広島での女児殺害事件で、逮捕されたペルー人容疑者の弁護人が記者に囲まれ、インタビューに応じている風景を何度かテレビで観た。少し前なら弁護士はマスコミの取材を受けなかっただろう。守秘義務があるため、法廷の外でペラペラ喋ることをよしとしない空気が、日本の法曹界にはあったからだ。
一方、マスコミはマスコミで、警察発表を鵜呑みにして「容疑者は容疑を認めている」などと報じて平気だった。まあ、警察に拘束されている被疑者に直接取材するのは不可能だし、被疑者に接見できる立場の弁護人が取材を受けなかったのだから、警察の情報に頼るのも無理からぬ話ではあった。
しかし、警察の発表がいつも真実とは限らないことは、松本サリン事件などで今や誰もが知る事実となった。警察が間違った場合、警察発表を信じて無実の市民を犯人に見立てて報じたマスコミも同罪、警察の共犯である。
警察の取り調べでいったん自白した容疑者が、公判で一転して無実を主張し、冤罪が証明されたケースもある。リーク情報で世論を誘導しようとする捜査当局に、被疑者本人が抵抗するのは難しい。釈放された後で報道の実態を知ったとしても後の祭りである。
ならば被疑者に接見できる立場の弁護人こそが、被疑者の名誉と人権を守るため、本人の言い分をマスコミ向けに代弁するべきではないか。思えば、米国のニュースなどでは警察署の前でインタビューに応じる弁護士の姿をよく見かけたものだった。
捜査当局との「情報戦」に対抗しながら、起訴前の被疑者の権利を守る。日本の弁護士にも、そうした意識が定着しつつあるのかもしれない。〔了〕
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【追記】本エントリーについて、現役記者、現役弁護士、元検事の方から関連するエントリーのトラックバックを頂戴した。それぞれ、ご自身の立場からの鋭い観察で、興味深い。
「ニュースの現場で考えること」さんは、マスコミの立場から「容疑者の言い分」報道の意義を強調しながらも、その取材目的を見失わない節度ある取材姿勢がマスコミ側にも必要だとして、次のように説く。
こうした意見は、「法と常識の狭間で考えよう」さんと(強調を置く部分に違いはあるものの)基本的に共通する。弁護士である筆者は、「容疑者の言い分」報道の意義を認めながらも、取材者側が求めているのは「言い分」ではなく「生々しい肉声」に過ぎないのではないか、と疑問を投げ掛ける。
以上のご意見は大いに考えさせられるものだ。私自身、広島事件の弁護士が堂々と取材に応じている姿に「新しい時代の弁護士」像を見た気がしたし、警察官や検事も(親しい記者に囁くのでなく)堂々とテレビカメラの前で主張すべきだと思うのだが、そこで喋られるべき内容は、また別の問題だと思う。
広島事件では当初、容疑者が容疑を否認していたから、弁護士が取材に応じて「被疑者が否認している」ことを公(おおやけ)にする行為は、報道の主導権を捜査当局に奪われないよう釘を刺す意味があった。特に容疑者が事情の分からない外国人の場合は当局に誘導されやすいし、ゴビンダ事件(東電OL殺害事件)のように海外逃亡の恐れから拙速な立件が行われやすい。そうした場合は、被疑者の潔白主張に、より慎重な注意が払われてしかるべきだと思う。
とはいえ、今回の事件は、途中段階からペルー人被疑者が容疑を認め、具体的な供述を始めたようだ。この時点から弁護士の会見は、マスコミにとって「容疑者の言い分を聞く場」というより、「取り調べのブリーフィング」のように扱われるようになったとも思われる。そもそも、弁護士が記者に話したのは「接見」の内容だったのか、警察官や検事の取り調べに立ち会った際の「供述」だったのか、報道では判然としない。
「悪魔が入ってきた」などの言葉には、マスコミは飛び付きやすい。そのままで新聞の見出しになるし、何より読者、視聴者の関心を引く。しかし、容疑者が容疑を認めてしまった以上、弁護士がその言葉を敢えて記者に披露する必要はなかったかもしれない。記者から「警察は、容疑者が『悪魔が入ってきた』と供述していると言っているが、本当か」と聞かれて、事実確認するぐらいならいいが、自発的に紹介しても容疑者にメリットがあるとは思えない。
「容疑者の言い分の代弁」か、ただの「ブリーフィング」か。その判断基準は結局、弁護士の話す内容が容疑者にとって有利かどうかにかかっているのではないか。その点、報道をうまく利用しようとする警察や検察に比べて、長く「広報戦略」を意識して来なかった弁護側は、まだまだ無防備だ。マスコミの側が常に「何を報道すべきか」を考えておくことも重要だろう。
以上のような考え方は「元検弁護士のつぶやき」さんが、元検事としての経験も踏まえて書かれた次の一文に、既に言い尽くされているようだ。
どれも重要な示唆を含むご意見である。拙文を補う意味でも、ぜひトラックバック欄からそれぞれの元エントリーをたどって頂きたい。(12月12日)
一方、マスコミはマスコミで、警察発表を鵜呑みにして「容疑者は容疑を認めている」などと報じて平気だった。まあ、警察に拘束されている被疑者に直接取材するのは不可能だし、被疑者に接見できる立場の弁護人が取材を受けなかったのだから、警察の情報に頼るのも無理からぬ話ではあった。
しかし、警察の発表がいつも真実とは限らないことは、松本サリン事件などで今や誰もが知る事実となった。警察が間違った場合、警察発表を信じて無実の市民を犯人に見立てて報じたマスコミも同罪、警察の共犯である。
警察の取り調べでいったん自白した容疑者が、公判で一転して無実を主張し、冤罪が証明されたケースもある。リーク情報で世論を誘導しようとする捜査当局に、被疑者本人が抵抗するのは難しい。釈放された後で報道の実態を知ったとしても後の祭りである。
ならば被疑者に接見できる立場の弁護人こそが、被疑者の名誉と人権を守るため、本人の言い分をマスコミ向けに代弁するべきではないか。思えば、米国のニュースなどでは警察署の前でインタビューに応じる弁護士の姿をよく見かけたものだった。
捜査当局との「情報戦」に対抗しながら、起訴前の被疑者の権利を守る。日本の弁護士にも、そうした意識が定着しつつあるのかもしれない。〔了〕
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【追記】本エントリーについて、現役記者、現役弁護士、元検事の方から関連するエントリーのトラックバックを頂戴した。それぞれ、ご自身の立場からの鋭い観察で、興味深い。
「ニュースの現場で考えること」さんは、マスコミの立場から「容疑者の言い分」報道の意義を強調しながらも、その取材目的を見失わない節度ある取材姿勢がマスコミ側にも必要だとして、次のように説く。
凶悪事件は今も昔もある。それぞれの事件は、凄惨で、言葉に尽くし難いほどにひどい。しかし、メディアは私的制裁機関ではないはずだ。被害者の人権も省みず、被疑者の調べが適正かどうか等にも大きな関心を払わず、ただひたすら、事件はセンセーショナルに扱われるようになってきた。
現場で取材する記者個々人の気持ちは、必ずしもそれに組していないと思うけれど、外から見れば、報道全体がひたすら「事件をあおる」方向で走ってきたことは否定できないと思う。「あるべき事件報道の姿」は、なかなか総括的には表現できないが、少なくとも、どこかで舵を切らないと、2006年度から始まる容疑者段階での弁護士取材も、うまく運ばないような感覚を持っている。
こうした意見は、「法と常識の狭間で考えよう」さんと(強調を置く部分に違いはあるものの)基本的に共通する。弁護士である筆者は、「容疑者の言い分」報道の意義を認めながらも、取材者側が求めているのは「言い分」ではなく「生々しい肉声」に過ぎないのではないか、と疑問を投げ掛ける。
確かに、それまで、捜査機関から提供される情報だけに依拠して、犯罪報道がなされた結果、常に、「犯人視」報道がなされてきていたことを考えると、弁護人に対する取材を通して、被疑者の言い分を報道することには一定の意義があった。
ただ、最近のマスコミは、弁護人についても、被疑者の「肉声」や「様子」に関する情報を得るための単なる取材源の一つに過ぎないと考えているように思える。そのために、被疑者やその弁護人の置かれた立場を考えないで、とにかく、弁護人に対して、根掘り葉掘り、質問責めにするという傾向があるように思われる。
以上のご意見は大いに考えさせられるものだ。私自身、広島事件の弁護士が堂々と取材に応じている姿に「新しい時代の弁護士」像を見た気がしたし、警察官や検事も(親しい記者に囁くのでなく)堂々とテレビカメラの前で主張すべきだと思うのだが、そこで喋られるべき内容は、また別の問題だと思う。
広島事件では当初、容疑者が容疑を否認していたから、弁護士が取材に応じて「被疑者が否認している」ことを公(おおやけ)にする行為は、報道の主導権を捜査当局に奪われないよう釘を刺す意味があった。特に容疑者が事情の分からない外国人の場合は当局に誘導されやすいし、ゴビンダ事件(東電OL殺害事件)のように海外逃亡の恐れから拙速な立件が行われやすい。そうした場合は、被疑者の潔白主張に、より慎重な注意が払われてしかるべきだと思う。
とはいえ、今回の事件は、途中段階からペルー人被疑者が容疑を認め、具体的な供述を始めたようだ。この時点から弁護士の会見は、マスコミにとって「容疑者の言い分を聞く場」というより、「取り調べのブリーフィング」のように扱われるようになったとも思われる。そもそも、弁護士が記者に話したのは「接見」の内容だったのか、警察官や検事の取り調べに立ち会った際の「供述」だったのか、報道では判然としない。
「悪魔が入ってきた」などの言葉には、マスコミは飛び付きやすい。そのままで新聞の見出しになるし、何より読者、視聴者の関心を引く。しかし、容疑者が容疑を認めてしまった以上、弁護士がその言葉を敢えて記者に披露する必要はなかったかもしれない。記者から「警察は、容疑者が『悪魔が入ってきた』と供述していると言っているが、本当か」と聞かれて、事実確認するぐらいならいいが、自発的に紹介しても容疑者にメリットがあるとは思えない。
「容疑者の言い分の代弁」か、ただの「ブリーフィング」か。その判断基準は結局、弁護士の話す内容が容疑者にとって有利かどうかにかかっているのではないか。その点、報道をうまく利用しようとする警察や検察に比べて、長く「広報戦略」を意識して来なかった弁護側は、まだまだ無防備だ。マスコミの側が常に「何を報道すべきか」を考えておくことも重要だろう。
以上のような考え方は「元検弁護士のつぶやき」さんが、元検事としての経験も踏まえて書かれた次の一文に、既に言い尽くされているようだ。
マスコミ対応に関する弁護士のあり方としては、積極論と消極論があるわけですが、積極論の考え方の背景には、事件の社会性というものを意識しているのではないかと感じられます。
被疑者・被告人の利益との関係で言えば、報道内容や世間の目というものが検察庁の処分や判決に影響を及ぼす可能性というものを考えているのではないでしょうか。
それに対して消極論の考え方は、裁判というのは法廷における審理に基づいて裁判官がマスコミや世論の動向とは関係なく、法と証拠に基づいて裁判されるべきであると考えているように思われます。
いわゆる職業裁判官による裁判を前提にする限り、消極論が理念的に正当であるとしてより多くの支持を得られたかもしれませんが、裁判員制度の導入を前提に考えますと、現実論としてはそうも言っていられないように思います。
一般市民である裁判員が事前の報道内容や論調の影響をかなり受けることは不可避であるからです。
そうなりますと、事件報道が、ほとんど警察・検察からの情報のみに依存し、警察・検察による世論誘導を可能にしている現状は極めて憂慮すべき事態です。
どれも重要な示唆を含むご意見である。拙文を補う意味でも、ぜひトラックバック欄からそれぞれの元エントリーをたどって頂きたい。(12月12日)
私は、このような雰囲気の中で、証拠のみを見て無罪に札を入れることができる陪審員は存在しないだろうと思います。
そういうわけで、私は裁判員制度に反対なんです。
被害者の弁護のあり方も、時代とともに変化していく必要がありますね。一般市民に社会の問題意識を促す意味でも、陪審員制度の導入は重要な気がします。
本件とは別ですが、山川さんは皇室典範改正問題についてどうお考えでしょうか?
山川さんの意見を読んで見たいと思っています。
雷辺境公さん、お久しぶりです。皇室典範改正問題について私の意見は明確です。新たにエントリーを立てましょう。