山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

新進党から学ぶこと

2005年12月04日 | 政治のかたち
9月の衆院選で歴史的大敗を喫した民主党が、足腰の弱さを指摘されている地方組織のテコ入れに動き出したようだ。同党に近い関係者から聞いた話では、2007年の統一地方選に向け、各地方で非自民勢力を総結集した「地域政党」を結成し、反転攻勢の礎石にしたい考えだという。

中央政界と異なり、地方政界では民主党はまだまだ弱小勢力だ。都道府県議会では自民党系会派が数十人規模なのに対し、民主党系は2,3人という例も珍しくはない。農漁業や建設業が中心の地方社会では、やはり保守の土壌は堅い。

かつて「保守2大政党制」を目指した政党があった。細川連立政権の与党だった8党派から、社会党や新党さきがけなどの左派勢力が離脱した後、結成した「新進党」である。1996年衆院選で自社さ政権に敗れ、一度も政権を取ることなく翌年12月に解党したが、筆者は今でも、この頃の自民党VS新進党の時代こそ、日本政界が「政権交代可能な2大政党制」に最も近づいた時期だったと思っている。

自民VS新進の対立構図は、衆院選への小選挙区制導入が招いた必然だった。一つの選挙区から複数の候補者が当選できる中選挙区制では、同じ選挙区に自民党の候補者が複数立つことができた。このことが自民党内の派閥闘争を激化させたことは、よく知られている。

たとえば旧群馬3区では、福田派の福田赳夫元首相、中曽根派の中曽根康弘元首相、田中派の小渕恵三氏(後の首相)の3人がトップ当選を目指してしのぎを削った。他の選挙区でも多くの場合、出身派閥ごとに擁立された候補者が、同じ自民党候補と骨肉の争いを演じていた。彼らにとって、敵は社会党などの革新勢力ではなく、他派閥に支援された保守系候補だったのだ。

派閥は、政党間の政権交代が体制転換に直結した東西冷戦時代において、保守党内での「擬似政権交代」を担保する党中党の役割を負っていた。「昔の自民党は右から左まで様々な意見があって、活気があった」といわれるのはこのためだ。

しかし、89年から92年にかけて国際社会で冷戦構造が緩やかに崩壊していくのと同時に、日本国内でも本格的な政党間の政権交代が期待されるようになった。自民党幹事長だった小沢一郎氏が93年に党を割り、非自民政権を樹立して小選挙区制度導入を柱とする政治改革関連法を成立させたのは、そうした国際情勢の変化から、日本の進むべき道をいち早く読み取っていたからだった。

中選挙区制と異なり、小選挙制では1つの選挙区で当選できるのは1人だけだ。だから有権者は「与党か、野党か」の二者択一を迫られる。これにより、解散総選挙は「政権選択選挙」の色彩を帯びた。

小選挙区制の導入は、小沢氏が主導した政界再編とセットで行われることにより、自民党内の派閥間闘争を、政権を賭けた本格的な政党間競争に移行させるはずだった。そのために小沢氏らが用意した舞台装置が「新進党」だった。中選挙区時代に同じ選挙区で議席を争った自民党議員のうち、片方が地元後援会ごと新進党に移籍するケースが全国で相次いだ。新進党は、派閥闘争を政党間のオープンな競争に移行させる役割を負っていたのだ。

新進党解党後、同党に代わって政権交代を目指す野党第一党となったのは、社会党右派と新党さきがけ、日本新党などの議員が中心になって結成した「民主党」だった。環境や福祉を重視し、欧州の「緑の党」に近いスタンスでスタートした同党は、民間労組の支援を受ける民社党など、新進党の残党を受け入れることで勢力を拡大。03年には小沢氏の自由党とも合流し、公明党を除く旧新進党のほぼ全勢力を回収することとなった。

一方、小選挙区制の定着は、自民党の現職がいる選挙区では、保守系の新人は出ることができないという弊害をもたらした。その結果、(松下政経塾出身者に代表される)ポスト冷戦時代の新しい保守主義者たちは、現役の公認候補が少なかった民主党に「受け皿」としての活路を求めた。

こうして民主党は、自民党に対抗し得る「もう一つの保守党」への道を着実に歩んできた。既に民主党所属議員の3分の2近くが旧党派に属したことのない「ポスト55年体制」の世代だという。

ただし、中央政界での大幅な世代交代に比べ、地方政界では依然、労組や市民団体出身の議員が多いのがこの党の実情だ。そのこと自体が悪いというのではないが、2大政党の片方の支持基盤としては、労組や市民団体は、あまりにウイングが狭すぎる。地方社会はいまだ農漁業や建設業、自営業者などの生産者が中心だからだ。

民主党の政策は、労働者、消費者、都市生活者に受けがいいが、そうした階層の人口比率は日本全体の3分の1程度ではないか。自民党が都市型政党にシフトしていくにつれ、農村部で民主党への支持が伸びているとはいえ、保守色の強い農村部では、まだ民主党への抵抗感が強いのも事実だ。

自民VS新進の2大政党が、中選挙区時代の保守VS保守の対立構図から生まれた「下からの政界再編」だったのに対し、自民VS民主の2大政党は、新進党の解党という中央政界の要因によって生じた「上からの再編」だった。

自民党や新進党の国会議員がそれぞれ地元に個人後援会を持ち、その下に系列県議や市議、町議が連なるピラミッド組織を形成していたのと違い、民主党国会議員の多くは独自の地方組織を持っていない。そのことが地方政界での民主党の弱さの原因になっている。政権交代可能な2大政党制を実現するには、この弱点を克服する必要があるのではないか。

ところで、前に述べた通り、小選挙区制導入は、冷戦期に自民党内で行われていた「派閥間の擬似政権交代」を「政党間の本格的政権交代」へ移行させる狙いがあった。従って小選挙区下の自民党は、同じ党名ではあっても中選挙区時代の自民党とは似て非なる政党と言っていい。

中選挙区時代の自民党は、派閥連合政党であり、各派閥は事実上、将来の首相候補をトップに担ぐ「小政党」だった。たとえば、「田中角栄氏こそ総理総裁にふさわしい」と思う議員が集まり、田中派を形成し、同志を増やして田中角栄政権の実現を目指す。そのこと自体はごく自然なことだ。

確かに、現金で議員を買収したり、総裁候補がいなくなっても派閥を維持したりと、自民党の派閥には問題もあったが、「○×君を総理にする会」としての存在は、政治結社としての「政党」の原型でもあった。

小選挙区制導入によって、政党は、そうした「首相候補の擁立」という機能を、派閥の手から取り戻すことになった。小泉首相を担ぐ自民党を「自民党小泉派」、前原代表を担ぐ民主党を「自民党前原派」と置き換えれば分かりやすいかもしれない。

小泉首相は、自民党を「中選挙区型」から「小選挙区対応型」へと改造するのに成功した。「鉄の結束」を誇ったかつての派閥のように、現在の自民党は一致結束した政策集団に変質しようとしている。

それを「小泉首相の独裁体制」と批判する意見も根強いが、派閥の親分が右と言えば右と従うのは当たり前のことだ。それが嫌ならば、派閥を割って出ればいい。田中角栄氏の政治手法に反発した議員が、対立する福田派に移籍したように、小泉自民党に反対ならば前原民主党に移ればいい。小選挙区時代の政党は、かつての派閥と同じであって、政党間の往来をためらうことはない。

その意味で、本来、郵政民営化法案に反対した議員は、自ら自民党を離党し、民主党に移るべきだったと思う。自民党内にとどまりながら、党総裁を批判し続けるのは、中選挙区時代の発想だ。造反議員の選挙区に「刺客」を送り込んだ小泉氏の手法は、小選挙区時代の政党党首として、むしろ筋が通っていた。

問題なのは、自民党を除名された(または離党勧告を受け離党した)議員たちが、いつか復党したいがために、前言を翻して郵政法案に賛成したことだ。しかし、彼らの選挙区には、もう既に新しい自民党支部長が存在するのだ。それならば潔く最大野党たる民主党に移籍し、小泉内閣打倒を目指すのが、政治家としての筋ではないか。

民主党の側も、郵政政局で除名された元自民党議員や、刺客に負けて落選した前議員に、積極的に入党を呼び掛けるべきだろう(造反議員ではないが加藤紘一氏などは今の自民党より民主党の方が似合っているとさえ思う)。選挙区で自民党と対立する政治家を巻き込んでこそ、はじめて「下からの政界再編」は可能になる。保守系だからと敬遠するのでなく、政権交代実現の大義のために「反小泉」勢力の結集を最優先すべきではないか。

地方政界では、まだまだ中選挙区時代の「派閥間対立」のしこりや、自民VS新進の保守2大政党のなごりが残っている地域も多い。民主党は、そうした各地域の事情をうまく取り入れながら、地方での反自民保守勢力との共闘を目指すべきだ。冒頭で紹介した「地域政党」構想が何を意味するのか現時点では明らかでないが、それが民主党の地方組織強化の第一歩となることを期待したい。(了)


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1 コメント

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毎日新聞から (山川草一郎)
2005-12-27 17:34:49
<民主>目標700人設定で党所属県議の「倍増計画」



 民主党は07年の統一地方選に向け、都道府県議の「議席倍増計画」に乗り出した。年明けにも候補擁立の数値目標を各都道府県連に提示し、現在約330人いる所属都道府県議を、約700人に倍増させることを目指す。統一選後に行われる参院選に向け「党の足腰を強化する」(前原誠司代表)狙いだ。

(毎日新聞) - 12月23日18時19分更新
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