉縄(大船)2万石余の領主にして大阪城の攻略を相談しながら、獲物が多い柏尾
川流域を歩きまわったそうです。鎌倉へ何度も足を運んだに違いありません。

 元和2年(1616)駿府城(静岡市)で没すると、遺言によって久能山に葬られました。享
年75。自分で褌(ふんどし)の紐が結べないほど肥えていましたが、歩くことで長生き
しました。ちなみに豊臣秀吉は63歳で亡くなりました。

歩く:JR東海道本線静岡駅下車 久能山下行き(終点)のバス

バスを降りて少し戻ると、鳥居が見えました。案内板に、「久能山東照宮まで1159段の石
段。久能山(國史跡)は標高270m」とありました。見上げると天国への階段のように急
な石段があって、その先に建物らしきものが見えました。

 石段の段差が低いので、思ったより登りやすいのです。30分ほど上がると一の門に着
きました。この辺りから眺める駿河湾の眺めは素晴らしく、写真を撮っていると疲れを忘
れました。鳥居から見えた建物は、この門でした。守衛の与力の詰所だったそうです。

 しばらく歩くと勘助井戸があり、その上に東照宮博物館がありました。日本平からのロ
ープウェイの終点駅もありました。静岡駅から日本平行きのバスが出ています。登りはロ
ープウェイで、下りは石段というのもよさそうです。

 楼門に「東照大権現」の扁額が掲げられていました。後水尾天皇宸筆だそうです。門を
入ると、神厩、手水鉢、鼓楼、神楽殿などと國重要文化財のオンパレードです。きらきら
した拝殿(御社殿)には、「国宝」という大きな看板がありました。さらに奥に進んで階
段を上がると、家康の墓所に着きました。ここが終点でした。

 案内書に「久能寺は推古天皇(~628)のころ開かれた。武田信玄が駿河に侵攻したとき、
その要害に目をつけ久能山城を築いた。家康は江戸に幕府を開いたあと、秀忠に将軍職を
譲って駿府城で晩年を過ごした。遺言によりここに葬られた。すぐに霊廟の造営にかかり
翌年に久能山東照宮が完成した」とあります。

 拝殿の前に立って、総漆塗り・極彩色の社殿を見ていると、いま、日光東照宮に居るの
ではないか、と錯覚しました。案内書には「権現造。華麗な桃山時代建築の遺風が感じら
れる」とありました。どの歴史書でも、家康は生涯を質素・倹約で過ごしたとあります。
きんきらと豪奢な廟に葬られて不本意だろう、と思いました。

 司馬遼太郎は「家康は苦労して育ったせいか、たいへんな倹約家であった。蔵の座が抜
け落ちるほど金銀を貯えながら、不必要なものには銭をかけない主義だった。大奥から漬
物が塩辛いと苦情でても聞かず、消費量を抑えた」という趣旨のことを書いています。

 登って来た石段道を引き返すと、駿河湾の眺めを楽しめました。久能山苺が当地の名物
だそうです。

 家康の遺体は日光に移されたと本で読んだ記憶があったので、帰ってから歴史事典をみ
ました。「家康は死に臨んで、遺命を次のように伝えた。すなわち、自分の死後は駿河の
久能山に葬ること、一周期が過ぎたら下野国の日光山に小堂を建て勧請せよ、であった。
翌年、霊柩は久能山から日光に遷された」とあります。

 家康は三河で生まれました。遺命は霊を勧請せよ、であって、遺体を遷せではなかった?
と思います。久能山頂から、太平洋を眺めていたかったに違いありません。



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