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明日、やろうかな・・・

思い立ったが吉日というが、ちょっと始めては、すぐ他の事に興味をもってしまう。
そんな日々のメモ帳。

争いを生むのは 「人間」 だから。

2011-05-26 | 戯言
「戦争」 とは悪い事なのだろうか?


結果として、多くの命が奪われ、

兵士として戦った者が傷つき、

残ったのは、廃墟になった、

ボロボロの街。


結果だけを見れば、


なんて無慈悲で、

なんて惨い事をするのだろう。

と、

嘆きたくなる、惨状がそこにある。


しかし、


元々、「戦争」とは、

「個々の人間同士の争い」であり、


それが、


家族、

グループ、

町、

国、

と、大きくなっただけに過ぎない。


争いのキッカケは、

些細な事から、

重大な事まである。


隣人同士の争いならば、

「ゴミが敷地に落ちてきた」

とか、

「犬の鳴き声がウルサイ」

とか、

「異臭が酷い」

とか、


ともすれば、我慢すれば何とかなる事から、


「勝手に敷地に車を停めている」

とか、

「庭にあった物が壊された」

などの実害。


しかし、まだ「話合う」事によって解決可能だ。


これが、国同士となると、

「領域侵犯」

や、

「主権侵害」

や、

「不法占拠」

や、

「武力行使」

など、

到底、我慢では済まされない事がある。


まず、話し合いも出来るだろうが、

 「武力行使」 や 「不法占拠」 に至っては、

そんな悠長にしていては、占領されてしまう。


つまり、


この時点で、 「戦争」 となってしまうわけだが、

その、当事者となる 「兵士」 は、

無理やり、戦わされているのだろうか?


実際には、


どの国の、

どの戦争でも、

兵士たちは、

家族を護るため。

故郷を護るため。

結果として、国を護るために、

戦っているハズだ。


みんな、「護るために戦っている」事になる。


だとすると、


すべての国が「侵略」を行わなければ、

「戦争」は無くなるのだろうか?


おそらく、


平和な時代が続いて、

幸福感が薄れて、

更なる幸福を求めるようになって行く時、

「資源」や「征服欲」によって、

「侵略」が始まってしまうのではないか?と思う。


世界では、「独立」する為、

戦争を起こす人達もいる。


それは、「独立」する事で、

「幸福」になろうと努力した結果だが、

それは悪い事なのだろうか?


人間が、人間である限り、

戦争はなくならない。


正しい 「戦争」 はないが、

「戦争」 が悪いわけではない。


誰しも、戦争で傷つく事を望んではいない。


しかし、


 「戦う事を放棄」 してしまったら、


戦争は起こらないが、

誰も護る事は出来ない。


きっと、


いつでも 「戦う意思」 を持っている事が、

互いの緊張感となり、


戦争が起き難い状況を作っているのだろう。




学問と学校教育。

2011-05-26 | 戯言
学校教育とは何だろう?


学校で、

先生が、

生徒に、

学問を、

教える事。

だけではないが、

おおまかには、そういう事だろう。


では、


「学問」とは?

読んで字のごとく 「学び問う」 事。


つまり、


本来、学問は教えるモノではなく、

「学ぶものである」という事になる。


まぁ、


自分の場合、

「詰め込み型の教育」は大嫌いだったから、

あえて、やらない「捻くれ者」であった。


しかし、


学びたいと思う学問に関しては、

他の同級生よりも理解する事が出来ていたと思う。


そんな中で、


教科書に載っていない、

質問に対し、

教師が答えてくれた記憶はない。


今のように、ネットで調べる事が出来ていたら、

少し、勉強の仕方も変わっていたかもしれない。


学問とは、


「学び問う」事であるなら、

生徒は、学ぶ意欲を持って問う事。

教師は、問いに対し答えを持つ事。

ではないだろうか?


しかし、


未だに理解できないのは、

教科書を基準とした、 「テスト」 だ。

あの問題用紙を見ると、拒否反応が起きる。


なぜ、


教科書から抜粋した、

数字や、

式や、

年代や、

人名や、

固有名詞なんかを、

書かせるのだろう?


当時から思っていたが、

ただの 「記憶テスト」 がほとんどであった。


これは、


日本の 「教育指導要領」 の問題だろうが、

これは、 「学問」 とは言いがたい。

ただの 「記憶テスト」 なら、

もうちょっと効率の良いテストがあるはず。


とはいえ、


子供時代は、この「記憶テスト」をやることで、

多少は、知識が増えるのだろう。


学校教育の目的が、


「良いテストの結果」になっているのではないか?


そして、


「学校受験」になっているのではないか?


とりあえず、 「大学卒」 という神話を信じて、

親が、借金をして、

子が、バイトをして、

無理をしながら、

「大学卒」 という、学歴を手に入れ、

大卒が大量生産され、


その結果、


大量の 「大学卒」 が世の中に溢れ、

その価値が失われている。

確かに、

大学で、研究を重ね、偉大な発見をする人もいる。

しかし、それは、ほんの一部だろう。


大卒が悪いとは思わないが、

「学び問う」事をして来なかった子供が、

大学で、どれだけの学問を理解できるのだろう?

ただ、課題をこなし、

卒業の時期を待っている者が殆どではないのか?


日本の学校教育は、

「学び問う」 事にシフトして行かなければ、

学校自体が無意味な物になってしまいそうな気がする。