山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

「自衛軍」明記に、敢えて異論

2005年11月14日 | 政治のかたち
自民党が10月に公表した新憲法草案に「自衛軍の保持」が盛り込まれた。「前項の目的(戦争放棄)を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする現行9条第2項の改訂部分である。自衛のための戦力保持を明文化する考え方には賛成なのだが、その戦力を裏付ける実力行使部隊の名称を、果たして憲法に書き込む必要はあるものだろうか。

自民党内の議論の過程では、「防衛軍」「国防軍」を主張する声もあったが、最終的に、既に定着している「自衛隊」に近く、国民の抵抗感が少ないと思われる「自衛軍」に落ち着いたようだ。

しかし、よく考えてみれば現憲法下においても、自衛隊の実態は紛れもない「軍隊」である。9条2項改正の目的が、自衛隊の実態を軍に改めたり、新たな軍事組織を創設するのでなく、既にある自衛隊の実態を追認するだけなのなら、名称を変更する必要があるとは思えない。

新憲法には「主権国家の固有の権利として、自衛を目的とする実力行使部隊を保持する」と書けばいいだけではないか。自民党が名称変更にこだわるのを見ていると、「現状追認」以上の何かを企図しているのではないか、と変に勘繰りたくもなってしまう。

防衛庁と自衛隊の組織に変更を加えない前提ならば、私は自衛隊は自衛隊のままでいいと考えている。重要なのは軍隊の「名称」でなく「実態」であり、その実態に対する国民の「認識」だと思うからだ。

国民が自衛隊を軍隊と認識しているのなら、それでいいのではないか。9条2項の改正は、そうした国民の認識に憲法を合わせるのが目的であって、それ以上でも、それ以下でもないはずだ。

もし、どうしても名称を変更したいなら(くどいようだが、私はその積極的必要性を感じていないが)、憲法に書くのでなく、自衛隊法を改正して「本組織を自衛軍と称する」などと書き込めばいい。

いや、それ以前に国民が自衛隊を国軍と認識し、かつ憲法上も戦力保持に疑義がない状態が実現したあかつきには、放っておいてもメディアが陸上自衛隊を「陸軍」、海上自衛隊を「海軍」、航空自衛隊を「空軍」と呼ぶようになるだろう。

言うまでもなく、世の中の事象を、実態に即した形で命名し、報道することは、元来、マスメディアが果たすべき重要な機能の一つである。

その意味では、現在メディアが「閣議」と呼んでいる政府の最高意思決定会議も、本来の意味の「閣議」の一部ではあっても、閣議そのものではない。

今、「閣議」と呼ばれているのは、各省事務次官が決裁した書類に、大臣が署名する事務作業に過ぎない。しかし、内閣制度の基礎を築いた伊藤博文ら明治の元勲が、ただ花押の美しさを競うためだけに閣議を始めたとは到底思えない。

長い年月を経て、いつの間にか官僚の決定を追認する機関へと形骸化してしまっただけで、「閣議」とは本来、首相と閣僚が国の基本方針を議論し、意思疎通を図る場だったはずだ。

冷戦による政治停滞が終わりを告げ、政治主導の必要性が叫ばれた1990年代、閣議はようやく内閣メンバーが議論する、本来の意味での「閣僚会議」として復権を果たした。

ただ、政治に主導権を奪われることを危ぐした官僚たちは、この議論の場を非公式の「閣僚懇談会」と命名し、公式の閣議から分離した。メディアもこの官僚用語を無批判に受け入れてしまった。

今でも「小泉首相は閣議後の閣僚懇談会で…と指示した」といった新聞記事を見かけるが、実に滑稽である。それは「閣議」そのものではないのか。

命名という行為は、事物を把握する行為のほとんどすべてと言って過言でない。命名の主導権を官僚に奪われたままのメディアでは、国民は真実を見失いかねない。

「内閣総理大臣」「地方公共団体」といった持って回った官僚用語を、より実態に即した「首相」や「地方自治体」(最近では「地方政府」とも呼ばれる)に呼び換えてきたのは他でもない、マスメディアだ。

同じように、憲法改正で自衛隊の合憲性を確認しさえすれば、後はメディアが陸軍を「陸自」、海軍を「海自」、空軍を「空自」と呼ぶ欺瞞をやめればよい。政府指揮下の一組織の名称を、最高法規たる憲法にわざわざに書き込む国は、やっぱりどこか変だと思う。(了)


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