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明日、やろうかな・・・

思い立ったが吉日というが、ちょっと始めては、すぐ他の事に興味をもってしまう。
そんな日々のメモ帳。

「行動する自由」 と 「自己責任」

2011-05-27 | 戯言
ひと昔前、

 「自己責任」 という言葉が注目されていた時期がある。

2004年、イラクで起こった、あの事件だ。


彼の 「死」 に対し、

様々な意見があった。


その当時、首相の決断により、

殺されたのだと言う意見もあったが、

大半の国民は、首相の決定に賛同していたと思う。


しかし、


当時、首相の心境は計り知れないモノがある。


公人として、

国民の長として、

その決断は正しかったのだろう。


しかし、個人として、

自分の決定で、人が死んでしまう。


直接、手を下す訳ではないが、

まさに、苦渋の決断だろう。


法務大臣が、

犯罪者に対し、

司法の決定の下に、

 「死刑」 を宣告するのとは、訳が違う。


彼は、犯罪者ではない。


どちらかと言えば、

善良な青年であったらしい。


当時のイラクの状況に対して、

 「無知であった事が罪」 なのは否めないが、

その、最後は、ネットを通じ、世界中に配信された。


決して、良い最後では無かった。


自分も、見てしまったが、

非常に残酷な最後であった。


残酷な最後ではあるが、

現実に世界で起こっていることである。


それは、


目を背けてはいけない現実だ。


 「自己責任」


彼は、死を選んだ訳ではないが、

不本意ながら、死んでしまった。


それは、


 「登山」 や、

 「探検」 や、

 「モーターレース」 や、

 「スポーツ」 などで、

死んでしまった人達と同じなのだろうか?


違いがあるとすれば、


 「死」 を感じていなかった事だろうか。


しかし、


 「死」 を覚悟しながら、

自己責任において、何かを行う。

それだけが、 「自己責任」 ではない。

責任は、生きていく以上、必ずついて来る。


それは、


 「大人」 も 「子供」 も関係ない。

責任の取り方に違いはあるだろうが、

全ての行動は、 「自己責任」 なのだ。


稀に、

突発的な、

事故とも呼べる状況に遭遇する事がある。

 「無差別殺人」 のように、

 「飲酒運転のトラックによる追突」 のように、

 「爆破テロ」 のように、

一見、被害者に責任は全く無いように思えるが、


「行動する自由」 の下に、

外に出て、

行動をした結果なのだ。


死を恐れるあまり、

シェルターの様な 「要塞」 に

一生隠れているのも自由なのだ。


生まれたての子供は、

自分で歩く事は出来ない。


しかし、


いずれ、立ち上がり、歩き出す。

その時から、 「危険」 は始まり、

「自己責任」 が生まれる。

本人が「危険」を感じることが出来なくても。


自分は、


 「危険の伴わない、不自由」 よりも、

 「危険のある、自由」 を選ぶ。