八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

岩波の『世界』をついに廃棄する日。

2019-08-29 12:25:25 | 思うこと、考えること!
 もうそろそろ夏の気配も終焉を迎えた感がします。
 しかしここ数年の、いやもう10年以上続く「猛暑」「酷暑」「憎暑」、それに先日小田原周辺を車で通行しているときに、1メートル先も見えないほどの「ゲリラ豪雨」の来襲に冷や汗をかいたのですが、ここ数年続く九州や中国地方での水害などなど、だれが考えてもおかしいほどの気候の変動。それと不気味なのはアマゾンの密林での大火災。ここは〝地球の酸素〟の供給源ともいわれる地帯なのですが、これが大火災になる。
 これなどは、どっか地球がおかしくなっている現実そのものなのですが、あまり人びとの関心を引かない。自分たちの後に続く人びとへの配慮や思慮が、社会のなかで醸成されない。自分たちだけが過ごせていれば、それでいい。あるいは日々忙しくて、そんなことを考えることすらできない。
〝滅亡extinctionの予兆〟
 生業として、ながいこと歴史をずうっと見てくると、もう人類は、種としての賞味期限が過ぎていまったのか。そんな気がしてならないときがあります。
 未来への視線が社会に絶えてしまって久しい。せいぜいで自分の子供や家族の漠然とした将来しか思い浮かべない。いい時代なんでしょうね。

 さて、前書きが長くなったのですが、じつは自宅の書庫がもう限界で、1970年代から、つまりわたしが学生だったころからずうっと購読していた岩波の雑誌『世界』を廃棄せざるを得なくなりました。
 『世界』を毎月買い始めたころのわたしは、いっぱしの苦学生で、読みたい本がたくさんあったのに、『世界』のきまった額の支払いは、そんなに楽なものではありませんでした。
 でも読み続けたのは、1970年代に政治的にも文学的にも、新鮮な言葉を駆使していた大江健三郎や小田実、あるいは鶴見俊輔など幅広い書き手のエッセイが読みたかったこと、もうひとつにTK生という人物が岩波の編集部に送ってきたという手紙、『韓国からの通信』を読みたかったこと。
 それでも大学の図書館に行けば、『世界』はいつでも閲覧できたのですが、当時はコピーなどという便利なものはなく、付箋を貼って赤鉛筆で印をつけ、ときにノートにとるということをしていたわたしには、やはり購入するしかなく、それが習い性になって50年近く『世界』をため込んでしまうことになりました。
 それにもう一つ、『世界』を読み続けた理由には、それぞれの時代の変化がどんな風に現れるか、それを見極めたかったという思いもありました。
 それは大江健三郎が、あるエッセイで『世界』はその時々の世界の動きや人びとの精神の彷徨い、現実的actualな社会問題を伝えてくれるとともに、長く読み続けることで、自らの歩みも定点観測のように知ることが出来る。だから長期的に買い続ける意味があるといったことを述べていて、それにかぶれちゃったわけですし、また高校の恩師である尊敬する歴史の先生が、『世界』を読み続ける意味を話してくれたことも大きかったと思います。
 大学生になったら『世界』を読む。なんとなくアカデミズムに近づいたような気分。大学に入学して上京したときから、そんなふうに心に決めて、『世界』を読みはじめた記憶があります。しかしそれをいま廃棄する。
 
 もちろん、古本屋さんに引き取りの件で聞いたり、友人や教え子にも、ほしかったらあげるとメールなど出しましたが、古本屋さん曰く、『世界』はいっぱい出ているので古本としての価値もないし、結局廃棄処分にするので引き取りすらも出来ないという返事。友人教え子は返事なし。
 それでは仕方がないという結論になりました。
 それと、『世界』を廃棄すると決めたのは、書庫がどうにも手狭になったこともありますが、もう一つの原因に、紙面がどんどん〝脱色〟されていく感がしたことも事実です。
 今回、廃棄するに当たって、これまでの『世界』を一通り年代順に眺めていきました。そこでこれはという「号」については保存し、当時自分がどんな風に考えていたかがよくわかる書き込みのあるものも保存しました。
 そんななかでずうっと読み通してみると、紙面の内容が、あまり売れていない雑誌の宿命か、あるいは編集者の意向もあるでしょうが、その時々の「トレンド」に揺れてきて、それだけならいいのですが、書かれている内容も、事件性や事象の分析に終始し、この人いったい何のために書いているのか、つまり体裁や形は整っているのですが、読んでいて記事やエッセイの内容が〝ガツン!〟とこない。そんな記事やエッセイが増えてきた印象になりました。当たっているかどうかはわかりませんが、物事に向き合う〝熱〟が薄れ、ニコニコ笑いながら分析や結論を導き出す。それ自体悪いことではないにせよ、〝軽く〟なったなと思わざるをえませんでした。
 時代的にいうと、1980年半ばから90年代、その期間に『世界』は、ひとつの画期があったのかもしれません。2000年代になると、9・11、3・11などの大惨事を迎え、それなりに論調は変化するものの、一概に知的有名人のエッセイを並べ、かれらの身に纏っている「進歩」的知性を店先で並べている印象がして、やはり岩波は〝権威〟なんだなという、それはなにも岩波に限らず、左翼系の雑誌には、よくありがちなんですが、読み直してみると、そんなここ数年だった印象です。よくいう新人発掘も、まるで自社出版物の番宣みたいな印象だったような・・・。

 いずれにせよ、この土曜日には、資源ゴミとして廃棄します。それとともに、自分のこれまでのありようにもひとつの区切りをつけようと思っています。もっと「身になるもの、心の糧となるもの」、そんなものを妥協せず生みだしていく。
 けっして決意表明というわけじゃないんですが、どうしても『世界』を読み始めていた自分の若いときの記憶が蘇り、感慨が深くなって困るのですが、まずは孤立は免れえないのかも知れないけど、そうでも飲み会はどんどん増やし、人との人的交流は、ネットに頼らず、やっていこうかな。もっといろんな話しを聞こうと思っています。

 ちなみに教え子の中国研究者の手引きで、『中国研究月報』(8月号 中国研究所刊)に、高橋和巳についてのちょっと長めのエッセイを書いています。書店や大学図書館に置いてると思いますので、お手にとってごらんください。

 もう数日で、9月です。最近つくづく思うのは、どうでもいいことですが、ほんとにビールがうまくなる季節は初夏と秋だなと思います。気温が30度超えていては、ビールは、ほんとうの旨味を発揮できない。飲む人の喉に爽やかでありながら〝ガツン〟とくるものではない。
 夏がおわった9月にドイツ・ミュンヘンの市庁舎地下のビアホールでのビールは、ほんとに美味かった。
 きっと、これからいい季節が来ます。 
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