研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

啓蒙専制の特徴

2007-07-20 23:00:42 | Weblog
ルイ16世を啓蒙専制君主という文脈から再評価するというのが近年の動向である。啓蒙専制という概念は、実は最近けっこうリバイバルしている。特に超国家的組織、国際的組織に対する批判への反論として使われている。「なるほど世界政府のようなものは民主的ではないかもしれないが、啓蒙専制という考え方もあるじゃないか」と。「国民国家がもたらす戦争や貧富の格差という現実を前に、民主的要素を担保できないという理由で、現状の悪を放置するよりは、民主的要素がなくとも悪を是正し得る方が良いのではないか」と。

プラトンの『国家』には哲人王という概念が示されている。プラトンによれば政治体制は五つに分類される。それは、「王政(一者による善き政治)」、「貴族政(少数者による善き政体)」、「僭主政(一者による悪しき政治)」、「寡頭政(少数者による悪しき政治)」、「民主政(多数者による悪しき政治)」の五つである。多数者による善き政体というのはプラトンの場合存在しない。もちろんプラトンが理想としたのは、哲人王による一者支配である。

啓蒙専制というのは、このプラトンの哲人王の理想をもっと現実的な形にしたものではないかというのが理論家の主張にある。つまり、哲学者が統治者になることは現実にはないが、統治者が哲学者になることはできる。つまり、「世界政府」のような観念も、それが民主的ではないからといって、そう否定すべきものではないかもしれないと。特に「右傾化」とかいう状況に対して、リベラルな世界観が説得力を現実世界で持ちにくくなるほど、啓蒙専制という言葉が魅力を持ってくる。

超国家的機関についてはよく分からないので保留する。ただ、啓蒙専制についてだけ言うと、日本語の語感が示すほどに強い存在でもないのではないかと思う。というのは君主が啓蒙的になるというのはどういうことかというと、伝統的勢力にとってみれば保護者として「甲斐性なし」になっていくプロセスなわけである。ルイ16世の場合で言えば、貴族の免税特権の廃止などに示されるように、君主が自分たちの擁護者たり得なくなっていく過程である。では民衆の側から君主が敬愛されるかというと、まったくそうはならない。ソ連のゴルバチョフ書記長によるペレストロイカやグラスノスチの事例が示すとおり、民衆に攻撃の材料を与えるだけに終わることになる。結局君主は、貴族たちの信任を失ったところに、民衆の攻撃を受け、改革そのものを取りやめるか、政権そのものを失うかという状態になる。当然後継者は育たない。

鎌倉幕府の末期以来、「御恩」が施せなくなると体制側は必ず正論を振りかざすと相場が決まっている。「民でできることは民で」、「努力に応じた報酬を」、「国際基準」、「生き方の多様性」、「閉鎖性の打破」、「各人の自立」、「自助努力」、「自己責任」・・・。何のことはない面倒をみられなくなりましたという話である。「猫と犬が仲良くしているということは、エサを与える飼い主に不満があるのだろう」と私のうろ覚えによればツヴァイクが『ジョゼフ・フーシェ』の中で言っていた。この飼い主がナポレオンのように明確な人格を持っていればいいのだが、「社会構造」のような目に見えない存在だった場合、道徳の頽廃という現象が現れる。

リスクを個人化するなら国家には何の存在意義もないではないか。国家とは個人のリスクを社会化する機関である。だからレス・プブリカ(市民が公共のために献身する状態)が可能になる。この社会化できる範囲が国境であり、境界の外が外国である。そもそも「責任」というのは共同体に対してしか負いようがない。逆にいうと、共同体に属していない人は責任を負っているはずがないし、共同体から恩恵を受けていない人には義務もない。「御恩」と「奉公」がなければ、道徳などあり得ないわけで、だからこの関係が成り立ちにくい場合は、宗教が必要になる。倫理である。

リスクを社会化する方法は伝統的には二通りあって、一つは地域の政治ボスがつくる癒着の構造であり、もう一つが福祉国家である。前者の「政治ボス」というのは、ヤクザから政治屋、貴族まで様々であり、「癒着の構造」というのは、多様な意味での御恩と奉公の体系である。これはえてして非効率で腐敗したものになるので、これを打開するためにアリストクラットに属する人々の中から啓蒙専制の試みが生まれる。つまり啓蒙専制の主宰者とは、その性格上、本質的に「甲斐性なし」なのである。彼らはゼニをくれない。