風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

今井重孝著 『自由の哲学 入門 』

2013-01-25 13:11:17 | 隠された科学
今井重孝教授の「シュタイナー自由の哲学入門」(イザラ書房)を読了した。
コンパクトな一冊だが、大変な力作だと思う。
何よりも、この本を読むことで、
著者自身の「自由の哲学」との取り組みを共にたどることができる。
そのことが非常に貴重なのだ。

平易な言葉で書かれているが、それでも難解に感じられる人には、
第3章「『自由の 哲学』と『自由への教育』」から読んでもらいたい。
いかにシュタイナーの教育理念が、
「自由の哲学」で描かれる「自由な人間のあり方」を目指すのものであるかが、
今井さん自身の理解と言葉で解説されている。

この本がもつ、もう一つの価値は、
著者が現代のさまざまな「自由」をめぐる考え方にも目を向け、
できるだけ今日の文脈のなかでシュタイナーの自由論を捉え直そうとしていることだろう。

シュタイナーは、ヴァルター・ヨハネス・シュタインという人に、
「あなたの書いた本のなかで、千年後も残っている本があるとしたら、どの本だと思いますか?」
と尋ねられたとき、
「それは『自由の哲学』でしょう」と即答したという。

それほどまでに、シュタイナーにとって、
自分が若い頃にこの本のなかで展開した自由をめぐる思考は、
その後の自分のすべての活動のベースになっていた。
そして、現代思想の流れのなかでも、この『自由の哲学 』は一つの古典として評価され、
後世に受け継がれる価値を有しているという自負があったのではないだろうか。
実際、イギリスの評論家コリン・ウィルソンも、シュタイナーを論じた本のなかで、
「もしシュタイナーが『自由の哲学』や自叙伝だけを残して死んでいたら、
ベルグソンと並ぶ現代の代表的な自由主義的思想家のひとりとして評価されていたことだろう」
というような意味のことを書いていたと記憶している。

しかし、ここは同時に、シュタイナー教育をめぐる大きな矛盾が現れてくるところであり、
そのことは今井さんの本を読んでも、否応なく意識にのぼってくる。
今井さんの言葉では、このように書かれている。

「何の外的な基準にもよらず、ましてやイデオロギーや教義によらず、
一人ひとりが自分の体験、自分の感覚、自分の思考、自分の直観、自分の良心、自分の判断に基づいて行動する
自律的人間へと前進していくことが、「自由の理念」であり、「自由の哲学 」なのです。」(65頁)

まさにそうなのだ。しかし、それでは今日のシュタイナー教育のあり方は、
「イデオロギー」や「教義」になっていないだろうか?
シュタイナーの思想と出会い、それに真剣に取り組んでいる人の多くが、
現在、このことに自分自身の「自由の哲学」の問題として直面していると思う。
そこに、ぼくは、今井さんが今、
シュタイナーの「自由の哲学」についての入門書を出版された理由のひとつがあるように受け取っている。

そして、そのように考えたとき、
やはりこの本における最も重要な部分は、
今井さん自身が思考を働かせて、シュタイナーの思考を跡づけていった第2章であると思えるのだ。
そこには、シュタイナー思想を「外的な基準」とせず、自分の主体的な思考によって理解し、
自分の言葉で語り直そうとする著者自身の精神活動が見えてくる。
著者がシュタイナーと繰り広げる対話によって、
この本を手にする読者自身のシュタイナーとの対話的な出会いを可能にしている。

今井さんのように、大学で教育を研究している人が、
このようにシュタイナー思想の原点を踏まえつつ、未来へつながる教育のあり方を探っていることに、
ぼくは大きな力づけを感じるのである。

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1 コメント

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Unknown (norico)
2013-01-26 17:21:21
私は自由という音に、小さいとろから敏感に反応してきた。
なぜかという自分の中から生まれてくる動機は知らないまま、小学校に入って直ぐから、朝礼を牢獄のように感じていたのをいまでもはっきりと思い返す事が出来る。

学校事態を牢獄と認識したのは、中学2年生のときからで、自由を意識したものその頃だったと思う。

しかし、その獄中(笑)にいても、喜びや、光を見いだして謳歌する姿勢があったおかげで、表面上は、大学4年間も含め、合計16年の刑を無事果たす事は出来た。

大人になると、(年齢としての大人という意味だが)牢獄から出所して自由なはずが、そうでない事に気がつき、この時点でようやく一番強固な牢獄は、自分自身の中にある事に気がつき始めた。

牢獄は枠とは、全く異なるもので、
枠は、自由を違った側面から眺めやすくすることや、自由をあえて強調し、フォーカスしやすくできる・・・事など、自由の役に立つものだ、私に取っては。

しかし、牢獄は違う。
自由自体を抹殺する動機に満ちている。

私の牢獄の解体方法は、知る事と、創造する事だった。
この道具は、とても良く機能して、困るとこれを使った。

この作業を繰り返す中で、牢獄の正体は、信念や、刷り込み、思い込みなど、『観念』と呼ばれるものだった。

それは、ドグマのようなものもあれば、単純に、自分の母がうかつにも鵜呑みにしてきた、『昔からこういうものよ』といった、意味の無い習慣的な信念や、支配するために作られた慣習や、たった一度味わっただけで生まれてしまう、個人的な反応による思い込みなどなど・・・
すべて、『観念』と呼ばれるものが、私を縛っているのだ。

自分が自分の責任において自分の人生を創造するという決意なしには、この観念を解体するのは難しいと思った。

何かとの癒着が本当の意味で、無意味だと気がつくには、自分を独立させなければならなかった。
独りで立つ、独りで居る勇気がいる。

弱い自分は癒着を安全や安心と見なし、観念に、簡単に自分を結びつけてしまう。
強くならなければ、、、

自分を強くしてくれるものは、自分との素直で正直な対話だった。

自分は自分を裏切っていることを知り、涙が出た事もある。

人の目を気にしない事は、とても勇気がいった。
人の目を気にして私は簡単に自分自身を裏切った。

今でもその罠に、はまりそうになるが、なんとか、修正できるようにはなってきた。

自由という音は、今でも私の中で最高の輝かしい音色で鳴り響く。

この著書を読んでみたいと思った。
もう既に注文もした。

さらに、「自分を信頼して生きる喜び」の方へ迎えそうに感じた。

もし、真の自由を一人一人が手にした時、キップリングさんのいう、強者となり、その時初めて、左脳の世界でのワンネスを体感できるのではないだろうか?

そんな、嬉しさが私の中を駆け巡った。





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