道の駅 たるみずより桜島
宇喜多秀家 潜居地
-岡山城主-
鹿児島・垂水市
宇喜多 直家(うきた なおいえ)は、戦国時代の武将。
備前国(岡山)の戦国大名。
その子(次男)
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将・大名。
豊臣政権下の五大老の一人。
天正9年(1581)に父・宇喜多 直家が病死。
天正10年(1582)、
当時宇喜多直家が従属していた織田信長の計らいにより
秀家は幼少ながら本領を安堵され、家督を継いだ。
秀家11歳の時
本能寺の変が起こって織田信長が死去する。
このため、秀吉と毛利輝元は和睦することとなり、
秀家はこの時の所領安堵によって
備中東部から美作・備前を領有する大大名にのし上がり、
大国・毛利家の監視役を務めることとなった。
秀吉没後、
豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、
文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化した。
関ヶ原の戦いにおいても
秀家は西軍の副大将として
石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。
しかし同じ豊臣一門である
小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。
関ヶ原の後、
宇喜多家は徳川家康によって
改易(大名の領地を没収し身分を奪う刑罰を意味した)されたが、
秀家は伊吹山中に逃げ込んだ。
その後は変装して
薩摩国の島津義弘などを頼って落ち延び、
牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われた
慶長11年(1606)
秀家公は二人の子供と共に八丈島に流され
八十四余才で没したと言われています。
撮影は2015年2月26日
))
牛根(鹿児島県垂水市牛根)の潜居地で詠った歌
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