鎌倉の近国を歩く 24
小田原入生田の紹太寺
(写真はクリックして見てください)
小田原藩主二代稲葉正則が春日局と父母の冥福を祈るため、京都宇治の万福寺から鉄牛
和尚を招き創建したといわれる紹太寺(しょうたいじ)を訪ねてみました。
歩く:小田原駅 箱根登山鉄道の入生田(いりゅうだ)駅下車 徒歩10分
案内書に「春日局(かすがのつぼね)と稲葉一族の墓所。寛文9年(1669)に開かれ、盛時
には寺域が東西約1.6km、南北1.1kmにもおよび、総門の左右には清雲院など五つの子院
が立ち並んでいた。360の石段を上りきった高台には本堂をはじめ、書院・齊堂経堂・
鐘鼓楼・稲葉氏霊屋・地蔵堂・庫裏など多数の伽藍が配置されていた」とあります。
建物のほとんどは安政年間(1854~60)の火災で焼失し、残った総門も大正4年(1915)
に消失したそうです。今は広大な境内地に長い石段と稲葉一族の墓所が残るばかりです。
墓所は修復中で、案内書に「春日局の供養塔を中心に、左右に一族の墓塔が立っている」
とあり、そのように復元されるのでしょう。
静かな旧東海道から寺域にはいると、紹太寺の寺号を継いだ清雲院の質素な建物があり
ました。石畳を歩き石段を上ると、広いミカン畠の道にそって小田原市教育委員会の説明
看板があちこちに立っていました。
美しく茂った樹林の中の道を、案内の表示にそって進みました。「鉄牛和尚寿塔附近の
樹は幕末の火災からまぬがれたため聖域としてそのまま残され、神奈川県下でも残存自然林
として貴重なものです」とあります。
さらに進むと樹林が開けて、「枝垂桜」の前に出ました。「本州中部以西に生えるエド
ヒガンの変種で枝が垂れさがる点が特徴です。県下にも比類のない銘木です。稲葉氏が
紹太寺を建立したとき、その境内に植えられたもので、樹齢330年以上と推定されます」
とありました。
稲葉氏について歴史事典に、「寛永9年(1632)稲葉正勝が小田原領に入部、役高8万
5千石。ほかに駿河に2郡を領した。正勝の母が春日局。稲葉氏は5代正知のとき淀藩
10万2千石に移った(1723)。大阪城代、寺社奉行、老中など要職を務め、明治を迎えた」
とありました。
春日局は三代将軍徳川家光が誕生して乳母となりました。父の二代将軍秀忠と母のお江
(浅井氏)は弟の忠長を偏愛しました。家光はあまり健康でなく、表情がにぶくて可愛げの
ない子だったようです。局は心配して駿府(静岡市)に行き、大御所・家康に訴えました。
家康は江戸に出て、家光が秀忠の跡継ぎであることを皆にはっきりさせました。
局は家光の健康を神仏に祈り、薬断ちを誓いました。病に伏したとき、見舞った家光が
いくら薬をすすめても飲もうとしませんでした。一侍女でありながら、京に上り天皇に謁
して春日の称号を賜りました。局の娘婿・堀田正吉は旗本となりました。正吉の子・堀田
正盛は老中となり家光側近随一の重臣となりました。そして家光に殉死しました。
江戸に参勤する大名たちが東海道を通るとき、紹太寺門前で駕籠から出て拝礼したとい
われます。
鎌倉の豪壮な建物や多くの遺物を有する寺社も結構ですが、何もない広大な紹太寺跡も
いいものです。健康維持でウオーキングさかれてる方にお奨めしたいところです。
小田原入生田の紹太寺
(写真はクリックして見てください)
小田原藩主二代稲葉正則が春日局と父母の冥福を祈るため、京都宇治の万福寺から鉄牛
和尚を招き創建したといわれる紹太寺(しょうたいじ)を訪ねてみました。
歩く:小田原駅 箱根登山鉄道の入生田(いりゅうだ)駅下車 徒歩10分
案内書に「春日局(かすがのつぼね)と稲葉一族の墓所。寛文9年(1669)に開かれ、盛時
には寺域が東西約1.6km、南北1.1kmにもおよび、総門の左右には清雲院など五つの子院
が立ち並んでいた。360の石段を上りきった高台には本堂をはじめ、書院・齊堂経堂・
鐘鼓楼・稲葉氏霊屋・地蔵堂・庫裏など多数の伽藍が配置されていた」とあります。
建物のほとんどは安政年間(1854~60)の火災で焼失し、残った総門も大正4年(1915)
に消失したそうです。今は広大な境内地に長い石段と稲葉一族の墓所が残るばかりです。
墓所は修復中で、案内書に「春日局の供養塔を中心に、左右に一族の墓塔が立っている」
とあり、そのように復元されるのでしょう。
静かな旧東海道から寺域にはいると、紹太寺の寺号を継いだ清雲院の質素な建物があり
ました。石畳を歩き石段を上ると、広いミカン畠の道にそって小田原市教育委員会の説明
看板があちこちに立っていました。
美しく茂った樹林の中の道を、案内の表示にそって進みました。「鉄牛和尚寿塔附近の
樹は幕末の火災からまぬがれたため聖域としてそのまま残され、神奈川県下でも残存自然林
として貴重なものです」とあります。
さらに進むと樹林が開けて、「枝垂桜」の前に出ました。「本州中部以西に生えるエド
ヒガンの変種で枝が垂れさがる点が特徴です。県下にも比類のない銘木です。稲葉氏が
紹太寺を建立したとき、その境内に植えられたもので、樹齢330年以上と推定されます」
とありました。
稲葉氏について歴史事典に、「寛永9年(1632)稲葉正勝が小田原領に入部、役高8万
5千石。ほかに駿河に2郡を領した。正勝の母が春日局。稲葉氏は5代正知のとき淀藩
10万2千石に移った(1723)。大阪城代、寺社奉行、老中など要職を務め、明治を迎えた」
とありました。
春日局は三代将軍徳川家光が誕生して乳母となりました。父の二代将軍秀忠と母のお江
(浅井氏)は弟の忠長を偏愛しました。家光はあまり健康でなく、表情がにぶくて可愛げの
ない子だったようです。局は心配して駿府(静岡市)に行き、大御所・家康に訴えました。
家康は江戸に出て、家光が秀忠の跡継ぎであることを皆にはっきりさせました。
局は家光の健康を神仏に祈り、薬断ちを誓いました。病に伏したとき、見舞った家光が
いくら薬をすすめても飲もうとしませんでした。一侍女でありながら、京に上り天皇に謁
して春日の称号を賜りました。局の娘婿・堀田正吉は旗本となりました。正吉の子・堀田
正盛は老中となり家光側近随一の重臣となりました。そして家光に殉死しました。
江戸に参勤する大名たちが東海道を通るとき、紹太寺門前で駕籠から出て拝礼したとい
われます。
鎌倉の豪壮な建物や多くの遺物を有する寺社も結構ですが、何もない広大な紹太寺跡も
いいものです。健康維持でウオーキングさかれてる方にお奨めしたいところです。