山里ひぐらしの小径

木曽路の入り口、岐阜県中津川市から
人と自然とのかかわりをテーマに、山里、植物、離島など。

南の国の赤鯛白鯛

2009-03-29 | 山里
昨日に続き、海の幸。
インドネシア・スマトラ島、パダンの赤い鯛、白い鯛、ほかの魚。
海岸沿いに屋台がずらっと並んでいて、漁師さんが獲った魚を売っていました。
ぴかぴかの魚がきれいです。
レイアウトも小粋です!
1キロ75000RPT(700円ぐらい)です。

パダンはこれまでのインドネシアへのイメージをくつがえすような、おだやかないいところでした。
観光客に群がって稼ごうとする人がだれもおらず、ただただ、みんな、歓迎して、いろいろなものをタダでくれました。

日本人にたからないインドネシア人がいるとは……!と
ひっくり返るほど驚きました。
でも本当は、大部分の人がそうなんですよね。
観光地に行けば観光客に群がって当然。
観光地以外のほとんどのところで、インドネシア人も日本人と同じように、はじらいつつ客を歓待する気持ちを持っているみたいです。

恵那山が真っ白に

2009-03-27 | めぐる季節と自然
暑さ寒さは彼岸までと言った人はどこに住んでいたんだろう。
真冬に逆戻りしたかのように、寒い。
ものすご~く寒い。
花粉というのは暖かい日ほど飛んでいるのではなかったのか。
寒くなってから、花粉症がひどい。
意味わかんない……

恵那山にまた新しい雪が積もりました。
白梅はすっかり散ったけど
ウグイスはどこに行ったんだろう。



写真は、篠島のお店で出てきたしらす。篠島ではシロメというそうです。
こっちのスーパーで買う篠島のしらすとは似ても似つかないものでした。
今までしらすのこと誤解してました。

植物から作る生薬ジャムーと酵素ジュース

2009-03-27 | 植物利用
ジャムー イコール媚薬、と、日本では思われている(と思う)。
ジャワ島ではジャムーは植物から作る生薬のジュースで、いろいろな効能のものが作られている。
夫婦円満のためにジャワ島ではみんなジャムーを飲んでいるんだ、と教えられたけど、それ以外に、風邪をひいたらそれ用のジャムーを飲んだりと、ジャワ島では普通に健康飲料として毎日のように飲まれている。

写真は、家々をたずね歩いてジャムーを売るおばさん。
体の不調を訴えると、その人に合ったのを選んでくれる。

日本で読んだ何かによれば、インドネシアのジャムーはもともと各家庭で作られていて、作り方は母から娘へと伝えられていくという。

大きな市場にも、写真のようなジャムー売りのおばさんがいて、市場のお店の人達がかわるがわる訪れて立ち飲みしていた。
その様子は、一昔前のオロナミンCとかリゲインのCMを思い出させた。
それ以外に、ジャムー屋さんがあり、そこでは粉末?なのか、パックに入って水に溶かして飲むタイプのがたくさん売られていた。

ジャムーはまずいと聞いていたので、見るだけにしていたが、飲んでみろ、としきりにすすめられ、おばさんが売っているジャムージュースを一口飲んでみたら、
酵素ジュースの味にそっくりだった。

これは酵素ジュースに違いないと確信した。
風邪のとき、大根にはちみつをかけてしみ出てくるジュースを飲むのも酵素ジュースの一種。
まさしく、体をよくするもの。

作り方は刻んだ野菜や果物と砂糖を同量にして、
野菜果物 砂糖 野菜果物 砂糖 野菜果物 砂糖……
と重ねて桶の中に漬けていく。
翌日から、それを手で混ぜる。
途中で酵素の素を混ぜる(このタイミングはよく覚えていないけど、薬局で買った「バイエム酵素」というのを使った)。
10日ぐらいで、完全に汁が出てくるので、ざるでこして、ジュースのところを水で薄めて飲む。

これが体に大変いい(らしい)。
ちょっとくせがあるので、しょうがとかレモンを加える。

ジャムーはなつかしい味だった。
そのうちまた、酵素ジュースつくってみよう。


で、今日のオチは、花粉症に効くジャムーがほしいということでした。
当面、祝島のびわの葉茶でがんばってみます。

※注)ジャムー イコール 酵素ジュース かどうかは知りません。

インドネシアの古布・アンティークバティック

2009-03-26 | 山里
ジャワ島はバティック(ろうけつ染めの布)をたくさん作っているところで、40~50年ぐらい前までは各家庭で作っていたというが、今は家庭ではほとんど作っていない。
バティックの古布は世界中の蒐集家が集めていて、今はジャワ島ではあまりいいものがなくなっているという。
各家庭のドアからドアへ訪ね歩いてバティックを買い付ける人がいる。それを仕入れる人がいる。さらにそれを仕入れる人……と何段階にもなっていて、最後に観光客向けのお店で売られたり、展示会で売られたりしている。

この写真は、家々に買い付けに行ってきた人が帰りにここの家に寄ったところ。


日本でも同様に、古い着物を買い付ける人がいて、それを骨董屋さんに卸しているのだと聞いた。

桜、寒い、花粉……

2009-03-26 | 山里
桜が咲いてきました。早いものは5分咲きです。

なのに、寒い!

それなのに、花粉すごい!
寒くなった昨晩からものすごくひどくなるというのはどういうことなんだろう。
咳も出て苦しい。
昨晩は眠れなかった……
今夜はそんなに苦しくありませんように。

山里に遊び、古布に出会う

2009-03-22 | 山里
白梅にけむる白い霧。
私の好きな景色を久しぶりに見た。

なんだか思いっきり山里を走り回り満喫した一日だった。
小原村、いや、今となっては豊田市の山里で古布の店に行くと、部屋一面、壁一面、古い着物が積んであった。
日本の古布の店を初めて見た。
ジョグジャカルタのアンティーク・バティックのバイヤーの家そっくりだった。
日本の古布の店を知る前に、外国のそういう店を知るってのは、ちょっとイカンのではないか。
日本について勉強不足であ~る!
と反省。

で、すごく面白かった。
ああいう着物たちは、ああいうところに集まるよりもっとたくさん、捨てられていっているのだろう。
それを思うと、ものすごい勢いで買い付けられていくジャワ島のバティックたちは、しあわせかもしれない。


18時半に帰ってきて、1本だけメールを入れようと思ってごそごそしていたら、もうこんな時間になってしまった。

山里の聞き書きのよろこび

2009-03-21 | 山里
『奥矢作・水源の里に生きる』という聞き書き集を発刊する。
秋からやってきたプロジェクトで作成したもの。原稿は、このプロジェクトの参加者の人達が書いてくれた。
私はコーディネート役である。

話をしてくれたおばあちゃんの一人に昨日電話した。
「私はうれしかったよ、話を聞いてもらえて。ありがとうね」
その人はしみじみと言った。
その言葉を聞いて、心から、このプロジェクトをやってきてよかったと思った。
うれしかった。
そうして、そういう言葉を私に対してかけてくれる思いやり、気配り、余裕のあるそのおばあちゃんがすばらしいと思った。

刊行記念会を中止したことをお詫びするために電話をしたのに
私は逆に励まされてしまった。

「本はくれなくてもいいよ、あんたたちも大変だろうから、私はお金を払って買うからね」とも
「こんなおばあちゃんは記念会には行けないから、気にしなくていいよ」とも。

今回のプロジェクトでは私自身が書く機会をもてなかったことが、私にとっては不満の残るところだったけれど、15人の都市の人と15人の山里の人を結び、話をする、それを聞いて書く、という行為がそこで行われることに対して、私が小さな力を貸すことができたことに、大きな喜びと満足を感じている。
もちろん地元の人たちや奥矢作森林塾の人たち、ほか大勢のみなさんにに大変なご協力をいただいたおかげでできたことある。
そして、私が作ったこの活動が、逆に私自身を励ましてくれている。

山里の聞き書きを書いたり、あるいは編集したりするとき、決して媚びたり脚色したり偽ったりするわけではないけれど、お話ししてくれた人がそれを読んでうれしく感じるように、誇りに思えるように(恥ずかしくなったり悲しくなったりしないように)書く、というのが私の中の一つの基準になっている。
とにかくその一心で進行しているといってもいい。

決していいことをしようなどという大それた気持ちはないけど、ただ山里に生きている人たちに喜んでほしいと思う。
自分がどうしてそれほどまでに強くそのことを思うのか、自分でもさっぱり分からない。
人にはそれぞれ、理由のない動機やよろこびがあるのだろうと思う。

私が山里を思う気持ちは、善意とか社会的良心とか、そういったものではなく、ただ好きだから、いとおしいから、それだけなのである。理由なんかなくてもいい。
NPOの代表者としては、それではいけないのだろうけど。
そうして、どうしてか知らないけれど、山里の美しい風景は、いつも私を元気付けてくれる。


写真は、奥矢作の渓谷。矢作川最上流部。

ばっちゃんに癒される ばっちゃんセラピー……?

2009-03-21 | 山里
仕事であちこちのおばあちゃんたちと話す機会があって、そんな話をみんな録音してきている。
とりまとめのために、その録音を聞いて、面白くて面白くて、笑ってばかりいる。
ばっちゃんは、明るく、元気で、力強い。ユーモアのセンスもある。みんなで力を合わせて何かしようというエネルギーに満ちている。
ばっちゃんたちの話す言葉のリズムと音楽的抑揚は心地よく、ファイルを捨てることも惜しいほどで
おかしな冗談を言って大声で笑っているところを聞くと、生きているのもそう悪くはないのかもしれないと思えてくる。
(ばっちゃんが生きてることではなく、私が生きてるということが)

日本はばっちゃんに支えられていると、本当に思う。
こんなばっちゃんたちは日本の中でいつまで生きているのだろう。
次世代のばっちゃんはあるのだろうか。

とにもかくにも、私は仕事のためにばっちゃん話の録音を聞き、いやされている。

写真は、中津川の五平餅。

水仙が咲いて、黄色でいっぱい

2009-03-21 | 山里
私に春を告げてくれる花は、白梅から始まっていろいろあるけれど、本当に春まっさかり、というシンボルの花は、水仙。
昔からこの花は、私の誕生日の4月1日には、必ず咲き始めていた。
4月1日というのは、私の中で春の中の春であり、
だからこの花が咲くと、疑うことのない春が来ていることになり
もはや後には引けない、といった春の切迫感さえかんじてしまう。

水仙と一緒にあるのはいつも、沈丁花。そしてシデコブシ。
シデコブシも2、3日前からちらほら目立ち始めた。
もうじきスミレもたくさん見つかるようになるだろう。

忙しくなってくる。

春のお彼岸

2009-03-21 | 山里
中津川の神坂という山間地に行ったら、コウヤミズキがもう咲いていてびっくり。恵那山の雪もごましお状態になってきた。
この1週間で、一気に、突然暖かくなった。コートを脱いで、その下のセーターも1枚脱がないと追いつかないぐらい暖かい。

あっというまに春の様相。明け方近くにはトラツグミがかぼそい声で啼いている。
気がついたら事務所のつくしはとっくの昔にほうけていた。
どうしてこんなに突然春が来るのだろう。

ウグイス到来 花粉到来

2009-03-03 | めぐる季節と自然
昨日の朝、ウグイスの声を聞いた。
もう3月だとは。右から見ても、左から見ても、紛れも春である。
チューリップの芽もつんつん出ている。
水仙の蕾も出ている。
あと半月もすると桜の便りが聞こえてくる。

私の花粉症は年々軽くなっている(気がしている)し
今年はもう大丈夫な人になったかと思っており
それなら祝島のびわの葉茶なども飲まずに突き進んでしまおうと
傲慢な態度をとっていたら
きのうの夜から猛烈に目がかゆくなり
今日は突然鼻がひどいことになってとても苦しい。
やっぱりそう簡単に花粉症は治るものではないのだと思う。
けれどもだんだん頭もボーっとして、くらくらしてきて
ひょっとしてひょっとすると風邪なのではないかと思い始めてきた。
風邪など引いている場合ではな~~い!

文化的絶滅危惧種 地歌舞伎の師匠

2009-03-02 | 山里
かねてから親交のある地歌舞伎の吉田茂美さんが、昨日、中村津多七を襲名した。
私の知っている茂美さんは、地歌舞伎や文楽のために東奔西走する人であったが、「師匠」だと思って見れば、いつの間にかしっかり師匠になっている。
茂美さんが、中村津多若と名乗ったのは実に19歳のときであり、それ以来地歌舞伎に人生のすべてを捧げてきたが、見渡してみれば、茂美さんの後に続くような人は誰もおらず(松本団升さんには後継者があるが)、茂美さんの師匠の中村高女さんの後を継ぐ女師匠もいない。

茂美さんの指導する東濃歌舞伎中津川保存会の芸はかなり上手で、それは役者の多さゆえでもあると思うが、芝居のレベルが上がるから、ますます役者達も張り切り、参加者も増えるのだろう。
けれども茂美さんのような変な人(かぶきもの)はいない(当然である)。

考えてみれば、中津川保存会の役者達も徐々に高齢化してきているなぁ。
40歳以上がほとんどで、20代、30代が見当たらない。
その下の子供はいっぱいいる。今の役者の二世たちである。

それにしても、茂美さんは、師匠をやり、役者をやり、浄瑠璃をやり、文楽をやり、絵を描き、字を書き、顔師もやり、かつらもつくり、小道具をつくり、指導もする。
そこまでやるか?って感じな人である。

昨日は菅原伝授手習鑑 寺子屋 を観た。
芝居がうまかったので、2時間があっという間に過ぎた。
やっとこの話のスジが大体分かるようになった。
いまだに梅と桜と松が結局どういう人なのかはサッパリわからない。
杉は他人なのか…? なんで?
分かりにくすぎ。

でもって、こういう話はキライ。残酷すぎる。
昔の話って古今東西どうして残酷なのが多いのだろう。

スラウェシのカルンパン、飛騨の山之村

2009-03-01 | 山里
スラウェシのカルンパン、飛騨の山之村、
言いたいのは、どちらも同じように隔離された山里だということ。
山を越えると、ひょっこり現れる村。
昔はこんな道なかっただろう、と思えば、
それがまるで独立国のような桃源郷であることが想像できる。

山之村には、これぞばーちゃんの中のばーちゃん、という
ばーちゃん力全開の、超カワイイばーちゃんが棲んでいた!
おおぉ……、と感無量でありました。
いまだこんなカワイイばあちゃんが生存しているなんて。

そのばーちゃんたちの話しているところを聞いていると
本当に音楽のよう。
抑揚があって、やわらかくて、丸くて、ふんわりしていて
本当に音楽のよう。

こういう言葉は失われていく。テレビのせいで。確実に。

ばーちゃんたちは、娘時代に近くの村(神岡)に三波春夫がやってきたときのことを話していた。
すごくいい男だったと。い~い声でねぇと。
だって、その頃はテレビなんかないから、せいぜいポスターから想像するしかなかっただろう。
その見たこともないようないい男は、娘達にどんなに感動を与えたことだろう。
今みたいにテレビや雑誌でいい男を見慣れてないからね。

いろんなことがオドロキだったのでしょう。

きっと今の私たちには、いくら想像しても想像しきれない世界なのだと思う。
次世代のばーちゃんは、どんなばーちゃんなんだろう(私のことだが)。
今のばーちゃんたちと同じぐらい可愛く面白いばーちゃんになれるのだろうか。
というか、
そういうばーちゃんを養成しなきゃいけない!