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明日、やろうかな・・・

思い立ったが吉日というが、ちょっと始めては、すぐ他の事に興味をもってしまう。
そんな日々のメモ帳。

「選択責任」と「結果責任」

2011-05-23 | 戯言
ふと、

 「リーダー」 

というものについて考える。


家庭のリーダー。

職場のリーダー。

仲間のリーダー。

政治のリーダー。

世界のリーダー。


すべて、進むべき道を示す責任があり、
そして、皆の信頼を受けながら、最良へと進んでいく人達。


そこには、リーダーである 「責任」 もついてくる。


しかし、 「責任」 とは何だろう?

大きく分けて、思いつくのは


「選択責任」



「結果責任」


しかし、この二つは、リーダーでなくても、
個人にも当てはまる。


つまり、リーダーも 「個人の責任」 であるといえる。

その 「責任」 を果たす中で、結果として、信頼される人が 「リーダー」 となるのだろう。

ここで、一つ考えた究極の選択がある。

自分は車を運転している。

いつもの、慣れた通勤の道だ。

ゆるいカーブに差し掛かった時、

自転車に乗った子供が飛び出してきた。

とは言え、避ける事は可能な距離。

ハンドルを切って対向車線に大きく膨らんだ。

しかし、その対向車線からも乗用車が来ている。

まだ、車線は戻せるが、

戻れば、子供は轢かれてしまう。


ここで、一つの 『選択』 をする。


とっさの判断で子供を避け、

対向車と正面衝突をした。


自分は、無事であったが、

相手は重症。

もちろん、自分には重いペナルティが科せられる。


問題は、この後だ。


実は、助けたと思っていた子供は、

後続車に轢かれて亡くなった。


そして、


対向車の相手は、重度のマヒにより

一生苦しみ生きていく事になる。


自分は、正しい判断をしたのだろうか?

あの時、

ハンドルを切らず、子供を轢いていたら?


結果として、自分の判断は、苦しむ人を増やしてしまった。


この場合、


選択が間違っていたのだろうか?

結果が最悪になってしまったのだろうか?


もしくは、


どの選択をしても、あの子供は死んでしまったのだろうか?


結果は起きてからではないと、

その事に気付かないものだ。


重要なのは、何だろう?


「結果責任」だろうか?


最初の、 「選択」 ではないだろうか。

とっさの判断で、 「選択」 を行い、避けたわけだが、

その選択を選ぶまでの 「プロセス」 は何だったのか?

それが重要なのではないか?

「結果責任」を恐れるあまり、

「選択責任」を放棄してしまったら、

それは、生きている意味を失ってしまう。


前にも進まず、後ろにも下がらず、

ただ、立ち止まってしまう事。


「立ち止まる選択」 もあると言えば、そうではあるが、

立ち止まっていても、時間が止まる事はない。


人間には、いつか必ず 「死」 が訪れるのだから、

立ち止まる事は、 「死を待っている」 に過ぎない。

「死を待っている者」 が、生きているとは言えないのではないか?


生きていくのは、 「選択」と「結果」 の繰り返しなのだろう。

ある宗教では、 「この世で生きるのは、修行である」 と、唱えている。

生きる事は、辛くて当然だと。

そこに、僅かな幸せがあると、前に進む原動力となっていく。


そう思うと、


ちょっと、気が楽。