聞き書き塾で聞いた話。
渋澤さんが学生だった頃、東北の山里によく通っていた。夜明けに東北に着く頃、汽車の窓から、田んぼの一枚一枚に人が立っているのが見えた。
その人たちは、夜明けの田んぼの色によって、自分の田んぼの水調節をどのようにすればいいか、見極めていたのである。
田んぼの色は一枚一枚、一日一日微妙に違い、当時の農家の人は、それを見分けることができたのである。
今のように蛇口の調節で水加減ができるのではなかった。
水路に置く石の大きさ、場所によって、流れ入る水の量を調節していた。
水路に石が落ちていると思って動かしたりすれば、ひどく叱られたという。
人は、ものごとを自分の五感(ときには第六感?)で見極める能力を持っていた。そうでなければうまく生きられなかったのである。それが生きる力であり、その能力が高い者がきっと尊敬を集め多くを得ることができたのだろう。
私たちは本来そういう力を持っているはずである。訓練し、開発すればそのようなことができる。
けれども、いつの間にかその能力を持つことを放棄し、文字で書かれた表示に頼ることが当たり前になってしまった。
このことは10月24日の記事に書いた。
それはとても情けないことなのではないだろうか。
そんな五感をもって生きてきた人たちにもっとたくさん会いたいと思う。
今も、ある特定の職業の人は、特定の分野で実感で判断する能力を持っていることは確かだ。てんぷら職人は揚がる音で揚げられている素材が判別できるのだという。
私たちは自分の五感で判断することを取り戻していかないと、そのうちとんでもないことになるような気がする。
食品に書かれた表示はあくまでも参考にとどめ、基本は自分で判断するという線からはずれてはならない。そして、いつまで食べられるかという勝手に他人が考えた基準よりも、自分にとっておいしいか、体によいかを自分の感覚で感じることのほうが大事であると思う。
渋澤さんが学生だった頃、東北の山里によく通っていた。夜明けに東北に着く頃、汽車の窓から、田んぼの一枚一枚に人が立っているのが見えた。
その人たちは、夜明けの田んぼの色によって、自分の田んぼの水調節をどのようにすればいいか、見極めていたのである。
田んぼの色は一枚一枚、一日一日微妙に違い、当時の農家の人は、それを見分けることができたのである。
今のように蛇口の調節で水加減ができるのではなかった。
水路に置く石の大きさ、場所によって、流れ入る水の量を調節していた。
水路に石が落ちていると思って動かしたりすれば、ひどく叱られたという。
人は、ものごとを自分の五感(ときには第六感?)で見極める能力を持っていた。そうでなければうまく生きられなかったのである。それが生きる力であり、その能力が高い者がきっと尊敬を集め多くを得ることができたのだろう。
私たちは本来そういう力を持っているはずである。訓練し、開発すればそのようなことができる。
けれども、いつの間にかその能力を持つことを放棄し、文字で書かれた表示に頼ることが当たり前になってしまった。
このことは10月24日の記事に書いた。
それはとても情けないことなのではないだろうか。
そんな五感をもって生きてきた人たちにもっとたくさん会いたいと思う。
今も、ある特定の職業の人は、特定の分野で実感で判断する能力を持っていることは確かだ。てんぷら職人は揚がる音で揚げられている素材が判別できるのだという。
私たちは自分の五感で判断することを取り戻していかないと、そのうちとんでもないことになるような気がする。
食品に書かれた表示はあくまでも参考にとどめ、基本は自分で判断するという線からはずれてはならない。そして、いつまで食べられるかという勝手に他人が考えた基準よりも、自分にとっておいしいか、体によいかを自分の感覚で感じることのほうが大事であると思う。