「舞台の定番、芝居+ショーの組み合わせはムーランの発明?」91へえ!キングアーカイブシリーズ「ムーラン・ルージュの灯は消えず」
******************************
平井賢さんの解説からまだまだトリビアが!
宝塚歌劇はもちろん、演歌歌手の舞台興行ナドで定番の、
一公演を芝居+ショウの組み合わせで!
っていう形式は、ムーランルージュが定着させたものなんだそーです。
平井さんの解説から引用してみます。
幾多の名優、珍優や歌手を生み、数多い名作を残した優秀な作家を育てはぐくんだムーラン・ルージュ。
ドラマとヴァラエティー・ショーの組合わせは、四十余年前のムーランが創作した公演形式である。これが現在の美空ひばり、三波春夫、江利チエミ公演に受け継がれている。思えば斬新な企画だったものである。ヴァラエティーという言葉自体も、ムーランが初めて使い出した言葉である。当時、「ヴァリエテ」というドイツ映画が、大ヒットしていて、それからヒントを得て、山本浩久氏が名付けたといわれている。
※四十余年前のムーラン・・・レコードは1974年に出て、解説も当時のものなので、1974年の四十余年前です。
オドロキだよね!
「ヴァラエティー」って言葉も、ムーラン発だというんですよ。
まあ、「芝居+ショウ」の組み合わせというのは・・・ムーラン以前にも当然、存在はしてたと思うんですよ。探せばあると思います。
ただ、当時の宝塚のプログラム見てると、3本立てとか平気であるし、踊りばっかりのこともあるし、「芝居とショウの二部立てで行くぜ!」という意志はまだ芽生えてないんですね。この解説が言いたいのは、
「芝居とショウの二本立てを、『意識的に』やって、それが広まっていったのはムーランがキッカケなんだよ」
※追記:すいません。「二本立て」とは限らなくて、複数本立ても入れてのニュアンスかも。芝居とショーをいっぺんにやるっていうのが新しかった?
ってことだとわたしは解釈します。
座席数500の小さな劇場だし、時代が時代だから、いまと違って「全国から詰めかける」ような興行ではなかったと思いますが、東京に住んでいる文化人がいっぱい見ていたから、クリエイティヴな業界に、影響力があったんでしょうねえ。
どんな人が見てたか、このCDの解説書に出てくる具体的人名をひろうと・・・。
・志賀直哉(熱中して毎公演並んだ時期があった)
・菊池寛(よく2階席にいたそうな)
・吉屋信子(よく2階席にいたそうな)
・新居格(わたし、この方を知らないんですが・・・)
・斎藤茂吉(ムーランを詠んだ歌があるらしい)
さらに「学生」・・・っていうと、当時はすごいインテリ層ですよね?・・・がすっごく多くて、学生さんが軍事教練の帰りにムーランによって、ダンシングチームに声援を送っていたそうな。学生が多いことといったら、六大学それぞれの席がおのずから決まっていたほどだそうですよ。すごいねー!
★へえボタン★
最新の画像[もっと見る]
-
福井県の酒まんじゅうの話 14年前
-
福井県の酒まんじゅうの話 14年前
-
福井県の酒まんじゅうの話 14年前
-
福井県の酒まんじゅうの話 14年前
-
武生旅行の余話 14年前
-
武生旅行の余話 14年前
-
武生旅行の余話 14年前
-
武生のおもひで2010 14年前
-
自己満足企画!桜花さんの生誕を祝うクッキー作ってみた! 14年前
-
自己満足企画!桜花さんの生誕を祝うクッキー作ってみた! 14年前
でも、宝塚も昔は、インテリ層に支えられていたから、新しい娯楽に敏感だったのは、やはり富裕層とインテリ層なのですね。
こういう興行のチケットって、高かったんでしょうねぇー。