goo blog サービス終了のお知らせ 

続・旅するデジカメ 我が人生

デジカメ片手に 美しい自然を求めて今日も

宇喜多秀家 潜居地 in 鹿児島・垂水市

2016年02月01日 00時00分00秒 | 史跡

道の駅 たるみずより桜島

宇喜多秀家 潜居地

-岡山城主-

鹿児島・垂水市

 

宇喜多 直家(うきた なおいえ)は、戦国時代の武将。

備前国(岡山)の戦国大名。

その子(次男)

宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将・大名。

豊臣政権下の五大老の一人。

Ukita Hideie.jpg

宇喜多秀家の肖像(岡山城蔵)  
参照 ウィキペディア

 

 

天正9年(1581)に父・宇喜多 直家が病死。

天正10年(1582)、

当時宇喜多直家が従属していた織田信長の計らいにより

秀家は幼少ながら本領を安堵され、家督を継いだ。

 

秀家11歳の時

本能寺の変が起こって織田信長が死去する。

このため、秀吉と毛利輝元は和睦することとなり、

秀家はこの時の所領安堵によって

備中東部から美作・備前を領有する大大名にのし上がり、

大国・毛利家の監視役を務めることとなった。

 

秀吉没後、

豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、

文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化した。

関ヶ原の戦いにおいても

秀家は西軍の副大将として

石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。

しかし同じ豊臣一門である

小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した

 

関ヶ原の後、

宇喜多家徳川家康によって

改易(大名の領地を没収し身分を奪う刑罰を意味した)されたが、

秀家は伊吹山中に逃げ込んだ。

その後は変装して

薩摩国の島津義弘などを頼って落ち延び、

牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われた

慶長11年(1606)

秀家公は二人の子供と共に八丈島に流され

八十四余才で没したと言われています。

 

 撮影は2015年2月26日

))

 

 

牛根(鹿児島県垂水市牛根)の潜居地で詠った歌

 

 

 

今日も

最後までご覧頂きましてありがとうございました

明日も皆様のお越しをお待ちしております


山川製塩工場跡と開聞岳

2015年12月22日 00時00分00秒 | 史跡

昭和18年頃から約20年間、
この場所では
伏目海岸一帯(伏目温泉)の温泉熱を利用した製塩事業が行なわれていました。
このような製塩事業は
全国各地で行われていましたが、
最後まで操業したのは指宿地域です。
山川製塩工場跡地のように、
当時の塩田跡と泉源が現存している場所は稀で、時代変遷を伝える価値の高い産業遺構といえます。

指宿市公式観光サイトより

















奇岩竹山


山川砂むし温泉



宮之城 島津家の墓所 in 鹿児島・さつま町

2015年11月28日 00時00分00秒 | 史跡

宮之城 島津家の墓所

鹿児島・さつま町

 

宗功寺公園(そうこうじこうえん)は

慶長8年(1603)頃

領主であった島津氏分家・宮之城家の当主であった島津忠長

菩提寺として建立した「大徳山宗功寺」のあった場所です。

廃仏毀釈により寺が壊され、

今は宮之城島津家の所を鑑賞するための公園となっています。

ここには初代・尚久の墓は無いが、

2代目・忠長(ただなが)の墓~17代目・忠丸までの墓が残っている。

現当主18代目・忠之は

京都ホテルグループの「ホテルオークラ」の社長でもあった
(現在は引退して千葉県に在住)。

 参照 ウィキペディア

 

九州随一の規模を誇る宮之城島津家の墓所

(大名墓の遺跡)

 

この墓所には

35基の墓石と祖先世功の碑があります。

 

 

墓所は家型の特異な墓石などから

鹿児島県指定史跡となっている

 

 

久竹が建てた

祖先世功の碑」は大きな亀の背中に乗っており

その四面の文字を全て解読すると亀が動き出し、

川内川を泳ぎだすと伝えられている。

 

 

 

 

台座の色々な彫刻は中国、琉球文化の影響が見られ

文化財として大きな価値があります

 

 

 

今日も

最後までご覧頂きましてありがとうございました。

明日も皆様のお越しをお待ちしております。


石見銀山 大森地区の町並みを電動アシスト自転車で回ってみた

2015年10月25日 00時00分00秒 | 史跡

銀山は
1526年(大永6年)に
九州博多の豪商神屋寿禎によって発見されて以来、約400年にわたって採掘されてきた日本有数の鉱山です
16~17世紀の約100年間には
大量の銀が採掘され、
大内氏、尼子氏、毛利氏といった戦国大名の軍資金や江戸幕府の財源として使われました
17世紀前半の銀産出量は38tと推定され
世界の1/3を産出していた。

銀山に隣接する
大森地区の町並みから
龍源寺間歩(銀を採掘した坑道を間歩と言う)迄 緩やかな上り道

私は

電動アシスト自転車を借りて(700円)

見てきました





大森代官所跡




熊谷家住宅








その他、町並みを写しています

























道の駅「子守唄の里五木」で蕎麦を頂く in 熊本・五木村

2015年10月16日 00時00分00秒 | 史跡

道の駅「子守唄の里五木」で蕎麦を頂く

熊本・五木村

 

 

熊本県人吉市から

国道445号線を上って五家荘に向かう途中、立ち寄りました。

ここから見る風景は素晴らしく、心が洗われるようでした。

 

 

 

 

 

ママあいたかった

 

 

YouTube

五木の子守唄 山口淑子(李香蘭)

画像上をクリックしてご覧ください

 

(一)
おどま盆ぎり 盆ぎり
盆から先ゃ おらんど
盆が早(は)よ来(く)りゃ 早よもどる

 

(三)
おどんが うっ死(ち)んだちゅて
誰(だい)が泣(に)ゃてくりゅきゃ
裏の松山ゃ 蝉が鳴く

 

(五)
おどんが うっ死(ち)んだば
道端(みちばちゃ)埋(い)けろ
通るひと毎(ご)ち 花あぎゅう

 

(六)
花はなんの花
つんつん椿
水は天から 貰い水

 

 

子守唄公園

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時間は11時半前

隣にあった

「五木のそば屋・五木久領庵」 でザル蕎麦を頂きました。

 

 

 

お豆腐が美味しいと聞きました

 

 

 

 

 

 

お腹がいっぱいになったところで五家荘に向かいました。

 

今日も

最後までご覧頂きましてありがとうございました。

明日も皆様のお越しをお待ちしております。