古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

神武東征上陸のモデル熊野古道中辺路浜王子と出雲王の役職名をつけた吉野大名持ち神社

2015年11月08日 19時05分01秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
記紀に書かれた「神武東征」は前後100年以上離れた 2度にわたる九州物部王家の東征を
一つにまとめた作り話で かなり無理がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
紀元後165年頃に 九州物部王家の「彦渚武」の皇子 物部の五瀬、その弟稲飯、三毛入りが
第一次東征を開始、紀ノ川河口から大和入りしようとした。

しかし紀の国は 初代大和大王 天の村雲の 腹違いの弟高倉下の地盤で、高倉下の子孫たちに
手強い反撃、迎撃を受けて 五瀬は戦死、竈山神社に葬られる。

残った稲飯と三毛入たちは一旦紀ノ川から退却し、熊野へ回り熊野川を遡ろうとする。
しかしそこでも大和の磯城王朝配下の武人たちに攻められて 動きが取れずやむなく
熊野川の中洲に留まる。その地が 後に熊野本宮大社となる。

困った稲飯たちは ひそかに大和の登美家へ密使を送り 大和入りの道案内を願い出た。

当時大和は 磯城王家が弱まり、豪族たちが割拠していたので この状態を物部家と
共に 平定しようとした登美家当主の 加茂建津之身は熊野川から吉野川、高見川の川沿いの
山岳地帯を案内し、物部王家を登美家地盤の磐余の地に引き入れた。

これが第一次東征であるが 物部家は磯城家に飲み込まれてしまう。そこで起源248年から
物部イクメ王(垂仁)により 第二次東征が始まるのである。

磐余入りした物部家の王が 稲飯か三毛入か分からないので 記紀製作者は「物部ウマシマジ」
なる架空の人物を創り上げ、これを磐余彦と名づけたのだ。それゆえ記紀では稲飯とか三毛入
と言う名前は出てこない。

そして道案内をしてくれた登美家の加茂建津之身を秦国の神話に出てくる「ヤタガラス」と称して長く熊野本宮大社はじめ各地の物部系神社に祭るのである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以前、世界文化遺産熊野古道中辺路(なかへち)を歩いた事がある。(2015年 3月 8日)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

中辺路の中でも最終章、高野坂を越えて熊野灘の海の道を歩き ゴールの熊の速玉大社 へ行く道だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

綺麗な石畳の道を歩いていく。世界遺産の参詣道だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

やがて峠に差し掛かると 右手に熊野灘が見えてくる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この海岸を歩いていくのが「海の道」だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

潮騒を聞きながら、潮の香りを楽しみつつ約40分くらい歩く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

やがて「浜王子」にたどり着く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居を潜ると こじんまりした社があった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

浜王子神社のご祭神を読んでびっくりたまげた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なんと物部の稲飯と三毛入を祀っているのだ。作り話の記紀では絶対に出てこない名前なのだ。
稲飯と三毛入たちは この海岸の近くに上陸したのだろう。
そして熊野川沿いに 大和へ向ったのだ。

記紀の作り話から漏れ落ちた真実がここにもあったのだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここからの熊野古道は新宮市内を歩く。まず眼に飛び込んで来たのは なんと徐福公園だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こちらが徐福さんだ。最初は石見海岸の「五十猛海岸」に上陸し、部下の穂日に命じて出雲王家の主王と副王を
相次いで殺害し、自分が出雲王国の いや和国の王になろうとしたのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
五十猛海岸に上陸した徐福は「火明り(ホアカリ)」と名乗る。出雲王家の高照姫との間に息子五十猛をもうけて 徐福は一旦秦国に帰り、更なる資金と海童たちを秦の始皇帝に貰い受けて 二度目の和国上陸を九州佐賀の浮杯に再上陸し、饒速日(にぎはやひ)と名乗る。

そして 出雲王家の分家 宗像家の市杵島姫との間に 穂穂出見を設け 穂穂出見が九州物部家を起こすのだ。

この徐福上陸と言うのは、徐福が九州に再上陸してから 約350年後の 徐福の子孫の上陸を意味しているのだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さらに歩いて行くと 街中の小さな神社にも面白い由緒書きがあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社は徐福を祀っているのだ。
恐らく熊野に住み着いた物部の家臣たちにより、物部の始祖徐福が祭られたのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さらに新宮市内を歩いていく。この道も熊野古道のマークが埋め込まれていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ゴールの熊野速玉大社 だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

広くて立派な境内だ。この神社も 「世界文化遺産 紀伊山地の霊場と参詣道」の霊場になっている熊野三山の一つだ。他の二つは 熊野本宮大社と熊野那智大社だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
熊野三山の主祭神 は 熊野速玉の命 つまり徐福のことだ。二度目に上陸した徐福は 和名を「饒速日」と名乗る。物部王家に伝わる「先代旧事本紀」には物部の始祖として「火明り饒速日(ほあかりにぎはやひ)」と 二人の名前が一つに書かれているが 両方とも 記紀では 素戔嗚(すさのお)と書かれた徐福のことだ。

つまり 饒速日の「速」と言う字を取り 「速玉の命」という形で徐福を祀っているのだ。
平安時代に たくさんの都人、貴族たちが 熊野詣でをしたのだが、平安貴族のほとんどが
徐福の血を引く 子孫たちなのだ。つまり彼らはご先祖様に 詣でていたのだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
奈良県吉野町 大名持ち神社  (2015年 1月 15日)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
吉野町の町外れにこの神社は鎮座する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その名もずばり 大名持ち神社だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲王朝は 主王と副王の二人の王で治められていた。東出雲王家の向井家と西出雲王家の神戸臣家(かんどのおみけ)が交代で主王と副王を出していたのだ。
その主王の役職名が 「大名持ち」である。そして副王は 「少彦」と呼ばれた。
紀元前三世紀末に秦国から渡来した 徐福やその部下の穂日たちに幽閉殺害された 出雲王家
第八代主王の八千矛王と 第八代副王の八重波津身は その祟りを恐れた 物部の子孫たちにより 全国に祀られたのである。

記紀では「大名持ち」は「大汝」とか「大己貴(おおなむち)」とか書かれ また個人名として大国主と書かれた。 また副王の役職名の少彦(すくなひこ)は 少彦名とか少名彦名などと悪意を持って書き換えられている。そして個人名は 言代主(ことしろぬし)と書かれた。

また時代が下がると 大国主と言代主は「大黒さん」、「恵比寿さん」と言われるようになり
全国の恵比寿神社は 八重波津身が沼川姫と暮らした松江市美保関町の美保神社であり、大国主は出雲大社に祭られている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
拝殿から本殿を拝む。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は遠くからしか見えないが、妻入りの大社造ではないようだ。
ちなみに同じ奈良県の金剛山山頂の葛城神社は言代主を祭っていて ちゃんと大社造だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

祭神の説明書きだが、残念ながら 偽りの作り話の記紀の内容の影響をまともに受けている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大名持ちは いいとして少彦を少名彦名などと記紀の悪意ある書き換えをそのまま鵜呑みにしているし、最悪はスセリ姫も祀っている事だ。記紀のなかでは 徐福をスサノオと書きその娘をスセリ姫として 大国主と結婚するという無茶苦茶なストーリーになっている。

実際は徐福は 第七代主王の「天之冬衣」の姫君高照姫と結婚し 長男五十猛を設けているのだから 徐福の娘と大国主が出会うはずは無いのだ。

また徐福が一旦秦国に帰国した後二度目の渡来時には 出雲王家の九州分家 宗像家の市杵島姫と結婚し、次男穂穂出見(ほほでみ)と長女穂屋姫を設けているので、そのときにはすでに
大国主たちは 徐福の部下穂日と穂日の息子のヒナドリたちに幽閉殺害されていて 徐福の娘と大国主が出会う事はありえないのである。

と言うことは せっかく大国主のことを「大名持ち」と役職名で祀っているのに 記紀の作り話を鵜呑みにしているのだから この神社は出雲族が建てたものではないようだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この日は政治式の日で吉野町の成人たちが この神社に集まっていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

吉野川の河原では 小正月の行事「トンド焼き」が行われるべく 準備中だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このあと 吉野の料亭「平宋総本家」で吉野御膳を食べて帰宅した。吉野名物の鯖寿司、鮭寿司の定食でとてもおいしかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする