年末年始に家にいると、どうもうだうだ、だらだらと夜更かしをする傾向にある。
元日の夜も、テレビ朝日で全日本まなりうたコンテストというのをやっていて
ついつい最後まで見てしまった。
この番組、何年か続いているらしいけど、今年たまたまテレビをつけて知った。
よく知られたポピュラーミュージックを、方言で歌うもの。
聴く前からある程度予想したことではあったけど、
方言で歌われるそれらの歌は、面白いを通り越して、本当に伝わってくるものがあった。
標準語では伝わらない、生の感情、思いがそこにあった。
しかしその地方の人が自分の言葉で歌うからいいのであって、東京の人が山形弁で歌っても真似事で終わってしまうだろう。
青森代表の人の、一青ヨウのハナミズキには涙。テレビで歌を聴いて泣けることなんてないのだけど(多分いつもテレビで歌を聴くときは片手間なのでそこまで真剣になれていない)、心の奥にストレートに突き刺さってくるのだ。
決勝での山形の女の子のもよかった。
こういう歌を聴いていると、標準語というのがいかに人造語であるかがよく分かる。
誰の言葉でもない、作られた言葉。デスとかマスというのは一体どこから来た言葉なのだろう。勉強不足で、私にはいまだに謎である。軍隊で使われていたことは間違いないと思うが、それ以前に日本の学校教育で使われていたのだろうか? いったいどこの地方にその語源があるのだろう。とにかく割合新しい時代に公用語として使うよう作為的に推奨されたものであると思う。
それを日常生活の中にもってくると空虚になる。
地方に行って、デスとかマスをつけて話すのが丁寧だとか礼儀だとか思っていると
落とし穴にはまる。それは相手との間に壁をつくりバリアを張ってしまう言葉になっていることがあるのだ。
山里の人の話を聴いて「読める話」に仕上げて本にする活動をしている。
このとき、方言が多すぎると読みづらくて読者に伝わらないものになってしまう。
ではなぜ標準語に全部直してしまわないか。それは、標準語でその人の言葉じゃないもので書いてしまうと、意味は分かりやすいが、魂が抜けてしまうのだ。ぐっと伝わってくる実感がなくなってしまう。
作品を仕上げるとき方言をどれだけ残すのかの「さじかげん」は難しい。対象とする読者層にもよる。書く人の筆力によるところも大きい。方言を残せばいいというものでもない。伝わらなければ仕方がない。
けれど、人の発する言葉には魂がこもっている。その魂をどれだけ温存したまま書けるかということである。
全日本なまりうたコンテスト、いい番組だ。この番組を考え出した人もすごい。
全国のこういう歌を集めてCDを作ってほしい。
そして、日本の地域語がいつまでも残って使われていくことを願う。
写真/シマカンギク(だと思う) 長崎県小値賀島(2005年)
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