山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

和のファシズム~自民党50年と新憲法案~

2005年11月23日 | 政治のかたち
自由民主党が結党50周年を祝う党大会を開催したという。9月の衆院選での大勝も記憶に新しい中でのセレモニー。ご同慶の至りである。小泉チルドレンを前面に出し、報道での露出効果、公告効果を周到に計算した演出は、「立党50周年大会」というより「小泉新党結党大会」と表現した方が適切と思えるほどだ。(自社さ政権時に制定した、あのマークもそろそろ変更していいのではないか。瑣末なことだが)

大会に合わせて公表された自民党の新憲法案からは、中曽根康弘元首相が推敲を重ねた重厚で、やや感情過多な前文が消え失せ、簡素で合理的、かつ無味乾燥な憲法改正案となった。

各種報道によると「憲法案から情緒を排せよ」と指示したのは小泉総裁その人だという。「立憲主義」の観点から、自民党案そのものに対して異議はあるものの、私は国家の最高法規から情緒を取り除いた小泉氏の判断を強く支持したいと思う。

(ただし、内外に向けた「政治宣言」の性格を持つ前文に関しては、現行案は羅列的で、箇条書きの印象が強い。文学的装飾は不要だが、通して読んで違和感のない日本語に直す必要はあるだろう。国家権力を拘束するという立憲主義の原則も明確に記述すべきだ)

天から降った「小泉憲法」案の突然の提示に、大勲位はたいそうお怒りだという。特に中曽根内閣で官房長官を務めた故後藤田正晴氏から「遺言」として託された「和を尊び」の文言が削られたエピソードが、象徴的に語られている。

抵抗勢力を力づくで排除したばかりの小泉氏が、この文言に「じゃあ、おれは憲法違反か」と噛み付いたという話も漏れ伝わる。(言ったとしても、半ば冗談なのだろうが)

「和を以って尊しと為す」は聖徳太子の十七条憲法にある有名な文言。日本らしさと言えば確かにそうだが、それも農耕民族としての日本文化の一面であって、すべてではないと思う。「合意と調和」を前提に「決断と実行」が求められる場面もある。十分に「情」を尽くしたと判断すれば、後は「理」につくしかない。小泉首相が「情緒」よりも「合理性」を重視していることは、憲法前文をめぐる大勲位との確執にもあらわれている。

振り返れば、吉田VS鳩山の政治闘争から保守合同、大平VS福田の40日抗争、羽田小沢派の離反、下野から政権復帰、小泉VS反対勢力の郵政闘争と、自民党の歩んだ半世紀も、激しい権力闘争の歴史だった。一方で、決定的な対立を避け、「飲ませて、食わせて、つかませて丸め込む」政治手法も、55年体制下の日本の、すなわち自民党の政治文化ではあった。

中曽根内閣の時代、ペルシャ湾への掃海艇派遣という首相方針を、後藤田氏が身をもって阻止した話は有名である。中曽根首相の靖国参拝を止めさせたのも後藤田官房長官だった。いずれのケースも小泉政権では罷免か、更迭だろう。

後藤田氏の抵抗は一見、権力者のリーダーシップを制限する「和の政治」が機能した例に映るが、考えようによっては、弱小派閥を基盤にしていた中曽根首相が、最大派閥・田中派のコントロール下にあったことの証明でしかないのかもしれない。

中曽根内閣の主導権は結局、田中派から送り込まれた「カミソリ後藤田」に握られていたのである。だとすれば閣内での本当の権力者は後藤田氏であって、当時の中曽根氏は権力者のリーダーシップに反抗を試み、挫折しただけではなかったか。

もちろん、80年代後半時点における掃海艇派遣は、必ずしも世論の支持を得ていなかったから、後藤田氏の“指揮権”発動は、「合意形成を重視する和の政治」が正しく機能した一例ではあるだろう。

しかし一方で「和の政治」は、時に政権内の路線対立を隠蔽し、従って国家の政策決定を妥協的にする。指導者の決断を遅らせ、誤らせ、しかもその結果において誰も責任を負わずにすませることを可能にする。

その意味で、昭和戦前期の日本のリーダーは、よく和を尊んだと言える。軍部の意向に引きずられ、ずるずると日中戦争の泥沼に入り込んでいった近衛内閣。「省益」に固執し、中国からの撤兵拒否を頑なに主張する東條陸相を、近衛首相は罷免できなかった。それどころか内閣をその東條に託してしまった。政権内の路線対立の存在と、その曖昧すぎる処理の事実を国民が知ったのは、敗戦後のことである。

もちろん、明治憲法下の内閣制度が、天皇の強力な決定権を前提に、内閣を対立利害の調整機関と位置づけていたことも無視できない。現代の視点で近衛の無策を非難するのはフェアーではない。(近衛の失政はむしろ、これ以前の「東亜新秩序」構想の失敗にある)

当時の憲法がリーダーシップを期待していた天皇は、しかしながら1928年の張作霖爆殺事件で田中義一首相を叱責し、内閣を瓦解させた反省から、政治介入に極めて消極的になっていた。昭和天皇は立憲主義、近衛首相は閣内一致原則という「和の政治」に、それぞれ逃避していたのかもしれない。

「和を以って尊しとなす」の政治理念は、平時においては有用だが、内外情勢が変動し、政治のリーダーシップが期待される時代には、かえって有害となる場合がある。

政界の路線対立、権力闘争は白日の下にさらされてこそ、主権者たる国民に選択肢を提示することができる。「和」という名のもとに形成されるファシズム。「和」によって糊塗された「美しい政治」の危険性に、現代を生きる我々はもっと自覚的であるべきかもしれない。

50年目を迎えた自民党内の、憲法草案をめぐる争いを眺めながら、そんなことを考えていた。(了)


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