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明日、やろうかな・・・

思い立ったが吉日というが、ちょっと始めては、すぐ他の事に興味をもってしまう。
そんな日々のメモ帳。

6÷2(1+2)の答えは?

2012-07-20 | 戯言
面白い話題に遭遇した。

6÷2(1+2) 

という問題だ。


実際、計算すると幾つかの答えに分かれるらしい。


でも、


計算結果の違う数式って・・・。


そこで、

ネットの論争を見てみると、


答えが、1になる人。

答えが、9になる人。

稀に、7になる人がいる。


何が違うか?と言えば、

計算する順序。


1になるという場合、

2(1+2)=(2×1+2×2)

になるのだと言う。


9になるという場合、

2(1+2)=2×3

になると言い、


7になる場合、

2(1+2)=2×1+2×2

で、括弧が取れてしまうと言う。


答えが1と言う人は、

2(1+2)は多項式だから、一つの整数なのだと。


答えが7と言う人は、

2を(1+2)に掛けた時点で括弧は取れるのだと。


答えが9と言う人は、

2(1+2)は整数だから、(1+2)を先に計算し、括弧を外すのだと。


実際の答えは、

括弧が何故付いているのか?で解決する。


優先順位的に、最優先となるのだから、

括弧内の計算を先に行い、

括弧を外すのが正解だろう。

この時、同類項でなければ計算出来ないが、

これ場合、単純な整数の足し算なので、

(1+2)=3になる。


括弧を外した時点で、


6÷2×3


となるのだから、


左から優先して計算すれば、

答えは、9になる。


しかし、

パッと見た感じで答えを出しても、

ちょっと考えると、「待てよ・・・」と

考えさせられる所が面白い。






『教師』の仕事は何か?

2012-07-10 | 戯言
最近、気づいた事がある。

ふと、昔受けていた『学校での授業』の事。


教師が質問する。

「この答えはAだと思う人。」


そして、自分以外の全員が手を上げる。

教師は訊ねる。


「なぜ、違うと思う?」


自分が答えに詰まると、

面倒になった教師は、授業を続ける。

何故違うのか理解できないまま、孤立する。


そして、別の日。


クラスの輪の中で、意見が食い違う事がある。

また、そこでも持論を持って、対立。

孤立する。


こんな事を繰り返すと、

いつの間にか、アンチ人間というレッテルを貼られる。

そして、意見は無視され、

疎ましく思われる様になると、排除される。


そこで、意見を曲げて、

なんとなく、意見を合わせ、

解らない事を解ったと言い。

知らない事を知っていると言う。


今度は、解らない事がバレて嘘つきのレッテルを貼られる。

その繰り返しが起こると、

いつの間にか、壁を作るようになる。


誰が、悪いわけでもない。


自分は解らないものは、解らないと言っただけ。

教師は、授業を進める為に、それを無視しただけ。

同級生は、たった一人の意見に振り回されるのが疎ましかっただけ。


全て、些細な事で、

それぞれ、一つを取っても、大した事では無い。


では、解決策はあるだろうか?


自分は空気を読んで、適当に答えを合わせるのが正しいのか?

教師は、他の全員を犠牲にして、一人に時間を割くのが正しいのか?

同級生は、一人の意見でさえ重要だと、いつまでも答えの無い議論を続けるのが正しいのか?


答えは簡単。


解る人間が、解らない人間に理解出来るまで教えてあげれば解決する。

僅かな労力だが、多くの時間を無駄にする事はなくなる。

もし、解る人間が説明出来ない時は、

説明できる人間が手伝えばよい。


いや、まてよ?

これ自体が教育じゃないのか?


しかし、


これが出来ないのは、何が問題なのだろう?

教育の根底が狂っているのではないか?


『理解するのは生徒で、教えるのは教師。』


これでは、

教えられない教師が居たら成り立たないし、

理解しない生徒が居ても成り立たない。


本来ならば、


『理解させるのが教師の仕事で、教えるのは誰でも良い。』


ではないだろうか。



『虐め』とは何か? 

2012-07-05 | 戯言
動画サイトで

「僕は虐められています」という動画を見た。


真偽は分からないが、

本当に虐めを受けて、あの動画をUPしたとしたなら、


その中で罵倒していた相手は、

何も出来ない、

「自分自身」に対しての様に聞こえる。


虐めを受けていながら、

誰にも言えず、

逆らえず、

抵抗できず、

そして、その自分を否定する。


歪んだ恨みが、

関係の無い、一般の人々に向かってしまう。


危険な発想であり、

何も解決にならない。


だが、


その「自分自身」を肯定する事が出来たら?

何も出来ない、

言い返せない、

相談も出来ない自分を、


「それでもいいか?」と思えれば、


少しでも変わっていけるのではないだろうか?


「イジメる」と「イジメられる」のは、

僅かなパワーバランスであり、

その差は、殆んど無い。

その人の、タイミングでどちらにでも成りうる。

今は、虐めていなくても、

いつでも実行できる能力は持っている。

絶対にやらないとは言い切れない。


物理的な虐めも、

精神的な虐めも、

基本的には自然淘汰の一環でしかないのではないか。


どちらも、

本人にとって、つらい事だが、

虐められた経験は、

虐めた事しか無い人にとって、

未知の経験になる。


そういう意味では、

『虐められる=負の経験』とも言える。


人生の中では、

『負の経験』が山のようにある。

それを、乗り越えられなくても、

経験をしているのと、

全くの無知とでは、

受けた時のインパクトが違う。


『最悪』を多く経験する事で、

「アレよりはマシだ」という比較が出来る。


『イジメ』は、

無くすものではなく、

『自分自身を変える機会だ』 と思えれば、気が楽なのだが。


世の中には

『仲間』 『友人』 

そして、

『敵』 が居る事を知らなければならない。