古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

奈良県桜井市の歴史道 磐余(いわれ)と巻向(まきむく)

2015年02月03日 22時11分59秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて磐余道と巻向を歩いた。
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「磐余橋」という地名を見つけた。
記紀に書かれた作り話の大王神武が熊野から大和入りして ここ磐余の地に落ち着き「磐余彦」と呼ばれたとある。
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「磐余の道」を歩いてみた。
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近鉄桜井駅前の道が 「磐余の道」らしい。

第一次物部東征で 最初紀ノ川河口へ上陸し、高倉下の子孫たちに手痛い反撃を受けた物部軍は
大将の「物部五瀬」が戦死する。

その後熊野へ転進して上陸するも、磯城王朝側のゲリラ名やられて 身動きも出来ず川洲の中で防戦一方だったという。

戦死した五瀬の弟の稲飯か三毛入りかどちらが 大将か分からないので ここでも記紀は「ウマシマジ」という大将を
でっち上げている。ちなみに上陸地点の新宮市の浜王子神社では「稲飯」と「ミケイリ」の両方を主祭神 としている。

困り果てた物部軍は 大和の登美家にひそかに使者を送り、大和へ先導してくれるように頼む。

登美家の「鴨建津乃身」は物部軍とともに大和に新国家を作ろうと、自ら案内して下北山、上北山の山中を通り
物部軍を大和に引き入れた。物部軍は彼に感謝して「ヤタガラス」として末代まで神社に祭ったという。

ところが大和入りした恩知らずな物部ウマシマジは「磐余彦」と名乗り、出雲系の集落を次々と襲い
銅鐸祭祀をやめさせて、自分たちの、神獣鏡を飾る支那の道教祭祀を押し付けて回り、宗教戦争を引き起こしたという。

この争いはモモソ姫が三輪山の巫女となり、祭祀を行うと次第に収まったらしい。(魏書による)
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磐余の道を歩くと 昔ながらのたたずまいに出会う。
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老舗の造り酒屋もある。
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突然現れた素戔嗚神社。このあたりは出雲系と物部の混在地域だから、徐福を祀っても不思議はない。
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恵比寿神社が現れた。恵比寿さんは徐福、穂日らに幽閉殺害された事代主のことだ。
出雲系の住人が建てたのだろう。
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中へ入ると拝殿はなかなか立派だ。本殿が大社造かどうか見たかったのだが、覗けなかった。
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この神社の主祭神 は当然八重波津身(事代主)だ。

ところが加夜奈留美と書いてあるのを見て またまたびっくり。

徐福、穂日らに幽閉殺害された 第八代大名持ち八千矛王のあと、八重波津身(事代主)の皇子の
鳥鳴海が第九代大名持ちとなった。主王(大名持ち)と副王(少彦)は 東王家(向井家、富家)
と西王家(神門臣家)から交互に出すしきたりだからだ。

鳥鳴海王は死後伯耆の国日吉津の香屋島神社に祀られたので、香や鳴海の命と呼ばれるのだ。
このあたりの出雲系の人たちは なかなか出雲の内情に詳しい人たちだ。

八尋熊鰐の命はよく分からないので いろいろ調べるとどうも 熊鰐(わに)族とは事代主族と書いてあるのが多い。
つまり出雲系の分家の長なのかもしれない。

古代出雲では 鮫のことを鰐といい(今でもそう言う)、鰐は神の使いだと尊敬されていた。
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磐余の道を歩いているとこの「豊田」という地名が目に付いた。

安芸の宮島で亡くなったトヨタマヒメ(第2のヒミコ)の葬儀を宇佐王国で済ませた
豊来入彦、豊来入姫たち豊王国勢はイクメ王に遅れてこの地にやってきた。

沢山の豊王国軍隊の中にはこの地域に住み着いた人も多く、「豊」の地名が残る。
「豊田」や「豊前」まであるのにはびっくりした。
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磐余道の最後に「桜井市埋蔵文化財センター」へ行ってみた。
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何かの儀式に使用されたと思われるお面。
なんに使われたのだろう。なかなか興味深かった。
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イヤリング、ネックレス、ブレスレットなどの装飾品。
出雲市の王家の谷で発掘された物を展示している「出雲弥生の森博物館」のものとほぼ同じだ。
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埋葬された女性が身に付けていた装飾品。
豊来入姫や大和姫もこのように飾られて埋葬されたのだろうか。
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鏃や鐙などの鉄製品は 「穴師の郷」でつくられたものだろうか。
出土した土器は 全国から集まったそうだ。
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ガラス製品も出土したそうだ。インド製のビーズが多かったけど、時代が下がるとこの地で作られたガラスもあるそうだ。
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このイヤリングなど 今のデザインとあまり変わらない。
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巻向で出土した土器の半数は東海のものだそうだ。笛吹から東海方面へ移住した尾張家の祭り参加が多かったのか。
出雲系の土器が少ないのは意外だった。
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古墳から発掘された埴輪も展示されている。
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野見の宿禰 の子孫が大和に残り、土師氏として埴輪を発達させて、それまで行われていた 
王の墳墓への 生き埋め殉死をなくしたと 何かの本で読んだけど、本当だろうか。
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歴史については
斎木雲州著 「出雲と大和の曙」「古事記の編集室」「万葉歌の天才」「御伽噺とそのモデル」「出雲と蘇我王国」
勝 友彦著 「親魏和王の都」
谷戸貞彦著 「幸の神と竜」 
などを参照しました。 
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