私がはじめてアメリカの地を踏んだのは修士課程を修了してまもなくのころである。科研のあるプロジェクトのいっかんで、指導教官から調査を命じられた。もっとも、それには赤貧生活のなか穴蔵にこもって文献資料ばかり読んでいた私を哀れに思った教官の親心、慈悲という側面があり、最低限の義務さえ果たせば、あとはどのように「調査」を進めるかの裁量は、ほぼ私の自由でよろしいということであった。こうして、私は生まれて初めて外国へ行くことになった。
急に決まって、日程はつまりまくっていた上に、私にはパスポートさえなかった。私は外国に行く方法がまったく分からなかったのだ。その準備作業の悲惨さは、恥ずかしくて言えない。とにかく、私はノースウエスト航空の飛行機に乗り込んだ。エコノミー・クラスで14時間かけてミネアポリスに着き、そこから3時間かけてボストンに行く。もうヘロへロだった。二度とエコノミー・クラスには乗りたくないと思った。肩がぶつかった中国人の中年女性には威嚇されるし、太った中年のアメリカ人女性の客室乗務員のガサツさにはビビリまくった。腰から背中が耐え難いほどしんどく、トイレはいつも待たされた。しかし、「奴隷船に乗せられたアフリカ人よりは1億倍マシなのだろう」と思い我慢した。
空港に着くと、入管職員に質問を受ける。これが何を言っているのかサッパリ分からない。おかしい。私は、『ザ・フェデラリスト』を英文で読んできた男である。セイバインの『西洋政治思想史』1000ページを英文で読破した男である。私が英語をわからないはずがない。だとしたら、この入管職員の英語に問題があるに違いない。聞くところによると、英語世界では階級によってずいぶん言葉が違うんだそうだ。きっとこいつは下層階級出身に違いない。そう考え、私は事前に読んだマニュアルに「空港では来訪の目的をきかれます」と書いてあったのを思い出し、「我は、ハーヴァード大に調査に来た日本の博士候補生なり」と告げたところ簡単に通れた。次に飛行機に預けた大きな旅行ケースがベルトに乗せられて出てくるのを待ったが、一向に現れない。私はおかしいと思ったが、そこはしょせん毛唐の仕事である。正確なはずがない。別の方向に目をやると、果たして別の便の飛行機の荷物が流れているところで私のやたら目立つ蛍光色のバンドがついたケースが流れてきた。旅行ケースにバンドを巻くのは日本人だけであり、あれは無用心だから止めたほうがいいと言われているが、実際には役に立つ。連中の仕事はいいかげんだからである。ほうほうの体で空港から出て、タクシーに乗り込んだが、タクシーの運転手の英語がサッパリ分からない。おかしい。私はルイス・ハーツやバーナード・ベイリーンを英文で読んできた男である。しかしきっと低賃金労働者の英語は変なのだろうと納得し、地図を見せ、「ここに行け」というと、なんとか着けた。Brookline(ブルックライン。ニューヨークのブルックリンとは違う)というところに行きたかったのだが、どうもここの連中はRを発音しないようだ。宿舎につき、手続きを済ませると、私はガックリと膝をついた。「大丈夫か?」と先々が心配になった。
翌日、ハーヴァードで仕事に着手した。困ったことにインテリにも私の英語は通じない。何故だ?しかし、そこはUniversityである。連中は、外国人用のきれいな英語で対応してくれたし、こちらも通じない単語は紙にその場で書くなりして、なんとかしのぎ、とにもかくにも納税者への義務は果たせそうだった。
そんなこんなで数日が過ぎたある日、ようやく周囲を見渡す余裕ができると、ケンブリッジ界隈の日本人を含むアジア人の多さに驚いた。非常に面白いのだが、日本人は日本人を見ると、あからさまに無視する。他のアジア人が、仲間同士で固まるのに対して、日本人は同化競争をする。日本人の外国での犯罪が少ない理由はこの辺にあるのだろう。日系移民の研究の勘所はこの辺なんだろう。それにしても冷静に観察すると、いろいろ見えてくる。そこにいる「アジア系」は、母国語では抽象概念を扱えない途上国の大金持ちの子女か、発音はやけに流暢だが、日本語で高度な思考活動をできない中学生レベルの知性の日本人バイリンガルばかりだった。そういう連中が嬉しそうにハーヴァード大の手のひらの上で遊んでいる。まさに、アングロ・サクソンの世界愚民化政策の拠点であると確信した。言語をガッチリ支配し、外国人にはTOEFL的オーラル・コミュニケーションを強いて思考力を奪うことの恐ろしさをまざまざと見せつけられた。学部時代、司馬遷の『史記』で漢文を勉強し、『大鏡』で古文を勉強することに熱中した経験をもつ私には、TOEFLE的なるものの恐ろしさがよく理解できた。私は、猛烈な嫌悪感に襲われ、とにかくハーヴァードでの仕事を要領よく片付けて時間を作ってはハーヴァード大から逃げ出した。
そもそも私には用事があった。ジョン・ハンコック、サミュエル・アダムズ、ジョン・アダムズに会いたかったのである。みんな200年以上前に死んでいるが。私は、毎日彼らの墓、彼らの住んでいた家、旧マサチューセッツ議会、ボストン港、セイラム魔女裁判跡、ブレイントリー、クインジー、バンカーヒル・・・・と、歩きに歩いた。ボストン美術館で建国者たちの肖像画を延々と眺めていた。ブレイントリーやクインジーで、まる一日たたずんでいたこともある。そこは今でもとてつもない田舎である。というか、ピューリタンがひっそりと息を殺して住んでいるような薄気味悪い土地であった。200年前は本当に何にもなかったんだろう。ここでアダムズは、イギリス帝国と戦う腹をどんな風に固めたんだろうかとずっと考えていた。また、ポール・リビアが、イギリス軍の侵攻を知らせるために馬で駆けた行程を自分の脚で辿ってみた。ポール・リビアは、ここで間違いなく便意を催したはずであると仮説を立ててみたりした。イギリス軍の襲撃を辛くも逃れたジョン・ハンコックのドキドキする鼓動を想像してみたり、ミニットマンたちのガクガク震える膝を想像してみたりした。バンカーヒルの夕暮れは、本当に血のように真っ赤だった。日本とは湿度が違うのだろう。見たこともない夕暮れだった。脚が棒のようになり、体力が限界に近づくと、書店を探し、歴史書を片端から買い込み、ゼイゼイいいながら再び革命家たちの墓場に向かい、真っ暗になるまで彼らが何かを私に語りかけるのを待った。そして宿舎に帰り、明け方まで本を読んでいた。金だけは潤沢にあったので、ひたすら本を買い集め、宿舎にこもり本を読んでいた。アメリカに行ったのに、そこにいるアメリカ人にはぜんぜん用がなかった。大学の書庫以外には、現代のハーヴァード大に関心がもてなかった。ボストンの町から注意深く過去を探し出し、そこを歩いた。そして部屋にこもり本を読んでいた。
私は、英会話が不得手だが、実はそれ以上に方向音痴である。ある日、ボストンの渋い古本屋のうわさを聞きつけ、そこに向かう途中で道に迷った。道で地図を広げ、それをクルクルまわしながら検討していると、地元の白人の老婆が実に親切に手を貸してくれようとした。彼女にも分からなかったらしく、彼女は周囲を歩く人々を呼びとめては、私の地図を覗き込ませた。わらわらと集まった10人ほどのボストン人に囲まれ、私は場所をつきとめた。おかげで、私はすっかりそこの人たちが好きになった。書店につくと、そこにはベンジャミン・フランクリンにそっくりな老人が嬉々として本を立ち読みしていた。彼は私を見つけると、「お前は中国人か」と失礼なことを聞いてきた。私は不快の念も隠さず、「我は日本人なり」と応えた。そして「あなたはフランクリン博士か」と問うと、老人は狂喜し、何かをまくし立てたが、何を言っているのか分からない。とにかく連れ立ってイタリア料理屋に入り、フランクリンとジョン・アダムズはなぜ仲が悪かったのかを語り合った。私がまともに話した唯一のアメリカ人が、このフランクリンのそっくりさんである。
こうして私のはじめてのアメリカ滞在が終わった。見事なほど生のアメリカ人と縁をもたずに過ごした。死者とばかり語り合っていた。ただ、調査活動だけはしてのけたし私の役にはたった。学位を求めての正式な留学ではなく、長期出張だったので、これでよかったのだと思うことにした。学位は日本でとることに決めた。それと同時に、責任あるインテリとしては、やはり英語をものにしなければならないと思った。私は、英文の読み書きはできたが、英会話には興味がなかった。無知な毛唐と話しても仕方ないと本気で思っていたし、外国語など本当には身につかないはずだと思っていた。それは、自分自身が使う日本語の深さを考えれば明らかで、同じような深さが外国語にもあるはずだからである。外国語に苦痛を感じないのは、母語での言語世界が貧困な人々に違いないはずなのである。だから、もっぱら専門の分野に限定し、正確に読むことに特化していた。研究会などで、外国人と専門分野の議論をする分にはそれで十分だった。しかし、現地の日本人たちをみるにつけ、こうは言っていられないと思った。
人間は、13歳から20歳くらいの間に抽象的思考力を身につける。このときに、どれだけ深く長く考えることが出来たかが、後の思考力のすべてである。この時期に、使用言語を変えると、思考活動が言語習得に飲み込まれ、哲学的思考力が育たなくなる。帰国子女に、考えの浅い人間が多いのはこのためである。英会話とは、いかに中学生レベルのことをすっと言えるかがすべてなのだから当然である。しかし考える力を身につけるためには、この時期は何語であれ、単一言語を徹底し、外国語は文法と読解に限定すべきである。外国語は、あくまで母語での思考力を強化するために利用されるべきである。英会話が完璧な帰国子女が、英文の哲学書をまったく読めないのに対して、英会話ができない日本人の名門大学の学生が辞書を引きながらでも内容を正確に理解できるという風景はよく目にする。しかし、現代社会で有用とされているのは、残念ながら前者なのである。
これはまずい。日本の高貴なる文化が、アングロ・サクソンによって壊滅させられてしまう。グローバル・スタンダードという愚民化政策は凄まじい勢いで進行している。ここにおいて、私は英会話の勉強をしようと思った。外国人から日本を守る仕事は、軽薄なバイリンガルでは無理である。彼らの英語ではアメリカのインテリと対等になれないのである。彼らの英語は、植民地住民の英語なのである。およそ独立国のインテリの英語ではない。支配民族が考える土人が使えると便利な英語なのである。だから今の流れでは、英語が流暢な人間の数が増えれば増えるほど、日本は衰亡する。なぜなら土人の度合いが強化されるからである。フランクリンが言うように「空の袋はたたない」のである。空っぽの英語という器に、外国の価値観が入ったら一巻の終わりである。これを防ぐには、日本語世界で読書し考え抜いた人間が英語を道具として自由に使えなければならない。外国語を身につけるにはきつい年齢にさしかかり、私はハード・ワークを決意した。
もちろん、専門の研究はそれ自体が目的である。国籍の問題ではない。その専門分野の推進に人生をかけている。しかし、こと英会話については、私の場合、愛国心である。
急に決まって、日程はつまりまくっていた上に、私にはパスポートさえなかった。私は外国に行く方法がまったく分からなかったのだ。その準備作業の悲惨さは、恥ずかしくて言えない。とにかく、私はノースウエスト航空の飛行機に乗り込んだ。エコノミー・クラスで14時間かけてミネアポリスに着き、そこから3時間かけてボストンに行く。もうヘロへロだった。二度とエコノミー・クラスには乗りたくないと思った。肩がぶつかった中国人の中年女性には威嚇されるし、太った中年のアメリカ人女性の客室乗務員のガサツさにはビビリまくった。腰から背中が耐え難いほどしんどく、トイレはいつも待たされた。しかし、「奴隷船に乗せられたアフリカ人よりは1億倍マシなのだろう」と思い我慢した。
空港に着くと、入管職員に質問を受ける。これが何を言っているのかサッパリ分からない。おかしい。私は、『ザ・フェデラリスト』を英文で読んできた男である。セイバインの『西洋政治思想史』1000ページを英文で読破した男である。私が英語をわからないはずがない。だとしたら、この入管職員の英語に問題があるに違いない。聞くところによると、英語世界では階級によってずいぶん言葉が違うんだそうだ。きっとこいつは下層階級出身に違いない。そう考え、私は事前に読んだマニュアルに「空港では来訪の目的をきかれます」と書いてあったのを思い出し、「我は、ハーヴァード大に調査に来た日本の博士候補生なり」と告げたところ簡単に通れた。次に飛行機に預けた大きな旅行ケースがベルトに乗せられて出てくるのを待ったが、一向に現れない。私はおかしいと思ったが、そこはしょせん毛唐の仕事である。正確なはずがない。別の方向に目をやると、果たして別の便の飛行機の荷物が流れているところで私のやたら目立つ蛍光色のバンドがついたケースが流れてきた。旅行ケースにバンドを巻くのは日本人だけであり、あれは無用心だから止めたほうがいいと言われているが、実際には役に立つ。連中の仕事はいいかげんだからである。ほうほうの体で空港から出て、タクシーに乗り込んだが、タクシーの運転手の英語がサッパリ分からない。おかしい。私はルイス・ハーツやバーナード・ベイリーンを英文で読んできた男である。しかしきっと低賃金労働者の英語は変なのだろうと納得し、地図を見せ、「ここに行け」というと、なんとか着けた。Brookline(ブルックライン。ニューヨークのブルックリンとは違う)というところに行きたかったのだが、どうもここの連中はRを発音しないようだ。宿舎につき、手続きを済ませると、私はガックリと膝をついた。「大丈夫か?」と先々が心配になった。
翌日、ハーヴァードで仕事に着手した。困ったことにインテリにも私の英語は通じない。何故だ?しかし、そこはUniversityである。連中は、外国人用のきれいな英語で対応してくれたし、こちらも通じない単語は紙にその場で書くなりして、なんとかしのぎ、とにもかくにも納税者への義務は果たせそうだった。
そんなこんなで数日が過ぎたある日、ようやく周囲を見渡す余裕ができると、ケンブリッジ界隈の日本人を含むアジア人の多さに驚いた。非常に面白いのだが、日本人は日本人を見ると、あからさまに無視する。他のアジア人が、仲間同士で固まるのに対して、日本人は同化競争をする。日本人の外国での犯罪が少ない理由はこの辺にあるのだろう。日系移民の研究の勘所はこの辺なんだろう。それにしても冷静に観察すると、いろいろ見えてくる。そこにいる「アジア系」は、母国語では抽象概念を扱えない途上国の大金持ちの子女か、発音はやけに流暢だが、日本語で高度な思考活動をできない中学生レベルの知性の日本人バイリンガルばかりだった。そういう連中が嬉しそうにハーヴァード大の手のひらの上で遊んでいる。まさに、アングロ・サクソンの世界愚民化政策の拠点であると確信した。言語をガッチリ支配し、外国人にはTOEFL的オーラル・コミュニケーションを強いて思考力を奪うことの恐ろしさをまざまざと見せつけられた。学部時代、司馬遷の『史記』で漢文を勉強し、『大鏡』で古文を勉強することに熱中した経験をもつ私には、TOEFLE的なるものの恐ろしさがよく理解できた。私は、猛烈な嫌悪感に襲われ、とにかくハーヴァードでの仕事を要領よく片付けて時間を作ってはハーヴァード大から逃げ出した。
そもそも私には用事があった。ジョン・ハンコック、サミュエル・アダムズ、ジョン・アダムズに会いたかったのである。みんな200年以上前に死んでいるが。私は、毎日彼らの墓、彼らの住んでいた家、旧マサチューセッツ議会、ボストン港、セイラム魔女裁判跡、ブレイントリー、クインジー、バンカーヒル・・・・と、歩きに歩いた。ボストン美術館で建国者たちの肖像画を延々と眺めていた。ブレイントリーやクインジーで、まる一日たたずんでいたこともある。そこは今でもとてつもない田舎である。というか、ピューリタンがひっそりと息を殺して住んでいるような薄気味悪い土地であった。200年前は本当に何にもなかったんだろう。ここでアダムズは、イギリス帝国と戦う腹をどんな風に固めたんだろうかとずっと考えていた。また、ポール・リビアが、イギリス軍の侵攻を知らせるために馬で駆けた行程を自分の脚で辿ってみた。ポール・リビアは、ここで間違いなく便意を催したはずであると仮説を立ててみたりした。イギリス軍の襲撃を辛くも逃れたジョン・ハンコックのドキドキする鼓動を想像してみたり、ミニットマンたちのガクガク震える膝を想像してみたりした。バンカーヒルの夕暮れは、本当に血のように真っ赤だった。日本とは湿度が違うのだろう。見たこともない夕暮れだった。脚が棒のようになり、体力が限界に近づくと、書店を探し、歴史書を片端から買い込み、ゼイゼイいいながら再び革命家たちの墓場に向かい、真っ暗になるまで彼らが何かを私に語りかけるのを待った。そして宿舎に帰り、明け方まで本を読んでいた。金だけは潤沢にあったので、ひたすら本を買い集め、宿舎にこもり本を読んでいた。アメリカに行ったのに、そこにいるアメリカ人にはぜんぜん用がなかった。大学の書庫以外には、現代のハーヴァード大に関心がもてなかった。ボストンの町から注意深く過去を探し出し、そこを歩いた。そして部屋にこもり本を読んでいた。
私は、英会話が不得手だが、実はそれ以上に方向音痴である。ある日、ボストンの渋い古本屋のうわさを聞きつけ、そこに向かう途中で道に迷った。道で地図を広げ、それをクルクルまわしながら検討していると、地元の白人の老婆が実に親切に手を貸してくれようとした。彼女にも分からなかったらしく、彼女は周囲を歩く人々を呼びとめては、私の地図を覗き込ませた。わらわらと集まった10人ほどのボストン人に囲まれ、私は場所をつきとめた。おかげで、私はすっかりそこの人たちが好きになった。書店につくと、そこにはベンジャミン・フランクリンにそっくりな老人が嬉々として本を立ち読みしていた。彼は私を見つけると、「お前は中国人か」と失礼なことを聞いてきた。私は不快の念も隠さず、「我は日本人なり」と応えた。そして「あなたはフランクリン博士か」と問うと、老人は狂喜し、何かをまくし立てたが、何を言っているのか分からない。とにかく連れ立ってイタリア料理屋に入り、フランクリンとジョン・アダムズはなぜ仲が悪かったのかを語り合った。私がまともに話した唯一のアメリカ人が、このフランクリンのそっくりさんである。
こうして私のはじめてのアメリカ滞在が終わった。見事なほど生のアメリカ人と縁をもたずに過ごした。死者とばかり語り合っていた。ただ、調査活動だけはしてのけたし私の役にはたった。学位を求めての正式な留学ではなく、長期出張だったので、これでよかったのだと思うことにした。学位は日本でとることに決めた。それと同時に、責任あるインテリとしては、やはり英語をものにしなければならないと思った。私は、英文の読み書きはできたが、英会話には興味がなかった。無知な毛唐と話しても仕方ないと本気で思っていたし、外国語など本当には身につかないはずだと思っていた。それは、自分自身が使う日本語の深さを考えれば明らかで、同じような深さが外国語にもあるはずだからである。外国語に苦痛を感じないのは、母語での言語世界が貧困な人々に違いないはずなのである。だから、もっぱら専門の分野に限定し、正確に読むことに特化していた。研究会などで、外国人と専門分野の議論をする分にはそれで十分だった。しかし、現地の日本人たちをみるにつけ、こうは言っていられないと思った。
人間は、13歳から20歳くらいの間に抽象的思考力を身につける。このときに、どれだけ深く長く考えることが出来たかが、後の思考力のすべてである。この時期に、使用言語を変えると、思考活動が言語習得に飲み込まれ、哲学的思考力が育たなくなる。帰国子女に、考えの浅い人間が多いのはこのためである。英会話とは、いかに中学生レベルのことをすっと言えるかがすべてなのだから当然である。しかし考える力を身につけるためには、この時期は何語であれ、単一言語を徹底し、外国語は文法と読解に限定すべきである。外国語は、あくまで母語での思考力を強化するために利用されるべきである。英会話が完璧な帰国子女が、英文の哲学書をまったく読めないのに対して、英会話ができない日本人の名門大学の学生が辞書を引きながらでも内容を正確に理解できるという風景はよく目にする。しかし、現代社会で有用とされているのは、残念ながら前者なのである。
これはまずい。日本の高貴なる文化が、アングロ・サクソンによって壊滅させられてしまう。グローバル・スタンダードという愚民化政策は凄まじい勢いで進行している。ここにおいて、私は英会話の勉強をしようと思った。外国人から日本を守る仕事は、軽薄なバイリンガルでは無理である。彼らの英語ではアメリカのインテリと対等になれないのである。彼らの英語は、植民地住民の英語なのである。およそ独立国のインテリの英語ではない。支配民族が考える土人が使えると便利な英語なのである。だから今の流れでは、英語が流暢な人間の数が増えれば増えるほど、日本は衰亡する。なぜなら土人の度合いが強化されるからである。フランクリンが言うように「空の袋はたたない」のである。空っぽの英語という器に、外国の価値観が入ったら一巻の終わりである。これを防ぐには、日本語世界で読書し考え抜いた人間が英語を道具として自由に使えなければならない。外国語を身につけるにはきつい年齢にさしかかり、私はハード・ワークを決意した。
もちろん、専門の研究はそれ自体が目的である。国籍の問題ではない。その専門分野の推進に人生をかけている。しかし、こと英会話については、私の場合、愛国心である。