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明日、やろうかな・・・

思い立ったが吉日というが、ちょっと始めては、すぐ他の事に興味をもってしまう。
そんな日々のメモ帳。

他人と、つながる事。

2011-05-31 | 戯言
最近、


「家族」 を殺してしまったニュースを耳にした。


以前から、たまに流れるニュースではあるが、

殺してしまう程、憎んでいたのだろうか?


確かに、


一時的な感情の高ぶりで、

「怒り」 を感じる事は、多々あるが、

「殺したい程」 ではない。


社会通念上、 「殺人」 は違法であり、

社会的制裁や、社会的抹殺の対象になり得る。


しかし、


カッとなって、

そういう、周りが見えなくなった状態で、

殺してしまうのは、

対象が、たまたま 「家族」 であっただけで、

場合によっては、 「無差別殺人」 などの結果になるのかもしれない。


それとは別に、


親が、子供を、

置き去りにしたり、

閉じ込めたり、

過度な体罰によって、

死なせてしまう場合がある。


あたかも、事故のようだが、


「殺意」 が無いだけで、 「殺人」 に変わりは無い。


以前、ドラマの中で描かれていた「親子」が、

まさに 「それ」 であった。


生まれた時は、愛情が深く、

非常に可愛がっていたにも拘らず、

自らの状況が、劣悪になっていくにつれ、

愛情よりも、憎しみが強くなる。


不思議な事に、


愛情が有るにも拘らず、

「憎い」 という感情が「同居」している。

愛情が有るから故にかもしれないが。


本来、 「愛情」 と 「憎しみ」 はイコールなのかもしれない。


では、


なぜ、 「愛情」 だけには成らないのか?


それには、


世間体とか、

体力の限界とか、

経済力とか、

意見の相違とか、


結局、


「自分の思い通り」 に成らない事が、

積み重なり、

「憎しみ」 という 「愛情」 になってしまうのだろう。


では、 「憎しみ」 が増えないようにするには?


人間誰しも、感情があるのだから、

無くすのは不可能だろう。


ただ、


人間には、


 「コントロール出来ないモノが沢山ある」 事を、


理解するしかないのだ。


人生とか、

寿命とか、

子孫とか、

親とか、

他人とか、


その中で、一番難しいのが、


「他人」 であると、理解する。

自分以外は全て 「他人なのだ」 と、理解する。


それは、


川が流れるように、

砂浜に波が打寄せるように、

地球が自転しているように、

宇宙が広がり続けているように、


自分には、 「どうしようも出来ないモノだ」 と理解する。


そうすると、


憎しみは、増えにくいのではないか。


そう、思いながら、今日も 「他人」 と繋がっている。



「行動する自由」 と 「自己責任」

2011-05-27 | 戯言
ひと昔前、

 「自己責任」 という言葉が注目されていた時期がある。

2004年、イラクで起こった、あの事件だ。


彼の 「死」 に対し、

様々な意見があった。


その当時、首相の決断により、

殺されたのだと言う意見もあったが、

大半の国民は、首相の決定に賛同していたと思う。


しかし、


当時、首相の心境は計り知れないモノがある。


公人として、

国民の長として、

その決断は正しかったのだろう。


しかし、個人として、

自分の決定で、人が死んでしまう。


直接、手を下す訳ではないが、

まさに、苦渋の決断だろう。


法務大臣が、

犯罪者に対し、

司法の決定の下に、

 「死刑」 を宣告するのとは、訳が違う。


彼は、犯罪者ではない。


どちらかと言えば、

善良な青年であったらしい。


当時のイラクの状況に対して、

 「無知であった事が罪」 なのは否めないが、

その、最後は、ネットを通じ、世界中に配信された。


決して、良い最後では無かった。


自分も、見てしまったが、

非常に残酷な最後であった。


残酷な最後ではあるが、

現実に世界で起こっていることである。


それは、


目を背けてはいけない現実だ。


 「自己責任」


彼は、死を選んだ訳ではないが、

不本意ながら、死んでしまった。


それは、


 「登山」 や、

 「探検」 や、

 「モーターレース」 や、

 「スポーツ」 などで、

死んでしまった人達と同じなのだろうか?


違いがあるとすれば、


 「死」 を感じていなかった事だろうか。


しかし、


 「死」 を覚悟しながら、

自己責任において、何かを行う。

それだけが、 「自己責任」 ではない。

責任は、生きていく以上、必ずついて来る。


それは、


 「大人」 も 「子供」 も関係ない。

責任の取り方に違いはあるだろうが、

全ての行動は、 「自己責任」 なのだ。


稀に、

突発的な、

事故とも呼べる状況に遭遇する事がある。

 「無差別殺人」 のように、

 「飲酒運転のトラックによる追突」 のように、

 「爆破テロ」 のように、

一見、被害者に責任は全く無いように思えるが、


「行動する自由」 の下に、

外に出て、

行動をした結果なのだ。


死を恐れるあまり、

シェルターの様な 「要塞」 に

一生隠れているのも自由なのだ。


生まれたての子供は、

自分で歩く事は出来ない。


しかし、


いずれ、立ち上がり、歩き出す。

その時から、 「危険」 は始まり、

「自己責任」 が生まれる。

本人が「危険」を感じることが出来なくても。


自分は、


 「危険の伴わない、不自由」 よりも、

 「危険のある、自由」 を選ぶ。






争いを生むのは 「人間」 だから。

2011-05-26 | 戯言
「戦争」 とは悪い事なのだろうか?


結果として、多くの命が奪われ、

兵士として戦った者が傷つき、

残ったのは、廃墟になった、

ボロボロの街。


結果だけを見れば、


なんて無慈悲で、

なんて惨い事をするのだろう。

と、

嘆きたくなる、惨状がそこにある。


しかし、


元々、「戦争」とは、

「個々の人間同士の争い」であり、


それが、


家族、

グループ、

町、

国、

と、大きくなっただけに過ぎない。


争いのキッカケは、

些細な事から、

重大な事まである。


隣人同士の争いならば、

「ゴミが敷地に落ちてきた」

とか、

「犬の鳴き声がウルサイ」

とか、

「異臭が酷い」

とか、


ともすれば、我慢すれば何とかなる事から、


「勝手に敷地に車を停めている」

とか、

「庭にあった物が壊された」

などの実害。


しかし、まだ「話合う」事によって解決可能だ。


これが、国同士となると、

「領域侵犯」

や、

「主権侵害」

や、

「不法占拠」

や、

「武力行使」

など、

到底、我慢では済まされない事がある。


まず、話し合いも出来るだろうが、

 「武力行使」 や 「不法占拠」 に至っては、

そんな悠長にしていては、占領されてしまう。


つまり、


この時点で、 「戦争」 となってしまうわけだが、

その、当事者となる 「兵士」 は、

無理やり、戦わされているのだろうか?


実際には、


どの国の、

どの戦争でも、

兵士たちは、

家族を護るため。

故郷を護るため。

結果として、国を護るために、

戦っているハズだ。


みんな、「護るために戦っている」事になる。


だとすると、


すべての国が「侵略」を行わなければ、

「戦争」は無くなるのだろうか?


おそらく、


平和な時代が続いて、

幸福感が薄れて、

更なる幸福を求めるようになって行く時、

「資源」や「征服欲」によって、

「侵略」が始まってしまうのではないか?と思う。


世界では、「独立」する為、

戦争を起こす人達もいる。


それは、「独立」する事で、

「幸福」になろうと努力した結果だが、

それは悪い事なのだろうか?


人間が、人間である限り、

戦争はなくならない。


正しい 「戦争」 はないが、

「戦争」 が悪いわけではない。


誰しも、戦争で傷つく事を望んではいない。


しかし、


 「戦う事を放棄」 してしまったら、


戦争は起こらないが、

誰も護る事は出来ない。


きっと、


いつでも 「戦う意思」 を持っている事が、

互いの緊張感となり、


戦争が起き難い状況を作っているのだろう。




学問と学校教育。

2011-05-26 | 戯言
学校教育とは何だろう?


学校で、

先生が、

生徒に、

学問を、

教える事。

だけではないが、

おおまかには、そういう事だろう。


では、


「学問」とは?

読んで字のごとく 「学び問う」 事。


つまり、


本来、学問は教えるモノではなく、

「学ぶものである」という事になる。


まぁ、


自分の場合、

「詰め込み型の教育」は大嫌いだったから、

あえて、やらない「捻くれ者」であった。


しかし、


学びたいと思う学問に関しては、

他の同級生よりも理解する事が出来ていたと思う。


そんな中で、


教科書に載っていない、

質問に対し、

教師が答えてくれた記憶はない。


今のように、ネットで調べる事が出来ていたら、

少し、勉強の仕方も変わっていたかもしれない。


学問とは、


「学び問う」事であるなら、

生徒は、学ぶ意欲を持って問う事。

教師は、問いに対し答えを持つ事。

ではないだろうか?


しかし、


未だに理解できないのは、

教科書を基準とした、 「テスト」 だ。

あの問題用紙を見ると、拒否反応が起きる。


なぜ、


教科書から抜粋した、

数字や、

式や、

年代や、

人名や、

固有名詞なんかを、

書かせるのだろう?


当時から思っていたが、

ただの 「記憶テスト」 がほとんどであった。


これは、


日本の 「教育指導要領」 の問題だろうが、

これは、 「学問」 とは言いがたい。

ただの 「記憶テスト」 なら、

もうちょっと効率の良いテストがあるはず。


とはいえ、


子供時代は、この「記憶テスト」をやることで、

多少は、知識が増えるのだろう。


学校教育の目的が、


「良いテストの結果」になっているのではないか?


そして、


「学校受験」になっているのではないか?


とりあえず、 「大学卒」 という神話を信じて、

親が、借金をして、

子が、バイトをして、

無理をしながら、

「大学卒」 という、学歴を手に入れ、

大卒が大量生産され、


その結果、


大量の 「大学卒」 が世の中に溢れ、

その価値が失われている。

確かに、

大学で、研究を重ね、偉大な発見をする人もいる。

しかし、それは、ほんの一部だろう。


大卒が悪いとは思わないが、

「学び問う」事をして来なかった子供が、

大学で、どれだけの学問を理解できるのだろう?

ただ、課題をこなし、

卒業の時期を待っている者が殆どではないのか?


日本の学校教育は、

「学び問う」 事にシフトして行かなければ、

学校自体が無意味な物になってしまいそうな気がする。




悩みに悩まされる。

2011-05-25 | 戯言
さて、

『悩む』とは何だろう?


コンビニに行って、

今日の、昼飯は 「パン」 にするか、

「おにぎり」 にしようか?

そんな、

小さな悩みから、


「生きる」 か 「死ぬか」 の

極端な悩み。


「2者択一」 だったり、

「膨大な数」 から一つを選んだり。


悩む事自体、


とても、健全であると思うが、


その、


悩みに悩まされ、

病気の様になってしまうと、厄介だ。


きっと、


本能的に 「選択」 出来れば、

悩む事はないのだろうが、


人間は、


本能だけで生きていくと、破滅する。


まぁ、


「社会性」 が必要な場合に限るけど。


他人は、


悩んでいる人を見た時、

「気分転換が良い」

とか、

「深く考えないほうが良い」

とか、

「考えてるヒマがあったら行動しろ」

だとか、言ったりする。


しかし、


悩んでいる人にとって、

そういった「選択肢」は、

単なる「現実逃避」にしかならず、

今の状況を解決してはいない。


では、


悩みを解決している人は居るのだろうか?


多分、


自ら、解決できる人は僅かであろう。


殆どの場合、

時間が経つことによって、

状況が変化したり、


または、


とりあえず、行動した結果が、

上手い方向に動いたり、

予想もしていない事になったり、


結局、


外的な作用が、悩みを解決するのが殆どではないか?


つまりは、


人間は悩むもので、

悩みを解決出来るのは自分ではない。


そう、思える。


そういう意味では、


「果報は寝て待て」


という事だろうか。