劇団夢桟敷 ☆2018.6〜山南ノート5

熊本アングラ万華鏡〜演劇とプライベートの徒然

週刊月曜日 第34号 2018年ブラジル公演

2023-02-06 11:48:58 | 2023年
劇団夢桟敷「週刊月曜日」
〈第34号 2023.2.6発行〉
https://yumesajiki.jimdofree.com/
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復刻👉あれから5年目
「南米道中膝栗毛(劇団夢桟敷)」
ブラジル旅公演・報告書メモより
2018.10.3〜10.13版

メモ(1)-1
南米ブラジル道中膝栗毛は16名の一座「万華鏡〜百年物語」は空を飛んでの旅日記。
時は2018年10月3日から13日。
ブラジル移民110年、プロミッソン入植100年の時間旅行でもある。

メモ(1)-2
あるいは漂流記か?
時空を旅することは夢物語か?

「お金も無いのにあんな遠いところまで16名もの大所帯で行って帰れるのかしら」と笑っている者はいた。
10年ぶりのジプシーである。
2008年の時はブラジル移民100年事業として国も県も国際交流企画として取り組んでいた。その波に乗って実現できたのは一因だったろう。
今度はその波は大きくはなかった。
ブラジルのリオオリンピックの波の引潮でもあった。
日本では2020年の東京オリンピックに浮かれつつある時期でもある。
熊本では震度7の大地震の2年後である。

メモ(1)-3
何故、ブラジルなの?
何故、百年前の移民なのか?
そこを知りたい者は数知れずいた。
取り掛かりは個人的な人間関係(国際ボランティアの活動、故 榊定信先生とフェアトレードの清田和之氏の呼びかけ)だった。
しかし、そこから出発して移民史を知れば知るほど心が大きく揺れたことも確かだった。

ブラジル移民の父 上塚周平氏の肥後もっこすの魅力に引き込まれた。
それを取り巻く人間たち。
名もなき多くの群衆にも気づかされた。
棄民と呼ばれる差別があったことも知る。

「さぁ行こう 一家をあげて南米へ。」

植民地政策に競い合う世界中の渦も巻き起こっていた。
時代に翻弄される人間たちのドラマである。

幻想と現実の狭間で生きる人間ドラマは万華鏡をぐるぐる回しながら覗く不可思議な世界に迷い込む。

メモ(1)-4

登場人物

中川トミ
時間のパイロット=上塚ミチヒコ
上塚周平
ユミ
キクチ
少女トミ



渡航するための偽装家族
名もなき女
名もなき男
万華鏡売り
時をかけるマボロシの女
城南火の君太鼓
ナンバー1
ナンバー2
歌のお嬢
骨まで愛しての男

(注)
物語は劇が終わって鬼ごっこを始めた。
現実と虚構の間で見えてくる日本人ブラジル移民劇。

メモ(1)-5

中川トミさん死去=最後の笠戸丸移民、100歳で

ニッケイ新聞2006年12月29日 掲載より。
「第一回笠戸丸移民の中で唯一の生存者だった中川トミさんが、二〇〇六年十月十一日、老衰のためロンドリーナで死去。NHKなどの大手マスコミはじめ各地方紙、伯字紙など日伯両国で多数のメディアが扱うなど大きな反響を呼び、コロニア中に大きな衝撃を与えた。享年百歳だった。
 一九〇六年十月六日に現在の熊本県熊本市で出生。一九〇八年六月十八日、当時一歳八カ月だったトミさんは、第一回ブラジル日本移民船「笠戸丸」で両親と二人の姉とともに着伯した。
 日本政府からは勲六等瑞宝章を受章し、二〇〇四年にはパラナ州名誉州民。〇六年六月には、かつて暮らしたプロミッソン市議会から名誉市民証を受けている。ロンドリーナで営まれた告別式には三百人以上が弔問に訪れた。
 ロンドリーナ市の百周年組織委員会では、記念事業として市内セントロに「トミ・ナカガワ広場」を建設する計画。〇八年の完成を予定している。」

劇は中川トミさんの記憶として夢の中で流れる。
ここに亡くなられた人々が蘇る装置として劇を仕掛けた。


時系列による旅日記(2)メモ
2018年10月3日〜10月13日
現地時間と架空時間
タイムトラベル

メモ(2)
10月3日(水)日本時間-1

10/3(水)-リアル①

睡眠不足ながら、シャワーを浴びるとシャキッと目が覚めた。
座長と荷物を車に積み込み、一路熊本空港へ走る。
劇団の道具で車はギチギチであり、道具の隙間に座長は押し込まれた。
後部から運転席助手席まで占領された舞台美術で左側バックミラーが見えない。
途中、渋滞に巻き込まれる。
30分で空港へ着く筈が1時間かかった。
集合時間8時50分には間に合った。
ところが第一のトラブル発生。
舞台美術が「熊本空港から羽田空港まで運べない。」と言われる。
数日前から座長は旅行代理店と相談しながら手を打っていたのだが、ここに来てそんなことを言われても困る。
超過荷物として話はついていると思っていたのに、「アメリカン航空からの連絡は頂いていない。」と言われた。
それならアメリカン航空に問い合わせれば良いではないか。
JALは気が利かない。そういう発想にはならないのだろうか?
「運べないと国際問題になる。」
そう叫んだが、みんなから押さえつけられてしまった。
事務局長(通称、お父さん)は「道具を半分に切って積み込めば良い。」と思っていたようではあるが、そんな融通は効かない。
結局、JALとアメリカン航空との連絡がついて事無く積み込むことができた。

10/3(水)-If シュール①

睡眠不足の祟りか?
舞台美術が熊本空港から羽田空港へ運べないと言われたことにチンベル男(演出 66才)は切れた。
低血圧が切れると血糖値が下がり貧血症状で倒れてしまう。心拍数が減り酸欠に陥入る。…死んだ。
そこへ全財産をつぎ込んできたという高血圧の爺(74才)が頭の血管が切れて脳内出血で倒れる。…死んだ。

事故か事件か?

死に物狂いの修羅場と化す一場。
熊本空港内で殺人事件とニュース速報で流れる。
こういう場合、フェイクニュースとしてメディアはアメリカン航空とJALの「言った、言わない。」の国際問題になるケースもある。
日米の関係悪化がハジマル。

移民船笠戸丸の第一便1908年6月18日に神戸港を出港した船上でも同じようなことが起こったらしい。
未来からやって来たトミさんとタイムトラベルのパイロット ミチヒコさんが時間を止めてしまう。
おお、なんてややっこしいことになってしまったのだ!

「舞台美術に申し訳ない。」

意を決してパイロットは時間を早送りして羽田空港到着時間に進める。
その隙にトミはJALに舞台美術を運ぶ。

「もう一回!」
とパイロットは過去に時間を戻し、集合時間の8:50に場面転換する。
パイロットはトミに言った。
「万華鏡を覗いてぐるぐる回しながら、こんな夢を見た!と唱えると時間空間が自由自在に移動することができます。」

倒れたチンベル男と爺は何もなかったかのように目を覚ました。
事故でも事件でもなくなってしまった。

一座は羽田空港に着くや、
奇妙奇天烈の「アッパラパラッパラ」の歌とオドリで旅の始まりを祝したのである。

絶対に二流にはなれない三流独自の幕開けである。
二流は一流を目指すが、三流は我が道を行き続けるのである。

移民の父 上塚周平氏は泣いていた。
肥後もっこすはこんな時、「酒だ!」と要求する。
肥後の猛婦は「酒に溺れるな!」と諭す。
上塚周平氏は「おなごは強かなー」と微笑む。

10/3-リアル②

何事もなかったかのような顔をして熊本空港から羽田空港へ飛び立った一座16名。
羽田空港に着くと坂上淳一氏が見送りに来てくれていた。自己紹介もそこそこにマイクロバスに乗り込み陸路、成田空港に走る。
実は羽田空港ー成田空港の陸路での移動でも舞台美術をどのように運ぶかで問題になっていた。リムジンバスや電車では無理。
音響担当の古閑氏の案でマイクロバスの手配ができた。しかも、車は後部扉開閉式でなければ道具は積み込めない。
道具も人間も積み込み、成田空港に着くとアルファーインテル 南米交流会(旅行代理店)の方が待ち受けてくれていた。ブラジル行きはこの代理店でいつも特別に!お世話になっている。
注:「特別に!」については報告書パンフレット広告欄にて謝礼掲載させて頂くこととします。

成田空港では手際良く搭乗手続きを完了した。ドルへの換金、通信手段の手続きも完了する。
余裕で生ビールで出発の乾杯をした。

10/3(水)18:35 成田空港発
アメリカ経由でダラス空港へ。
ダラス空港は
10/3(水)16:25着である。
これは現地時間のトリックであり、日付変更線を超えるため過去になってしまう。
実際は11時間50分かかっている。
乗り換え時間も含めて、日本(成田)〜ブラジルサンパウロ空港までは30時間かかる。

10/3(水)16:25 乗り換えダラス空港にて
(現地時間表記のため時間が過去になる。)
アメリカ合衆国入国手続きで1人引っかかってしまった。
いくら待っても集合場所に来ない。…胸騒ぎがあった。
途中で倒れてしまったのではないか、と心配した。
そうではなく、放射線の反応があったようで別室に連行されていた。
え?放射線の検査もされていたのか?
基準値を上回っていたらしい。
病院で放射線を浴びている人は気をつけるべし。病院で治療証明書を発行してもらっていたら問題なく通過できていたと、後日わかった。
こんなことがあって初めて知った。
ダラス空港を19:25発までの3時間はドキドキハラハラだった。

長い時間のエコノミークラス、飛行機の中の過ごし方。
①寝るに限る。
ところがエコノミークラスだと前席との幅が窮屈であり、長い足が窮屈である。短足は都合良し。
②ビールなどのアルコール
呑むとトイレが近くなる。トイレ待ちに行列ができているので注意。
③座席にモニター有り
寝ようと思えば、退屈な映画を見ると眠れる。ゲームは眠れなくなるので注意。
④椅子に座って寝ることに慣れると良い。
身体が硬いと疲れ易い。日頃より柔軟体操のススメ。
⑤どうしても眠れない場合は浅い呼吸に切り替える。
脳が酸欠にになると魑魅魍魎となる。呼吸を止めると死ぬこともあるので注意。

メモ(3) ブラジル時間
10月4日(木) 7:35着
サンパウロ空港→
ブラジル熊本県人会→
リベルダーデ(東洋人街)萬里ホテル→
ニッケイ新聞社訪問→
夜のスーパーへ買い出し

リアル① サンパウロ空港(グアルーリョス国際空港)

早朝にサンパウロ空港に着いた。
成田空港から35時間かかっており、飛行機の中はいつも夜の感覚で過ごす。
長い夜から朝を迎えると喜びが込み上がる。
それにしても、ブラジル移民船「笠戸丸」1908年4月28に神戸港を出港してブラジルサントス港に着いたのが6月18日。52日間の過酷な旅だったのだろう。
上陸の喜びは比べものにならない。

空港に着くや道具の受け取り、ドルからレアルへの両替、コピー事務などを手分けして急ぐ。
お迎えにキヨシさんから送り込んでくれたミチヨさんが待ってくれていた。
歓迎のハグで、ここはブラジルなんだと気持ちが大きくなる。
豪華な貸切バスも待っていた。1階が運転席と道具を積みこめるスペース、2Fがゆったりとした座席になっている。
運転手にボンジアー!と大声で挨拶すると「おはようございます。」と日本語で応えてくれた。

(注 )通称、サンパウロ空港と言うが、
正確には…
グアルーリョス国際空港
と言う。

リアル② ブラジル熊本県人会

ここのホールが10/6(土)15:00開演の会場である。
7/20-7/27のプロミッソン100周年祭に出席するために座長とブラジルに渡航した際にニッケイ新聞社の高木ラウル社長に話をつけて頂いた。
9年前のサンパウロ公演はリベルダーデの文化福祉会館だった。打ち上げ交流会を県人会の会場で盛大に行われて大変お世話になったとこる。
貸切バスで到着し、舞台関係の道具を降ろす。
庭にコーヒーの木を見つけたが、誰も気づかず。秘密にしておこうと宿泊所である萬里ホテルへ急いだ。

リアル③ リベルダーデ萬里ホテル

サンパウロ市リベルダーデは観光地となっている。元は日本人街とも呼ばれていたが、台湾・中国や朝鮮半島からの移住者も多く、今は東洋人街と呼ばれるようになった。
ある程度、日本語が通用する。店の人が日本人だとわかると日本語で話しかけてくれる。
店の人は日系人だと思いきや、大体、中国系である。ブラジルでは東アジア(モンゴリアン)の国の区別は関係ないように感じた。
宿泊所は前回同様、萬里ホテル。日本語が通じると思っていたのだったが、英語かポルトガル語しか通じなかった。
「ま、いいか。」これが口癖になる。国が変われば性格も変わる。
ハードな空の旅だったが、ここで一休みである。
自由時間は移民資料館とニッケイ新聞社訪問に分かれた。

リアル④ ニッケイ新聞社

12名は移民資料館へ。残り4名はニッケイ新聞社へ訪問となった。この4名は2009年2月のブラジル公演経験者である。
座長、咲希、宮下遥と私の4人は約束の時間16時ギリギリだった。実はホテルから新聞社へ行く道に迷っていたのだった。
座長と新聞社の山根さんとはこの間、熊本県人会ホールと公演宣伝のメールでの打ち合わせで大変骨を折ってきた。山根さんは県人会との間に立ち、会場使用については細かいことでは困惑されていた。
山根さんとは9年ぶりの再会である。
編集長が直接、取材に応じてくれた。7月のプロミッソン入植100年祭で取材してくれた記者さんも出迎えてくれた。
18時が原稿締め切り時間だったが、取材はギリギリの時間まで応じてくれた。
セーフ!…時間との戦いだった。
劇のテーマであるブラジル移民の話は尽きない。

後から聞いた話だと移民資料館組も近いのに道に迷ったと聞いた。
この日の夜はホテルに帰る時間を決めてグループ毎に食事やスーパー買い出しに分かれて自由行動をとる。
現地時間10時、缶ビールを呑んだらバタンキューだった。
ベッドで寝ると時差ボケは解消された。
明日は朝から会場仕込みである。

メモ(4) ブラジル熊本県人会ホール仕込み
10月5日(金)

10:00- ホテルからタクシー4台に分乗して熊本県人会乗り込み舞台仕込みである。
舞台美術設置、照明、音響。
9月3日に熊本公演を経験しており、スムーズに流れると思っていたが、ところ変われば段取りも変わる。予想通り、舞台設置は手作りとなった。
天井の吊りバトン、音響や照明の設備に不足があることはわかっていたから簡易ではあるが持ち込んでいた。
舞台監督不在。作業の流れはバラバラに進行する。
こういう場合、演劇の裏方経験の指示がものを言って従ってもらうしかない。動く者と全体を見計らう者との関係が出てくる。それが自然の流れになる。
稽古の段階から構想が理解できていれば全体のバランスは良くなる。現場では不備を手治すために黙々と注意を図る。
小劇場の特徴だ。協業である。日本の伝統芸能もそうであったように役者も汗を流す。そうすることで仕事を覚えてきたのだった。
身体の不調は仕方ないにしても、驚くほどみんな動いた。火事場の馬鹿力だろうか?
昼食は県人会の方からも振る舞われた。感謝である。
午後からは作業も余裕が出来て県人会の方との会話もできるようになった。
熊本県人会は60周年になる。
次の大きなイベントは11月の熊本からのブラジルツアーを受け入れる準備に追われていた。
私たちもその日程に乗るつもりだったのだが、日程の発表が遅れたために合わせることができなかった。
ニワトリが先か、タマゴが先か。…公演計画は7月の段階で変更が効かないところまで進んでいたのだった。
夜。
公演前夜祭のつもりで食事会をするつもりだったが、二手に分かれた。
飛び込みでの店は一挙に16名は難しい。…ホテル内のレストランは穴場だった。
私たちの組は大いにサービスされた。オーナーが日系人だったため喜ばれた。
ホテルのロビーに行くと昨日に取材されたニッケイ新聞の記事が掲載されているとホテル社長から手渡された。

メモ(5) 熊本県人会ホール公演
10月6日(土)11:30 ゲネプロ
14:00開場
15:00開演
16:30 終演
19:00 パーティー

起床すると6時前だった。一度眼が覚めると二度寝ができない性分。萬里ホテルのロビーでニッケイ新聞、サンパウロ新聞を読む。日本語で書かれているから安心する。
私によく似た白髪老人がテーブルの前に座って「ボンジアー」と挨拶してくれた。大きな声で返すと、カウンターから「ブラザー?」と問い返される。ブラジル人に思われたのだろうか?まんざらでもない。
7:00からの朝食はフルーツとコーヒーで大満足する。昨日、不調だった事務局長(通称、お父さん)は回復したように見える。
よし!…16人、異常なし。

タクシーで会場に乗り込むとコーヒーでもてなしてくれた。
舞台仕込みの点検中、熊本からの応援メッセージがメールで入っていた。中には「どうだった?」との問い合わせもある。日本時間では12時間早いから公演が終わったものだと勘違いしていた。
ゲネプロ開始。もう細かいことはどうでも良い。セリフやアクション、表情、気持ちは全部役者のものだ。この段階では信頼するしかない。
開演の2時間前よりお客さんが集まり始めた。県人会の方が客席を増やそう、と動いてくれた。
ニッケイ新聞社のスタッフさん達が受付の体制に入った。出演者は楽屋に入る。
15:00開演。
満席だった。百人も来てくれれば大成功と思っていたのだが倍は超えていた。
ニッケイ新聞社と熊本県人会の方々に感謝致します。
反応は上々。進行途中で拍手や笑い、お涙まで頂戴できた。
ブラジル移民の劇は間違いなくお客様自分たちのものだという熱いものを感じる。
主演、中川トミさんの親戚の方も来られていた。
ニッケイ新聞社の高木ラウル社長は病院での予定を早めに変更して駆けつけてくれる。
貸切バスたホテル予約の手配などで骨を折ってくれた安永清さん夫妻も来れないと聞いていたのだが、無理を押して来てくれていた。
民謡グループの先生の顔も見えた。あの人もこの人も!…生の舞台は顔が見えてくるから格別なものがある。
9年前にも見たよ、と言ってくれた方々もいた。
国際交流基金ブラジル支部の方も来られていた。日本にも報告してくれるだろう。
県人会青年部の方々が片付けなどを手伝ってくれた。
ブラジル熊本県人会は今年で創立60周年。
11月に入ると熊本県からも行政、日伯協会、ツアー申し込み者の方々が祝典に来ることになっている。

夜、高木ラウル社長が近くの日系人が経営するアマゾンの魚料理で一席設けてくれた。
超一級を食し、ピンガで乾杯する。
それぞれ、ニッケイ新聞社、県人会の方々との会話も弾み、若い連中はサンパウロでのカラオケや居酒屋に青年部と楽しんだ。
私たち年寄りグループはホテルに戻り、部屋呑み、風呂、でフェードアウトをする。

メモ(6) プロミッソン市へ移動
10月7日(日)

この日、ブラジルでは大統領選挙の日だった。選挙は義務化されていることを現地で知る。
右派の政党から立候補している候補者の躍進が話題になっていた。イメージとして、南米は反米-貧困層の立場に立った政治が優勢だと思い込んでいたのだったが、富裕層の経済優先-黒人差別の歴史的に逆戻りしているのだろうか?
世界はナショナリズムに大きく傾いていることを感じる。選挙の結果が気になる。

午前中、熊本県人会ホールの道具を貸切バスに積み込み、サンパウロ市から500km離れたプロミッソン市に移動する。
安永Kodoさんたちがプロミッソン市より迎えに来てくれていた。いつもニコニコ笑顔のNakasatoさんも一緒である。
劇の大半はプロミッソンが場面である。
ブラジル移民の父 上塚周平氏をリーダーとする移民のグループがプロミッソン市に入植して100年になる。ジャングルだった土地を開拓して、当時は上塚周平第一植民地と呼ばれていた。
植民地とは?侵略か、貢献か?…南米へ移民した歴史観では侵略の意味合いはない。それは軍隊が入らなかったことに起因している。アジアと南米の違いを感じる。
太平洋戦争では日本人はスパイ扱いされて投獄された人々もいることも学ぶ。ブラジルが連合国側だったこともあり、日本人は敵国だったからだ。
戦後、日本は敗戦したにも関わらず、それを信じられない勝ち組のグループがいた。日系社会では勝ち組と負け組に二分化されて激しい争いもあった。
歴史は影の部分もある。光の当たる明るい道ばかりではないことも知る。

プロミッソンへ向かう道中、雲行きが怪しくなって来た。
雷雨だ。
ブラジルでは日本のような四季はない。赤道に近いために雨季と乾季はある。
10月は日本では秋、ブラジルでは雨季だった。激しいスコールと暑い夏に向かっていた。
南半球第一の大都市、サンパウロ市から日本人移民ルーツの町、プロミッソン市は小さな町だが移民の歴史では重要なポイントにあたる。

到着したのは夜の8時を回っていた。
長老 安永忠邦さん(97才)さんはじめ大勢のファミリーが待ってくれていた。
今は亡き、大勢の移民一世の人々もいるように感じられた。
時を超えた空気感に安永邸ガーデンが包まれた。
ピンガとシュラスコでサウージ!乾杯した。
これより3泊4日、16名、安永邸でお世話になります。

メモ(7) プロミッソン市劇場仕込み
10月8日(月)

朝から大雨である。
お世話になっている広い安永ガーデンは屋根付きで、雨にも負けない。
リンス西本願寺で突いたお餅を食す。因みに、安永Kazunoriさんはお寺の総代だった。
味噌汁や漬け物、まるでここは日本だ。
16名は大満足。
今度、ブラジルに来ることがあれば、このガーデンで演劇公演をしたいと思った。野外劇場としては有効な環境ではないか。舞台美術は現地で作られる。理想的な空間である。孫たちも連れて来たい。

劇場に入る前に上塚周平氏のお墓に参る予定だったが、雨振りで明日の公演日に変更する。
公演前にご挨拶したい。
プロミッソン市のマイクロバスで劇場に走る。
劇場では白髪のイタリア系スタッフさんが待ち受けてくれていた。私と兄弟のように似ている。9年前もお世話になった人だ。言葉は通じなくても気心は通じるものだ。
設備のチェックをすると照明関係に不具合を知る。修正や電気系統の配線に時間がかかりそうなので持ち込み機材を活用することに変更した。

プロミッソン市は移民が到着したサントス港から鉄道がつながっていた。コーヒーをヨーロッパに輸出する重要な路線だった。
駅舎は今、プロミッソン市議会になっている。

16名はそれぞれの持ち場で黙々と作業に取り掛かっていた。
プロミッソン移植100年祭実行委員長との打ち合わせもあった。明日の公演ではご挨拶をして頂く。物語概略をポルトガル語でおこなうことにもなった。細かい打ち合わせ中に音響テストで音がうるさくて怒った。…喧嘩するほど仲が良い!その証拠に座長と演出の私は演劇の現場では口喧嘩が勃発する。本気の証拠である。同志だからできることだ。
城南火の君太鼓の住本さん、金丸さんは流石にイベント慣れしていて大変助かる。
舞台美術の効果も進化して来た。
Kodoさん、いきなりの出演依頼に承諾してくれて全員で拍手喝采である。
大半の舞台仕込みが終わって安永ガーデンに戻ると夜だった。
夜の食事会は公演前の前夜祭のようになった。
お父さん 安永忠邦さん(97才)の笑顔を見るたびに涙がこぼれそうになる。

メモ(8) プロミッソン市劇場 公演
10月9日(火) 午前 上塚周平お墓参り
11:00-14:00 舞台仕込み
15:00-16:30 ゲネプロ
18:00 開場
19:30 開演
21:00 終演
22:30 撤収
23:00-打ち上げピザパーティー

墓前で手を合わせると声が聞こえたように思えた。
「よく来てくれたな。まぁ、一杯飲め。
甥のミチヒコも喜んでいる。さぁ、一杯飲め。
プロミッソン入植100年か?
昨日のことのように思える。」

公演前の午前中にお墓参りができた。
入魂できた。
上塚周平氏の墓には叔父を頼ってブラジルにやって来た上塚ミチヒコさんの骨も昨年になって埋められたと聞いた。
若くして亡くなったミチヒコさんの死で上塚周平氏はどんなに悲しんだことだろうか。
たくさんの死を見て、どんなに辛かったことだろうか。
思うと悲しみは計り知れない。

ゲネプロではプロミッソン受け入れで大変なご苦労をして頂いたKodoさんが舞台に立つことになった。
プロミッソン入植でお祝いの場面「のど自慢大会」の一場で客席より舞台に上げられるの図。
歌は「骨まで愛して」。…「いやぁ、ぼくは骨まで愛せないよ。」と言いながら劇に巻き込まられる図になった。
この図は本番でも大受け。ぶっつけ本番は面白い。

プロミッソンには上塚周平ボーイスカウトがある。団体で来てくれた。
遠くから貸切バスで来る予定がパンクしてしまい、開演は19:00の予定だったが30分遅らせた。
会場が満席になっていた。一番、胸をなでおろしていたのは安永ファミリーの皆さんだった。呼びかけやご来場頂くためにどんなに苦労をさせてしまったと思うと心苦しくなる。
昼食も会場で食べられるように手作りで用意されていた。

オープニングではプロミッソン入植100年祭実行委員長のご挨拶から始まり、Kazunoriさんのポルトガル語による劇のあらましで雰囲気が高まった。間髪入れず、城南火の君太鼓が客席後ろより登場する。
流れはお祭りの場からタイムスリップしながらブラジル移民の百年に遡って行く。
山あり谷あり、人間たちの喜怒哀楽が送られる。パワーだ。
涙あり笑いあり。プロミッソンのお客さんは私たちよりもブラジル移民の歴史について身近である。当然、出演者、スタッフとお客さんは劇場で一体化する。
それは本番が始まってみないとわからないことだが、終わってみれば拍手の大きさと握手やハグ、ロビーでの記念撮影が続く光景で感じとられた。

「言葉が通じなくてもわかったよ。」と言われる。こんな嬉しいお褒めの言葉は今までに経験したことはなかった。
いつからか、演劇は「言葉(台詞)の時代」と言われるようになって久しい。1980年代半ばの頃からだったか?
ふむ?演劇は文学か?…総合芸術か?ふむふむ?…国境を超えてわかることがある。
感情である。表情である。可視 不可視の不思議。簡単に言うと面白いかどうか。
人間、関係の在り方が演劇になる。時代と関わっている。場所と関わる。
ウンヌンカンヌンは念仏だ。

舞台の片付けが終わって安永ガーデンに到着したのは23:00を回っていた。
ピザとビールで夜遅くまで打ち上げになった。
雨はあがっていた。
この一杯で寝よう!と思いつつ、だらしなくビールを5杯飲んで脱力した。
誰からも咎められないこともあるものだ。
それぞれが安永ファミリーの皆さんと和気あいあいとなっていることが嬉しい。

メモ(9) 10月10日 朝

Kodoさんの血圧が190を超えて病院に行ったと聞かされて心配だった。
気苦労と「骨まで愛して」で舞台にあげてしまったことが原因か?責任を感じた。
入院となるとお見舞いに行かなければ!と思っているところにKodoさんが安永ガーデンにやって来た。
「薬を飲んだら平常になったよ。」と笑っていたので一安心した。
Kazunoriさんより近くの旧 本家を案内するというので、みんなでついて行く。
ヤシやマンゴー、ブツブツの実などフルーツが巨木に群生していた。空気に甘みが漂う中を歩く。
旧 本家に着くと、60年前まではこの家に50人くらいの大家族として暮らしていたと聞いた。…「ここで私は生まれた。」と言って、その笑顔が玉ねぎのように見えた。
レンガとコンクリートと赤土でできたお城のような家だった。
歩いていたら昨夜のアルコールは汗で流れた。

メモ(10) 10月10日 昼

プロミッソン市商店街に案内された。いかにもブラジルの古民家か下町風情。歴史を感じる街並み。
日系人が経営するフルーツの店に立ち寄るとスイカを切って振舞ってくれた。喉が渇いていたので助かった。
案内役のKazunoriさんからアイスクリーム店でみんなに振舞ってくれる。道にテーブルを置いてあり、通り過ぎる街の人をじっくり眺めていると、この街の女性たちのお尻の大きいことには驚かされた。眺めているだけで若返り、心の底から元気になる。
ジジイにはこの街は極楽ゴクラク。ずっと眺めて過ごしたくなった。
妄想が膨らむ。官能に溺れそうになる。

福岡から移民して来た人が教会を作ったということで案内してもらった。
歌姫こと知子さんが教会で歌うと声が響き渡った。
アーメンと十字を切って雑念を振り払う。…無駄な抵抗か。

メモ(11) 10月10日 昼
上塚周平公園

劇のテーマであった上塚周平氏は「移民の父」(熊本市南区城南町出身)と呼ばれていた方で、1908年の最初の移民船「笠戸丸」に輸送監督兼会社代理人ということで、移民を引き連れてきた。
プロミッソン市に眠る氏を記念した公園がある。ここは入植記念公園でもあり、道路はウエツカストリートとも呼ばれる。道路はブラジル国花イッペイで囲まれている。
過日7月22日は盛大に「プロミッソン入植100年祭」が朝から夜遅くまで催され延べ2万人がお祝いに集まった。私と座長は1日中この祭を楽しんだ所だった。日本の祭典にも思えた。
みんなをここに案内してくれた。

夕ざれば 樹かげに泣いて 珈琲(コーヒー)もぎ
夜逃げせし 移民思ふや 枯野星(かれのほし)

1918年に建てられた記念塔には上塚周平氏の俳句が刻まれている。
劇中でもこの句を詠んだ。…苦難の詠だ。
墓守をされている安永忠邦さんファミリーは日本人がプロミッソンを訪問すると必ずここを案内している。

メモ(12) 10月10日 夜
Confraternização do Centenário da Colonização Japonesa em Promissao com a presença da Cia Teatral Yumesajiki do Japão.
劇団夢桟敷とプロミッソン入植100年祭 交流会
Udon de Confraternização.

プロミッソン ニッケイ会館にて19:00より交流パーティーを催してくれる。
プロミッソン入植100年祭実行委員会のこれまでの活動の慰労会の意味もあった。
100人を超える多くの方々が集う。

実行委員長のご挨拶、劇団を代表して座長(坂本真里)のお礼の言葉に続く。
司会進行は安永Kazunori氏。いかにも場慣れしていて気持ちよく流れる。
ステージでは7月の100年祭の模様が映像で流れていた。
私たちのメンバーもこんなに大々的な祭だったと驚きをもって目を見張って眺めていた。
こちらより、お礼を込めて城南火の君太鼓が景気良く太鼓を打ち鳴らし、会場を沸かせた。
和太鼓はブラジル全土で普及されており、とりわけ日系社会では身近に感じると言う。
缶ビールが次々と運ばれて調子に乗って2缶と思っていたのだが、あっという間に5缶ほどいってしまった。…記念撮影は何通りも繰り返されて写真に撮られた。
メインの食事は「うどん」である。ブラジルでは「うどんパーティー」が受けるとも聞く。
玉子焼きとかき揚げが出汁の効いたうどんに高級感もあった。
片山知子の歌あり、秋山君のお茶会あり…。和やかに流れる。
途中よりプロミッソン市長が出席されてご挨拶。
気がついてヒヤリと汗が流れた。女性がポルトガル語で話しかけて来た時、言葉が通じなかったので KAWAII、ボンジアー、KAWAII、サウージ、を連発しながらハグをしたのだが、市長の奥さまだった。
くるくるパワーだった。反省。
みんなそれぞれ和気藹々と楽しんでいた。自分たち仲間内で固まらず、よく動き話を交わしていた。

ブラジル移民の歴史は続いている。プロミッソンで移植されて100年、5世・6世までいる時代になったという。
まだまだ移民の歴史を知らないところもあり、追えば追うほど幅は広がるばかり。
一つ一つがドラマチックであり、一人ひとりにも個別な歴史を感じる。時間を区切ると日系人同士の対立も生じた。それは戦争時代が人を不幸にする現れでもある。
淡々と問題なく日系社会が進んできたのでもないだろう。
ルーツ日本も血が混ざり、日本語が話せない若い世代もいる。
長い目で見れば多民族国家は未来の人間たちにとって、人間たちを平和に和解する大きな波を送り出してくれるだろう、と思うのは楽観か?
グローバリズム、ナショナリズムの言葉だけが先行しているようにも思い、大切なことは人間同士。顔が見える交流こそだと思うようになった。

たかが演劇である。
ここには涙と笑い、苦しみと喜び、有機的な感動で結びつく力はある。
悲観的な予感は無機質な情報だけでは見えないこともある。
言葉の壁は音や絵で、人の表情や仕草でも伝えられることだと実感した。
交流は続けたい。改めて、考え深くなることを経験したものだと思った。
はい、行動です。持続する力です。人間同士の関係です。

安永ガーデンに戻り、この大家族の偉大さも深く心に刻まれた。
間違いなく日伯交流の拠点になっているのです。
一つの大きなファミリーから大きな波紋が広がる。プロミッソンの小さな町から大きな波を受けた。
日本でも移民の歴史、上塚周平氏の功績、劇、歌、音、美術、日本の大衆文化、ボランティア、市民運動、農業、経済、フェアトレード、…政治が世界中の共存に向かうことを望むばかり。
大きなことを願いつつ、いよいよ明日10/11に日本へ、熊本に帰る日になった。

メモ(13) 10月11日
プロミッソン→サンパウロ空港(グアルーリョス国際空港)

あっという間にブラジル公演は終了する。名残惜しい。
そうだ!こころと足跡を忘れて帰ろう。意識して忘れものをする。
体だけ帰る。この技は劇作りの幽体離脱イメージトレーニングで鍛えている。都合の良い技である。
演劇ワークショップのテーマ「空っぽになる。」は夢桟敷の基本トレーニングに不可欠なものとして体験講座を催してきた。
燃え尽き症候群とは違う。…体が潔くなる。修行は長続きする。長い道のりには何度も繰り返す。

朝8:00、プロミッソンを出発。
安永ファミリーの皆さんがガーデンで送り出してくれる。
長老、安永忠邦さん、Kazueさん夫婦とチビちゃんたち、顔、顔、顔!
まるで「鶴瓶の家族に乾杯」NHKぶっつけ本番の別れ方だった。
Kodoさん、Kazunoriさん夫妻、Nakasatoさん、シュラスコ焼き名人夫妻の6名さんたちも貸切バスに乗り込み、空港までお見送りしてくれる。
忠邦さんから皆さんにとコーヒーをお土産に頂く。
Kodoさんは100ℓのブラジルの酒ピンガ、内80ℓをみんなに小分けして持たせてくれた。
帰途の途中、新しく完成したリンス天然温泉(日系人経営)の立派な施設を眺める。
ここにも日本がある!
「またおいでよ!」と100年前の移民した人々から手を振られているように思えた。
500km先の空港へ時速110kmのスピードでバスは走った。

ところが、サンパウロ市に近づいての大渋滞に巻き込まれる。
余裕で早朝より出発したのだが、20:50発のダラス行き飛行機に間に合うのか?
私たちよりもお見送りしてくれて同乗している安永さんたちとバス運転手さんの方が危機感マックスだった。
途中でお土産屋さんに寄る予定だったがキャンセルする。
空港で待ってくれているKiyoshiさんも気が気ではなかっただろう。
後、1時間、50分、40分、搭乗までのカウントダウンである。
空港に到着したのが搭乗手続き締め切り時間ギリギリ。
走れ!走る!忘れ物はないか?…そんなことより走れ、走る。
息が切れていることも気にならない。
kiyosiさんが上手いこと交渉してくれたのか、受付カウンターのスタッフも手際が良い。
ポルトガル語で「急いで!」と言っていたのだろう。ポンポンと荷物をコンベアーに乗せてくれる。
乗り遅れたら私ひとりでもブラジルに移民しようと思って、最後尾で覚悟を決めていた。
忘れ物はあるよ!こころだ!
さよならニッポン。…忠邦さんとコーヒーもぎの絵が浮かんでいた。
危機迫ると妄想が具体化する。

飛行機出航時間を遅らせることもなく、ギリギリで飛び立つことができた。
Kodoさんたちがプロミッソンに帰り着いたのは日が明けて朝5時だったと聞いて申し訳ないと思った。
多くの方々が支えてくれた。
こころより感謝します。感謝の気持ちは置いて来て正解。

メモ(14) 10月11日(夜)〜13日(夜)

ブラジルへの渡航は今回で4回目だった。
太平洋を渡って日付変更線をまたがる旅は数時間程の往路は過去、復路は未来へ飛んでいるようで不思議な気持ちになる。現地時間を基準にしているからだ。
サンパウロ空港を11日の夜に発ってアメリカのダラス経由で乗り換えて成田空港に向かう。
ダラスでは英語、ブラジルのポルトガル語よりも身近に感じる。
そうか!言語でもアメリカに支配されていたのか?とスピードラーニングで勉強もしていないのにカタカナとローマ字が日常生活に入り込んでいることに驚く。…教育の成果ではない。

無事に熊本に帰り着いた。
飛行機の中で眠れれれば渡航時間35時間は楽なのだが、帰ってベッドに転がり込むと死んだように力が抜けた。飛行機では不眠症になって苦痛だ。
若い時は道端でも眠れていたのに!

さて、この旅の報告書を作らなければならない。
会計報告、プログラムの変更説明、簡単なようで事務処理に時間がかかりそうだ。
応援して頂いた方々にもお礼や挨拶もしなければならない。
続いて、次の活動にも向かう。
合間に短編小説「南米道中膝栗毛」(400字原稿100枚)を年末までには書き終えるか。登場人物は劇中と現実のごちゃ混ぜで小説化を図ろう。虚実入り乱れて本音の物語のなるかどうか。
同時に次回作の計画も進める。…来年で劇団夢桟敷40周年か。
倒れるまでバカの道をふらりふらり歩む。


今後のメモは資料を中心に綴る。思いつきや主観、妄想も取り入れて遊ぶ。

メモ(15)
資料1 サンパウロ新聞

【移民110周年特集】「日本移民の故郷」 プロミッソンが入植100周年
• 2018年6月25日 1358

入植100周年記念祭ロゴ(提供写真)
 「日本移民の故郷」であるサンパウロ(聖)州プロミッソンは、1918年にイタコロミー移住地(現・上塚第1植民地)への入植が始まってから、今年で100周年を迎える。7月22日には、「プロミッソン入植100周年記念祭(前田ファビオ実行委員長)」が予定されており、眞子さまの式典ご出席予定に合わせた準備が着々と進められている。同地の開拓当初から今日までの歴史を振り返る。

エイトール・レグルー駅(『農業のブラジル‐プロミッソン開拓十周年記念版』より)

さとうきび畑と牧場が広がるプロミッソン近郊
◆プロミッソン創世記
 『ノロエステ記念史』によると、プロミッソンは、聖市から493kmに位置する標高420mの土地となる。
 1908年、鉄道ノロエステ線が、当時ファゼンダ・パットスと呼ばれていた土地まで開通し、列車の着地がエイトール・レグルー駅と名付けられた。同地は、鉄道開通により居住者が増加し、17年には日本人移民やイタリア人移民らが入植。19年にエイトール・レグルー治安区、21年9月にプロミッソンへと改称され、23年11月に、プロミッソン郡となった。
 16年、プロミッソンの原生林に日本人移民として初めて足を踏み入れたのは、福岡県出身の後藤七郎氏で、17年には熊本県出身者、鹿児島県出身者らが続けて入植した。
 18年3月、「ブラジル移民の父」と称される皇国植民会社の上塚周平氏らが同駅周辺の、1400アルケールの原生林を10アルケールごとに売り出したことを契機に、同地がイタコロミー移住地と命名された。イタコロミーは、先住民グアラニー族の土地を意味し、同族の墓跡などが開拓時に見つかったそうだ。命名された名前とは別に、入植者たちの間では、「上塚植民地」と呼ばれ、今日のプロミッソンの原形となった。
 (※)上塚氏は、東京大学法学部を卒業後、移植民事業を志して皇国植民会社(水野龍社長(当時))に入社。08年に笠戸丸に乗船して渡伯し、同社現地代理人に。労働者として農業に従事する日本人移民の待遇を見かねて、自営の植民地構想を抱いた。同地では「事務所」と呼ばれた家で質素に暮らし、「日本移民の故郷」プロミッソン開拓に努め、「移民の父」と称えられている。

記念塔と写る上塚周平氏(『プロミッソン植民地十周年記念寫眞帳』より)

開拓十周年記念塔

間崎三三一氏(『プロミッソン植民地十周年記念寫眞帳』より)
◆発展の兆し、戦後の対立
 23年に行われた調査では、同地の土地所有者は247家族で、同地周辺には406家族が居住していたという。農園で育てられていたコーヒー樹は約300万株で、ブラジル全土の日本人移民が所有している樹の3分の1を占めたそうだ。現在はコーヒー農園が無くなり、さとうきび栽培、牧場経営が主産業になっている。
 28年、最初の周年事業となった「植民地開拓10周年」では「開拓十周年記念塔」が上塚周平公園内に建立され、記念祭典も開催された。当時、同地の居住者は約1000家族を数え、記念祭典も大いに盛り上がったと記録されている。
 25年には、汎プロミッソン中央日本人会が創立され、初代役員として顧問に上塚氏、間崎三三一(まざき・ささいち)氏、会長に佐々木光太郎氏らが名を連ねた。
 33年の調査では、プロミッソン近郊までを含めた居住者は1362家族、6757人まで増加しており、52年3月に、プロミッソン連合日本人会が組織され、会員131人を有していた。
 68年、入植50周年を迎えた同地では、現在まで同地を二分する出来事が起こった。上塚氏の友人である菊池恵次郎氏から、上塚氏の「事務所(旧家)」の土地管理を任され、「上塚氏の右腕」と言われた間崎氏が土地をブラジル人に売却。さらに、間崎氏が上塚公園内の「開拓十周年記念塔」を、プロミッソンの街中に移設する話を持ち出したことで、同地は二分した。そこには、戦後の勝ち負け抗争で思想が分かれた影響もあったとされる。記念塔に関しては、プロミッソンの町中に記念の時計台を建立し、移設は行われていない。
 現在までプロミッソン日伯文化体育協会(岡地建宣会長)とプロミッソン日系文化運動連盟(吉田マサヒロ会長)の2団体に分かれたままとなっており、2008年のブラジル日本移民100周年時には、統一を目指して同周年委員会を立ち上げたものの、世代間の軋轢(あつれき)や運営面で意見が一致しなかったことで、実現しなかった。
 しかし、入植100周年で、再び統一に向けた実行委員会を立上げ、協力体制を布(し)いている。


作 さかもとまり
構成演出 山南純平

cast
夢現(坂本真里)
ミシェル
宇都咲太郎
工藤咲希
西銘沙耶
レイコ
秋山尚輝
本田侃
片山知子(ARENA)
古閑信宏
宮下遥
住本祐樹(城南火の君太鼓)
金丸幸龍(城南火の君太鼓)
Kodo Yasunaga(プロミッソン市)

staff
音響 古閑信宏
照明 山南純平
舞台美術 星加民雄
ダンス振付 小道具 衣装
永山玲子/工藤咲希
劇中歌 音楽 矢賀部竜成
ブラジル公演ポスターデザイン
三枝泰之
熊本公演ポスターデザイン
西銘沙耶
記録撮影(写真;ビデオ)
2018ブラジル公演短編編集
赤嶺康介
2009ブラジル公演短編編集
工藤慎平

共催
プロミッソン市
プロミッソン入植100年祭実行委員会
ニッケイ新聞社
ブラジル熊本県人会
助成
くまもと21ファンド
協賛
熊本中央ライオンズクラブ
協力
熊本県 / 熊本市
熊本日日新聞社
朝日新聞社
サンパウロ新聞社
J:COM特派員 林克洋
くまもと上塚周平顕彰会
イッペイの会
日本フェアトレード委員会

団体・個人の寄付(報告書にて明記)

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