八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

〝コロナウイルス禍〟と〝特攻〟とは?~戦時下と現在の日本人~

2020-05-02 18:56:22 | エッセイ
 5月になりました。一年で一番いい季節と言っていいでしょう。

 ツツジにサツキにバラ、黄菖蒲に藤、芍薬に杜若、ライラックの紫もきれいだし、赤やローズピンクのカーネーションも咲き誇っています。
    
 そして鳥たちも活発です。
 近くに多摩川が流れ、森の多い地域であるので、わたしの家の近くまで、メジロやホオジロ、センダイムシクイにコゲラやウグイスがやって来て、運がよければカワセミの姿も見ることができます。
             
 そんないい季節でありながら、〝STAY HOME〟のかけ声と呪縛(?)に、誰もが従わざるを得ない。みんな「コロナウイルス禍」のせいだ。そうあきらめざるを得ない。

 テレビもネットも、マスメディアには連日、ネット著名人からコメディアン・芸能人、スポーツ選手が、入れ替わり立ち替わって〝STAY HOME〟を呼びかけています。
 それら著名人のなかには、もともと閉域であるネット世界のなかで自己実現を遂げた人もいて、その人にとっては〝STAY HOME〟がなにも苦にならないのでしょうし、呼びかけに賛同している芸能人もスポーツ選手も生活に困る人たちとは思えず、だからこそ「家に籠もろう!」と問題意識も持たず自信を持って呼びかけたりできるのでしょう。
 しかし、テレビやネットで呼びかけているこうした人たちに、はたしてそれを語る資格ってあるのか? もしかしてボランティア風に見えて、勘ぐると、これはいい儲け話ではないのか。そんなことへの自責とかはないの?

 じっさい「STAY HOME」と言われても、多くの人びとは、そんなことで済ませる状況の人ばかりではありません。自殺者と思わしき人びとも出てきました。失業率が1%増加すると、これまでの統計だと2400人程度の自殺者が出るとされています。もうかなりの失業状態に人びとは置かれているのではないか。
 最近では飲食店ばかりがテレビなどで取り上げられますが、スポーツクラブのインストラクター、学費を稼ぐために必死にバイトしている学生、派遣、パートの主婦、工場での非正規労働者、いろんな事情で風俗系の仕事をせざるをえなくなった女性、とにかく仕事を失った、補償はなにもない、やりがいを失った、そんな人の前で、こうした彼ら彼女ら著名人の訴えは、むしろ〝脅迫〟〝恫喝〟のようにも聞こえてくるのではないかと思います。

 ところで、そんな状況のなかで、これまで「歴史」を生業にして、さまざまなことを語ってきたわたしが、どうしても実感としてつかめなかったことがあったのですが、それが今回の「コロナウイルス禍」の世相を見ることで、酷薄なまでに見通すことができた感じがしています。
 それは1930年以降の「アジア太平洋戦争」のなかで、あれだけ無謀な戦争、あまりにも理不尽な戦いに、なぜ容易に日本人がのめり込んでいったのかということです。日本人が全体主義(=ファシズムfascism)に雪崩を打って突入した理由はなになのか。
 その理由については、言葉や理屈ではわかっていたつもりでしたが、実感では理解できませんでした。しかしそれが、今回の「コロナウイルス禍」のなかで、おおよそが肌感覚として実感できたように思います。
 一言で述べるなら、それは〝日本人の弱さ・脆さ〟に起因する何かということです。
 関東大震災で行われた自警団(民衆による自主警察)らによる朝鮮人虐殺の惨状をまのあたりにした詩人金子光晴は、「日本人の上っ面がひんめくられて、オラオラといった地金が出てきた」と述べているのですが、その言葉に沿うならば、その地金の根に、日本人の〝脆弱さ〟があるということ。そんなことが、今回の「コロナウイルス禍」のドタバタのなかで見えてきたように思います。
 言い換えるなら、〝困ったときはお互い様〟などという上っ調子な情緒がメリメリと剥がされて、弱さゆえの強情で傲慢、自分さえよければいい、人を傍若にも小馬鹿にして差別排除する下卑た品性が表通りを闊歩する。それが実感されたと言ってもいいのかもしれません。
 
 「コロナウイルス禍」は世界の人びと、もう少し狭く見て、日本人にとっても「全体的」な〝危機〟と言っていいでしょう。つまり、阪神大震災や東日本大震災のように、ある意味、地域的に限られた危機とは性質を異にして、戦後初めて、日本人は世界とともに「全体的」な〝危機〟に直面したと言えます。
 そのなかで、いかに日本人が〝危機〟にたいしてタフじゃないのか、耐性がないのか。
 たしかに21世紀に入ってからの、ここ数年の日本人の姿を見るならば、ことさらに「恐怖」に弱かったように思います。たとえば、すぐ〝絆〟などという情緒的な言葉を持ち出し、原発の被害に真っ正面から取り組もうとしなかった。日本の形骸化した社会体制や教育制度に変革のメスを入れるのに怖がって、そのまま何十年も放置してきた。言い換えれば、日本人は、いまどきの若者の姿を見るまでもなく、社会変革や自身が傷つく可能性のあることに、臆病でずっと〝怖がり〟だったふうにも見えます。
 そのなかで、今回の「コロナウイルス禍」の〝危機〟を前にして、そのツケが、とりわけ気持ちの弱い者、心の脆い人びとのなかから、情緒的にまた過激にも浮き上がっている。そう思えるのです。

 そのひとつが、昨日今日には〝自粛警察〟などともいわれるようになった、人びとの視野狭窄的で異常なほど悪意となって肥大化した〝攻撃性〟です。とにかく人を攻撃して安心したい。正義に身を寄せたい。
 他県ナンバーに目を光らせ、見つけるとその車に傷をつけていやがらせをする。高速道路での監視。余所者、とりわけ東京からなどというと、ほぼ〝ウイルス〟〝ばい菌〟のように扱う。
 さらにパチンコ屋やライブハウスを目の敵(かたき)にする。飲食店に〝自粛〟しろと張り紙や無言電話、恐喝するなどして圧力をかける。
 宅配便の人に、いきなりアルコール消毒液を噴射したり、マスクをしない子どもはコロナをまき散らす元凶だと騒ぐ。スーパーに人がいっぱいだという理由で〝三密〟だと騒ぎたてる。
 これには、政治的な〝ポピュリズム〟のなかで権力を得た小池東京都知事をはじめとする神奈川、大阪、千葉などの首長の、自身への〝強権的ヒロイズム〟に対する抑制の効かなくなったあざとい行動が、大きく影響していると考えてもいいでしょう。
 なんの科学的根拠もなく、〝ロックダウン〟などといった激しい言葉をさらりと言いのける。自身の立ち位置の高みを取るのがうまいとしか言いようのない振る舞い。
 そして、補償を不言にして営業しているパチンコ店を「悪」と決めつけ、名前を公表するとまでする。一見「正義」に見える「私権」への抑圧を強権が行う。どこまで事業者を説得したのか。
 結果として、そうした振る舞いが〝脆弱〟な人びとの心の皮膚に粟粒を浮き出させていく。
 事実、先日スーパーで、子どもを連れた母親が、店員に正論を振りかざすように、〝三密〟じゃないの、どうにかしてよとヒステリックに大声で叫んでいるのを見かけました。老人がマスクをしない子どもを、お前らが「コロナ」まき散らしているんだと騒いでいる姿も見ました。 
 状況はともあれ、「三密」を防ぐことが、何よりの正義だ。若い人が無症状でウイルスをまき散らしている。年寄りはそのウイルスで重篤になって死に追いやられる。だから、子どもを叱る。
 このように、あまりにも短絡的な言説がまき散らされ、脆弱な心性のなかで不安に膨れ上がった〝攻撃性〟がのさばっている状況がここにはあります。

 二つめに、危機に弱い人びとは、〝嫌中〟や〝嫌韓〟にうつつを抜かす人びと同様に、容易に「仮想敵」をつくって排斥し安心しようとする。中国が悪い! 武漢ウイルスだ! 忖度官僚が悪い! アベノマスクが悪い! 
 その情緒的な上っ調子さは、まさに何かの〝金科玉条〟的なお墨付きをえようとする卑しさが後ろに控えていて、悪いのは「WHO」のテドロスだ! まさにそれはトランプ米大統領のやり口ですけど、そんな「正義正論」に自身の身をおきたがる。それで安心したいという〝脆弱〟さが透けて見えてきます。
 はたして相手を「仮想敵」とする根拠はどこにあるのか。おそらくはネット記事や書き込みを故意に鵜呑みにする。あるいは流行っているもの時流に乗っているものに乗っかって、安易に溜飲を下げようとする。
 しかも、そうした「仮想敵」への批判や恨みを、濾過されていない猥雑で暴力的なネット空間のなか、矯激な言葉でSNSでまき散らす。それで安心しようとして、自己検証などは考えない。
 すくなくとも政治家が一方的なTwitterで発信することは止めるべきかと思います。政治家は自身の地の言葉で、相手に語るところに価値があってしかるべきではないのか。言葉への責任の厳格性をTwitterは削ぎ落としてしまうと言ってよく、またSNSの短文では、なにを根拠に、どう調べてその言論が担保されているのか。まるでつかめない。結局、物議を醸し出す派手な立ち回りと見せ方だけの、あるいはネット炎上での効果しかない。

 たしかにいまの安倍晋三政権の、マスクにしろ、10万円の補償にしろ、そうしたもたつきは、もともとは習近平の来日、オリンピックの実施、インバウンドなどという浮ついた小金儲けに目がくらんで、「コロナウイルス禍」の対策に腰が引け、さらに誰からも文句の出にくい「学校一律封鎖」に無理矢理突っ込み、「緊急事態宣言」を出しながら、自分らの金でもないのに、その補償を渋り、とにかく〝見栄え〟ばかりを意識した政策と運営そのものに原因があります。
 おまけに「アベノマスク」は怪しげなもので、「アサヒノマスク」への的外れの攻撃、すぐムキになるありよう。そしていまもまだその状況が続いていることに辟易とさせられていますし、もっと言えば、今すぐでいいから「政権交代」すべく、すべての組織が動き出すべきではないかと思いますが、しかし、まずそれはここではおくとして、いま必要なのは、勢いや時流に乗るのではなく、また絶対自分に跳ね返ってこない、安心できる「遠い敵」への攻撃に快哉を叫ぶのではなく、立ち止まって、自分自身のなかにこそ、ほんとうの「敵」が存在しているのではないかという内省だと思うわけです。 

 そして最後に、人びとの〝脆弱〟さが見て取れるのは、過剰な同情や無定見を計算高く隠蔽した〝寄り添う〟というありようです。
 よく言われるようになったのは、医療看護を担っている人を「リスペクト」しろ! 彼ら彼女らは、命がけでやっているんだ! 感謝しろ!
 医療現場の現実を聞きかじっただけで、すぐに「正義」の御旗に掲げる。とりあえず、そう言っておけば、だれからも批判されない。それを口にすることで、自分を「正義正論」の立ち位置に置けるという爽快な気分。
 よく周りを見渡してみると、わたしたちもそうした薄っぺらな情緒で、自分自身を安全なところに置いている可能性があります。ほんとうに現場を知っているのか。安易なより添いだけでなく、過酷な現実をどのように痛みとしてわかっているのか。もしかして、批判からの隠れ蓑と自己保身、それとまさに自分こそが、正義なのだという過剰な振る舞いをしてはいまいか。
 
 そうしたいま現在の様子と「アジア太平洋戦争」のなかで見えてくるのは、ひとつに「現下の情勢」だの「時局」だと言いつのり、国家の方針に不服従だったり、違背したとみなした人びとに、いまどきの「自粛警察」さながらに、「あいつはアカだ!」「敵性音楽を聴いている!」「非常時なのに高そうな服着てる!」「供出物を出さない!」「男、女と話している!」・・・。
 そうやって、「国家」のありようや自身の言説に疑いをまったく持たない。ただひたすらに「国家」の方針、時流に添って、他者の権利や自由、それぞれが、どんな事情だったのか、それを見ない考えない考慮しないで「正義正論」を振りかざす。じぶんの〝脆弱〟さを隠すためにも優位に立つこと狙う。
 そして、よく知りもしない「英米」を仮想敵国としてでっち上げ、アメリカ人はみんな享楽的で根性ができていないなどといった根拠の乏しい、いわば観察もせず不確かな理由をとってつけて、周囲を惑わし、自らの過ちや欠落を誤魔化し、嘘をつく人びとのありよう。
 さらに、若者が戦闘機に、あるいは魚雷に乗って、ほとんど効果のない「特攻」を仕掛けたとき、それを起案し実行した無謀で愚鈍でのさばり返っていた軍幕僚や政府官僚、権力を批判せず、〝裂帛の精神〟だの、〝滅私奉公の極み〟などと、権力に迎合し、それを恥じもせず、特攻隊の若者を指嗾し無駄死にさせた人びとの存在。
 そして戦後生き残ったののはいったい誰だったのか。それは一切責任をとらず、安全なところにいて、後ろ手を組んでいた日本人でなかったのか。

 
 脆弱な人びとは、なによりも自身が〝安全〟で、〝危機〟を逃れることを考えます。そのため国家権力の言うなりに、まさに〝自粛警察〟のような攻撃に血道を上げて、「仮想敵」をでっち上げて溜飲を下げ、過剰な同情や同調、鼓舞することで、「命がけ」などという言葉をまき散らし、自分の立ち位置を高めて、浅薄な「正義正論」に身を委ね、苦しさから逃れようとします。
 そして、物事が済んでしまうと、そうした自己をふりかえることなく、さっさと忘れてしまう。その意味で、この「コロナウイルス禍」のなかでいま見えてきている状況は、まさにさきの「アジア太平洋戦争」での〝地金が剥き出し〟になった日本人とじつによく似てきていると言えます。

 はたして歴史上、〝危機〟に対して日本人は、こんなにご都合主義的で脆弱だったのか? わたしが見るに、それはもしかして「近代」「現代」になってより顕著になってきたのではないかという気もします。
 それとともに、現在に生きるわたし自身も、もしかしてそも三つの〝脆弱〟のどれかに引っかかっているのじゃないか。考えなくてはなりません。
 
 今回のブログは、これで終わりにしますが、最後に長めの一言。

 さいきん時間に任せて、鎌倉時代の幕府の正史ともいうべき『吾妻鏡』をつらつら読んでいて、ふと気がついたことがあります。

 この鎌倉からの中世という時代は、飢饉に疫病、天変地異、戦乱が、それこそ頻繁かつ連年続いている時代でした。とりわけ、「コロナウイルス禍」と同様な疫病の流行で、多くの人びとは死に絶え、ニューヨークの「コロナウイルス患者」の死亡者の如く、疫病の拡大が怖れられ、それぞれの遺体は選別や区別されることなく、みんなまとめられて地中や荒野に投棄されるような状況でした。
 しかしながら、そのなかで人びとが生き延びることができるよう、ほんらい奴隷制は幕府の禁ずるところだったのですが、生きる手段として、裕福な者が飢餓に瀕した人びとを奴隷として買い取って、労役を課す一方で、生き延びさせ、食うための手立てをすることを幕府は「養育の功労」として許しているのです。
 そして飢饉が終わり、人びとが奴隷となった家族を取り戻したいときは、買い取られた金銭を幕府が援助することで、奴隷の身分から解放するといったことが記されているのです。
 詳しくは、つぎの機会にまたお話ししますが、そうした飢餓からいかに生き延びるかについて、ときの政治権力は、なにも傍観していたのではない。むしろ、その状況下やその時々の通念から、さまざまな手立てを生み出していたと言えます。

 長くなりました。まずは〝生き延びること〟が大事なことだと思います。この反省を、のちの時代に伝える意味でも、〝生き延びる〟ことが大切で、世界もまた、いまそれが急務になっているかと思います。
 人類は、これまでこうした〝危機〟をどのように生き延びたのか。そこには為政者によるさまざまなな施政や手立てもありましたが、それとともにその悲惨さを乗り切る民衆の〝覚悟〟もあったこと。現在もいずれ「歴史」となります。
 そう考えると、いまの日本人の〝脆弱〟なありよう、恐怖からの安易な出口探し、政治権力へのすり寄り、情緒的な正義の振りかざしは、困難から脱却する意味でも、また歴史的に考えてみても、けっして正しいありようではないと言わざるを得ません。
 とりあえず、もう一度、わたしたちは自らの〝脆弱〟さにきちんと向き合うことが必要なのかもしれません。それがのちの時代に歴史として伝わる意味のように思います。

 一年でもっともいい季節、美しい季節のなかで、ひたすら思うことは、なんとかわたしたち自身がこの〝危機〟の前で、無駄な攻撃性を排除し、苦しみを苦しみと感じつつ、他者に優しくなって、ともにこの困難に向き合おうという姿勢にあるかと思います。
 外出自粛のいま、せめて自身の家の周りの風景や町並みに、小さいながらも草花や鳥たち、そして自然や人びとのありように新たな発見があるといいな。そう思っているところです。

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