etceterakoの勝手にエトセトラ

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宙組「維新回天・竜馬伝!-硬派・坂本竜馬Ⅲ-/ザ・クラシック I LOVE CHOPIN」

2006年11月15日 | 宝塚歌劇

 (いつものごとく)今日が作品の話、明日がキャストの話です。

 演出家に「ファン」とか「贔屓」って言葉はおかしいかもしれないけど、わたしは石田昌也作品のファンです。まぁ、石田が最高!とにかく傑作!なんて思ってるワケじゃないけど、欠点や弱点含めて、石田作品の個性が隅々まで好きだ!ということで、これはやっぱり「ファン」なんですね。

 というわけで、石田先生をベタ褒めしております。批評になってねえです。
 たぶん、わたくしがホメてる要素のいくつかは、欠点なのかもしれんが、ファンには「あばたもえくぼ」です。困ったものです・・・。

 しょせん「ファン」の言ってることですので、今回は6割引ぐらいでお読みくださいな。
 では、どうぞ。

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【維新回天・竜馬伝!-硬派・坂本竜馬Ⅲ-】
わかりやすいのはイイことだ!
 ・・・石田作品の何が好きって、細かいことをごちゃごちゃ考える必要がなくて、ぼーっと客席に座ってるだけで、てきとーに大冒険、大事件を堪能でき、てきとーにベタベタギャグで楽しませてもらえ、てきとーに幸せな大団円があじわえる!(あとあじ極めて良し!)という、娯楽のシアワセなんですよ。娯楽。この一言に尽きます。
 (芸術や表現じゃなくって)娯楽作品だから、石田先生が客席に要求することがすくない。つまり、わかりやすい!

 わたしねえ、「わかりやすい」って、イイことだと思うの。
 やっぱ、どんな小難しいことでも、伝えるためには、わかりやすくするにこしたこたぁないと思うんだわね。たとえば文章でも、わたしは「わかりやすい」文章が好きなんですわ。言葉は装飾品じゃないからね。伝達する「ツール」なんだから、「わかりやすく」「よく伝わる」言葉であることは、価値のあることだと思ってます。
 今回の竜馬も、「演劇」というツールを使って、(石田先生の考える)竜馬の人生を、わかりやすーーーく伝えてるよねえ。解釈を間違えようにないもん。たとえば正塚作品や荻田作品で「国語の問題」をつくったら(○○のときのキャラクターの心情をのべよ、とか)、正解は一種類じゃないと思うのね。石田作品なら、正解は一種類だわ。
 受け手(観客)が絶対惑わないように、ものすごい親切に作ってくれてあるんですね。

 もちろん、複雑、難解であるのを悪といってるんじゃないですよ。難解には難解の意図があって、難解を解くために、ココロを動かしたり自分と向き合ったり、そっちにはそっちの良さがあります。
 まぁしかし、わたくしは「自分と向き合う」「感性をはたらかせる」とか、そーゆーのわりと面倒くさい(・・・・・・。)ヒトなので、何も考えなくてイイ石田芝居はラクチンお気楽で大好きなんです。

●石田昌也の「批評性」
 わたしは石田先生のコメントも、ものすごーく好きだったりするんですよ。言葉と思考と感覚がキチンと結びついてるカンジがねえ。「歌劇」誌の竜馬座談会冒頭で、竜馬と中岡の性格を「この二人が家にとまっていけといわれたら・・・」で例えてみせるモノの捉え方とか、たいそうわたしの性に合うんですわね。
 石田先生ってね、何に対してもそうだけど、斜に構えて、外側から語ってみせるんですね。「宝塚歌劇とは」「宝塚歌劇団とは」「宝塚ファンとは」「宝塚で演出するとはどーゆーことか」、すべての問いに、ちゃんと石田先生流の結論を出したうえで、意識的にあーゆー作風やっているってところ、あるでしょ。
 歌劇誌に載る、さまざまな種類のコメント見ていると、ものすごく遠まわしに、宝塚や宝塚をめぐるアレコレに向けた皮肉をのせて、伝えてきている時がありますよねえ。偽悪的といいますか・・・。宝塚ファンが「ムッ」とすることをわかっていて、わざとそーゆー発言したり、ベタベタギャグを貫いたりしてるよね。ファンがムッとして「拝啓 石田昌也様」って、猛然と抗議の手紙をたとえば出したら、石田先生は「してやったり(意図どおり)」と、ニヤリとするんじゃないかと思うのよねえ。

 ベタベタギャグ、お下品すれすれ、ファンをムカッとさせるコメント、すべて、確信犯でしょう。確信犯じゃなければ、わたしも「ムッ」として、「拝啓 石田昌也様!」とお便りをしたためちゃうかもしれないけど、ありゃぁ、確信犯だと思っているので、わたしはかえって好感を持っています。

 石田先生なりの、これは批評性なんだよね。
 石田作品は、(たとえ悲劇であっても)めでたしめでたし、が基本です。陳腐と紙一重の、単純な設定、ストーリーテリング、あっけないほどの結末。
 宝塚はひろく「大衆」のための娯楽であるべきで、特定女性(熱狂的宝塚ファン、レースとお花の少女趣味の延長)のためだけに作ってるんじゃないから、っていうことだよね、これは。老若男女、ふらっと見て「アハハ」と楽しめる「大衆の娯楽」でありたい、と。
 石田先生はにとっての、「宝塚とは」の結論が、ああいう作風だったんでしょうねえ。

 それから、石田先生の「批評性」は、おそらく「自分(石田作品)自身」にも及んでいるんですよ。娯楽作を職人的に作る。大衆、宝塚のために、職人的に単純なストーリーを作る。でも、それじゃあ、作家としてはどうか。だから、ひとつ「チャレンジ」を入れよう!それが「スミレコードへの挑戦」なんでしょうね。(いや、まあ。何もそんなところでチャレンジしなくても・・・っていうご意見もわかるんだが・・・)スミレコードへの挑戦は、宝塚というシステムへの挑戦というよりは、「宝塚というシステムの内側にいる人たち」・・・これは、劇団自身、内部の人間、それから「宝塚ファン」へ向けた挑戦なんですよ。

 で、自分の適性も性格も作風も、宝塚や宝塚ファンについても、知りぬいたうえで、愚直なまでに、「大衆へ向けた職人的仕事」をしてるんですな。
 自分にできること、できないこと。向いていること、向いていないこと。その辺をしっかり見極めて(わきまえて)、冷静につくってるカンジが、非常に好きです。
 だから、石田先生の特徴として、ものすごーく作りが「理性的」(にみえる)んですね。
 どの場面がメインで、男女のドラマは何を軸にして、サービスシーンは何で・・・って、意図が明確、つくりが明快。どの場面でも、作者の思い入れが過剰じゃない。
 だいたい、見せ場(=たいてい作者のやりたい場面)が思い入れの勢いで、ちょこーっと長くなっちゃうものだけど、石田先生はキッパリほどほどで切り上げますから、重くならない。娯楽にみるには、ぴったりだ!

スミレコードを侵しているか問題
 さて。肝心のスミレコード問題。 
 まあ、いろいろご意見はありましょーが、わたくしの個人的意見としましては、石田先生は、宝塚ファンを挑発はしますけど、スミレコードを「侵した」ことはないと思う。抵触はしてるんだろうけど。ぎりぎりセーフだね。確信犯だから、まあヨシ。(わたし的には)

 わたしは、確信犯の石田先生より、「無意識」にスミレコードギリギリをいくことのほうが、危険だと思っています。
 ・・・やはりね、宝塚ファンブログとして、ここのブログも「清く正しく美しく」ありたいんですね、わたしは。宝塚の舞台で使えないような言葉は、このブログにおいても使いたくないと思ってます。だから、詳しくは書かないんだけど・・・。(詳しく書くと、ちゃんと「清くない」単語使わなきゃいけないからね)
 わたしが今まで見てきた宝塚作品の中で、一回だけ、「あ。これはスミレコードNGだ!」と思ったシーンがあります。(ちなみに石田作品に非ず)
 「本質的に」NGだと思ったね。あれは。

 石田先生のギャグや、ファンを挑発する単語・・・。
 今回でいえば、「テクニシャン」あたり。あの辺って、言葉がギリギリな「だけ」なんですよね。ストーリー全体、セリフ全体で検討すると、その言葉の裏には男女という制度や、宝塚歌劇への批評的な眼差しってゆーのが、根本にはあると思う。で、それをカリカチュアして意図的に「表現」していると思う。
 まあー、手放しで「もっとやれやれ」「オーケーオーケー」と思ってるワケじゃないけど、石田作品の「言葉あそび」より、もっと本質的に・・・「表面的には清く正しく美しいけど、内容の本質ではスミレコードをぶっちぎっていく」ということのほうが、わたしは怖いと思ってるんです。そっちはきちんと監視・・・うーん、監視っていうとエラそうだけど・・・見定めて批評していかんと、と思ってます。ハイ、批評家気取りです、生意気娘K。調子に乗るな、生意気娘K。(自戒)

 まあ、あれだ。
 石田先生も可愛げないですからね。
 目には目を、生意気演出家には生意気娘Kを、みたいなね。(←慣用句誤用)

 わたしは個人的に、客席を挑発するような、スミレコードぎりぎりセリフすら好きだったりするんですわね。ほら、「ファン」だからさぁ~。「あんなん不愉快だ!」って気持ちも、頭ではわかるんだけどねえ・・・。

●職人的仕事
 もう、超職人的だったねえ、今回も。
 メリハリもあるし、人の入れ方出し方、舞台の使い方、凝ってはいないけど、ちゃんと観客の目を意識してつくってある感じがねえ。石田演出、好きなんだよねー。
 脚本も、必要な部分を最低限押さえたうえで、サービスシーンがある!ラストは明るく群舞で締めて、「ハイ、めでたしめでたし」って、最高だよね、あれ。すばらしい!(ファンなので全部絶賛)

 宝塚はショーがあるからイイ、芝居で死んだ人(役者)が、ショーでは生き返ってイキイキ踊るから、観客は安心して楽しく帰れるんだ、とは、ありふれたタカラヅカ論ですが。
 それをちゃんと、芝居一本のなかでやってるということでしょう。
 「宝塚とは」を、(異端児のようにみえて)石田先生は誰よりも強く意識している証左だな、これは。

 感動、表現、悲劇、芸術、涙・・・。
 それらは、現代では「娯楽であること」より、価値のあることかもしれない。
 娯楽ってゆーと、なんか低く見られがちです。

 かつては映画や舞台は娯楽だったけど、いまはちがうもんね。たぶん、現代のいちばんメジャーな娯楽は、「テレビ」じゃないですか。外へ出かけなくても、娯楽がお茶の間に供給されてるから、わたしたちは「娯楽」を意識する必要がない。だから、「娯楽」という単語自体、滅んでいったんでしょう。(流通はしてるけど、使わない単語だと思う。「わたしの娯楽はぁ」とか、言わないもんね)
 いま、映画や舞台っつーと、「わざわざ」出かけていくものだから、娯楽じゃなくて「趣味」になるんだろうね。

 「趣味」で宝塚を見る時代に、娯楽作品バリバリの石田作品は、やっぱり「いかがなものか」という部分は、あるのかもしれないね。

 わたしには、宝塚は「趣味じゃなくて娯楽」で、サービスシーンでアハハと笑って帰れる石田作品は、日常の憂さを晴らすのにもってこいの、すばらしい作品なんですよ。

 石田先生には、ぜひこれからもバリバリと娯楽作品を作っていただきたいものよのぅ・・・と思っている人が少なくとも一名、ココにおります。

【ザ・クラシック I LOVE CHOPIN】
で、「クラシック」って何?
  プログラムを眺めますと・・・。第一場、「バトラー風の5人の男たちが次々と現れ、クラシックとは何か・・・・・・とそれぞれに主張しあう」と書いてあります。

 あのう・・・それで?
 けっきょく「(草野先生が考える)クラシックとは何か?」って、答えは何だったんでしょーか!

 岡田先生の「ネオ・ダンディズム」でも、「ダンディズムとは~!」って語りがあって、「どわー!いまどきダンディズムだって!(笑)」と最初は思いつつ、見終わるころには「(岡田先生の考える)ダンディズムについて、よくわかりました、もうわかりました、バカにしてすいませんでした、ダンディズム万歳!(ひれ伏し)」って感心して劇場をあとにしたもんです。
 ひるがえって「ザ・クラシック」。けっきょく何がクラシックなのか、ようわからんっ。(わたしの見方が甘いのかな)

 まさか・・・クラシック音楽を使ってるから!ってこたぁ、ないよね??
 それなら、「クラシック音楽って」でしょ。「クラシックとは!」と問いかけるからには、クラシックであることの何たるかを、見せて欲しいと思っちゃうじゃないですかー。

 ショパンがサブテーマだと思うんだけど・・・。これも、タイトルに入れるホドじゃないよねえ。そーゆー場面があるってだけだもんね。関係ない場面多いし。

 なんか、「ショパンの場面入れて、クラシック使ってショーをつくろう!」というコンセプトはわかるんだけど、ちょっと散漫かなあ。場面場面では面白いんだけど、独立しすぎてて「テーマないじゃんっ!」ってカンジになっちゃうね。タイトルが「草野レビュースペシャル」とかなら、「ああ、そうか。無題のレビューか!」で納得だけど、わざわざクラシックだのショパンだの銘打たれちゃうと、別の方向性期待しちゃうもん。

でもけっこう面白い
 場面場面は面白いんだよね。
 ポピーのとことか、「あ!こりゃさすが宝塚!」ってカンジだし。
 羽山先生振り付けの、男女が酔っ払う場面なんか、単品で見るとけっこうクオリティ高いんだけど。

 でもなんか、全場面並べると・・・「なぜこれらを並べてるんだろう?」って思っちゃうのよねー。

私が思うに
 とかく、「ザ・クラシック」という題がなじまないっていう・・・もう、それに尽きる気がする。タイトルが変われば、もっと違う印象になるかも。

 そうだなあ。
 なぁんか、ふるいヨーロッパを思わせる物語とかあったし・・・。

 わたしがタイトルつけ直すなら、「OLD TIMES」とかねえ。
 要は、ショパンの物語を含め、ふるい時代の愛の物語をやりたかったんでしょ。クラシカルな物語、ってところなのかな。

 クラシックっていうと、「古典」だからねえ。もうーすこし、堅いイメージかなあ?(あくまでわたしは)
 草野先生が考えているクラシックは、単語でいうと「オールド」ぐらいの感じがするんだがなあ。

 でも、フツーに面白かったです。
 衣装もセットもきれいで、宝塚らしい場面てんこもりで。
 
 かしちゃん、るいちゃんの高貴な雰囲気に、よく似合ったと思うなあ。 


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