古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

菅原道真の生家に建てられた菅原天満宮を訪ねた記録(2015.12.13)に朝鮮渡来人卑ボコの説明を追加しました

2021年02月06日 00時01分02秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

 

菅原天満宮と野見の宿祢の御陵を訪ねた記録に 朝鮮からの渡来人卑ボコの説明を追加しました。

また菅原家の祖先 出雲系の土師家の説明も追加しました。

 

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九州物部王家の東征で、イクメ王より一足先に日本海を北上し、出雲王国の田和山神殿を破壊したあと


魏から貰い受けた八本の錦の御旗(八幡の語源となる)をかざして大和入りした田道間守(朝鮮渡来人


ヒボコの子孫)は、自分がヤマトの王のように振舞う。

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それもそのはずで、田道間守もイクメ王も魏に別々に朝献に行き(第二のヒミコ豊玉姫の使者として) 

それぞれが魏の官位「中朗将」を授かっているので 田道間守からすると イクメ王は自分と同格と

思っていた。



吉備王国の討伐に手を焼き、大和に遅れてやってきたイクメ王は 自分の命令に従わぬ田道間守に手を焼き、

自分が倒したはずの「旧出雲王家」に出雲進駐軍司令官 秋上十千根を通じて ヤマトに出兵して

田道間守を撃つように 助けを求める。

 

物部王家に倒された出雲王家の内 東出雲王家の富家(とびけ)は名前を向家に替えていた。イクメ王から

秋上十千根を通じて出兵を要請された向家当主の太田彦は 出雲王家を滅ぼした物部王家が

憎かった。しかし出雲王家の神聖な田和山神殿を破壊した朝鮮系の 田道間守はもっと憎かった。

 

そこで向家当主の太田彦は 名前を富(とび)の名前を野見(のみ)と変えて 野見太田彦として 神聖な田和山神殿を

破壊した 渡来朝鮮人卑ボコの子孫の田道間守に復習する為に この助けを聞き入れて 出雲兵を

引き連れてヤマトへ進軍し、田道間守を打ち破る。

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この戦争が 記紀では当麻蹶速(たいまのけはや   ※田道間守が領地にして君臨していた場所「奈良県御所市当麻町」は

タジマの名前が訛りタイマと呼ばれて当麻の字が当てられた)と野見の宿祢(田道間守の敗走に喜んだイクメ王は

野見太田彦に物部王家の重鎮の称号である「宿祢(すくね)」を与えて太田彦は野見宿祢と呼ばれた) の

相撲勝負のおとぎ話に替えられてから、後世にはこれが大相撲の起源とされてしまった。

記紀の作り話も恐ろしいことに発展したものである。

記紀は物部王家のイクメ王が 出雲族の助けを借りて ヤマトの平定をしたことをひたすら隠すために

戦争を力比べの相撲話にすりかえたのである。

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ヤマトに住み着いた 野見の宿禰 の子孫の出雲族は 古墳築造技術に優れていて イクメ王皇后のヒバス姫

御陵を築き、その後土師氏(はじし)と呼ばれ 土師家を名乗る。

 

※イクメ王とヒバス姫の姫皇女の大和姫は 信仰心厚く 太陽の女神を奉じて伊勢へ行き 伊勢の豪族

伊雑の宮の社家 井沢富彦の保護のもと 五十鈴川のほとりに内宮を建てて太陽の女神を祀った。

井沢富彦は登美家出身である。

 

大和姫の死後 遺体は大和に運ばれて出雲系の賀茂家当主 賀茂田太彦(かもたたひこ 土師家から養子入り)

らにより古墳が作られて人々は 土師氏が作ったから 土師墓(はじはか)と呼んだが 記紀は

箸墓と名前を変えて箸墓古墳と名前を作り替えた。さらに嘘は嘘を呼び 大和姫は箸で陰部を突いて

亡くなったというわけのわからん作り話をこさえた上に 宮内庁はその嘘のさらに上乗せをして

「大和、ととびモモソ姫」御陵なんて大和姫とモモソ姫という100年以上時代の違う二人のヒミコ

「1番目と5番目のヒミコ」を合体させたお墓を作ってしまい すましている。恐れ多いことだ。

※2015年1月19日の記事にのせています。

 

そしてその土師家の子孫からは学問の家系の菅原家や大江家(平安時代の歌人大江匡房やその子孫軍学者 大江時親)が

生まれたと言う。ちなみに大江家が毛利元就の祖先とされている。

 

※田和山神殿跡については 2014年6月16日のこのブログの記事に載せています。
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来待町「菅原」の地名がのこるこのあたりは山の中だ。
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この鳥居を潜ると菅原天満宮の参道だ。
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ここにはもともと向太田彦(野見の宿祢)のお墓があったという。


野見の宿禰 は大和で田道間守の軍勢を打ち破り、暫く大和に留まった後、イクメ王から拝領した土地を
息子らに任せて出雲へ凱旋する。その帰路に播磨の出雲系の豪族の家に招待されてご馳走が振舞われた。

しかしその家の使用人に 朝鮮人ヒボコの家来の子孫が働いていて 食事に毒を盛られて翌日にその地で
急死したと言われる。

野見彦の遺体はその地で埋葬され、大勢の出雲族が出雲からやってきて、野原に整列して 手渡しで石や土を運び 

墳墓を作ったという。それでその地は大勢の人が野原に立ち並んだ事から「立つ野」と言う地名になったという。


遺体の一部は 出雲に持ち帰られて この地に葬られた。
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ここで渡来朝鮮人卑ボコについて

卑ボコは辰韓の王子であったが、父親の辰韓王から疎まれて 家来と財宝を分け与えられ

二世紀に船で日本海を渡ってきた。出雲王国の大名持(主王)に上陸の許可を願い出たが 大名持が

「先住民の土地を奪わないこと。出雲王国の八条書き(法律)を守ること」を条件に出したが卑ボコは

それを拒否した。父親に捨てられて心が荒んでいたのだろう。

 

大名持は出雲、石見、伯耆の地に住むことを禁じた。

そこで卑ボコは但馬の丸山川をさかのぼり 沿岸部に上陸しようとしたが出雲兵に追われた。

やむなく卑ボコ集団は上流の大磯(豊岡市)の広い沼地に船を泊めて船上生活を始めた。

 

当時は丸山川河口は狭く、津居山でふさがれていてそのため流れが悪く上流は湿地帯になっていた。

そこで卑ボコは人々を指揮して 津居山を削り河口を広げて流れをよくすると上流に肥沃な豊岡盆地が出現した。

新しく陸地となった場所に 卑ボコ集団は田畑を作り集落を作り住み続けて、その子孫は土地の豪族となった。

 

しかし卑ボコは 出雲王家を逆恨みして 出雲王国を末永く恨み続け。

そのため 後々卑ボコの子孫が出雲王家に戦争を仕掛けた。

出雲王国の播磨に突如侵入して占領し 出雲王家と大和の磯城家(出雲王家の大和分家登美家)との分断を図り

結果出雲王家は孤立する。

 

卑ボコやその家来の子孫はいつまでも出雲王家を逆恨みし続けて その子孫が野見の宿祢に

毒を盛ったのである。もちろん野見の宿祢の軍に蹴散らされた田道間守は卑ボコの子孫である。

ほんま朝鮮人は執念深いからなあ。

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時代が下がり、野見彦の子孫から土師家が出来て そこからさらに菅原家と大江家が出来た。


出雲国庁に 国司として滞在していた菅原是善(これよし)が、この地に自分の祖先の野見彦の墓に
参拝に来たとき、案内してくれた地元の女子が 利発なのに気に入り寵愛して 生まれたのが道真だという。

道真が6歳のときに都から迎えが来て 親子は都へ行き 道真は菅原家の子として育てられ、長ずるにおよび
天賦の才能が開花して頭角を現したらしい。

 

その後あの日本史の汚点である陰険な藤原一族(その子孫はしぶとくも千年以上皇室を食い物にして生きながらえて 

近衛文麿はじめ現代まで続いている)の陰謀に陥れられて無念の死を遂げられた事は 周知の事である。

 

その後宮中で起こった奇怪な物の怪事件の連続に藤原一族は 菅原道真の祟りだと恐れおののき

彼を学問の神様、天神様として全国に祀るのである。



彼の死後 この生地に建てられたのが 「菅原天満宮」で、歴代松江藩主により、守られ続けて来たという。

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長い石段をゆっくり登っていく。
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石段を登ると正面に拝殿がある。
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拝殿も立派な建物だ。松江藩の保護を受け続けていただけはある。
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本殿はなぜか大社造りにはなっていない。出雲王家の血を引くお方なのに何故だろう。

千木は出雲式の縦削ぎではあるけど。
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参集殿では丁度近所の方が集まって 25日の「秋の大祭」の準備をしている最中だった。
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「野見の宿禰」 の御陵
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境内の脇に石段があり、それを登っていく。
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こじんまりとした墳墓があり、野見の宿禰 つまり向太田彦の御陵だという。
雨も激しくなってきたので、御陵にお参りした後 立ち去った。
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太田彦の古墳は 島根県飯南町野見野にもあります。
そこを訪ねた記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/aa16ed0399a854fe21ff961e972b14f0
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